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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

特別編  メキシコの国章

堀田英夫

国旗 Bandera nacional

メキシコの国旗は、左から緑、白、赤の3色旗で、白の中央に、鷲(わし)が羽根を半ば拡げ、サボテンの上に左足で立ち、右足で蛇(へび)をつかみ、その蛇を嘴(くちばし)でくわえている。サボテンはウチワサボテン(nochtli)で、石(tetl)を表す絵文字から生えていて、石の絵文字の両側には絵文字で水(atl)を表す形が出てい(1)。また2本の枝が一番下でリボンで結ばれていて半円形になって下から囲っている。この図柄は、メキシコの国章である。
 この図柄がいつから国章として使われるようになったのか見てみると、鷲とサボテンの要素は以前からあったけれども、鷲がくわえている蛇は、国章として使われるようになってから定着した要素のようである。

国章 Escudo nacional

メキシコの国としての象徴である国章(Escudo)、国旗(Bandera)と国歌(Himno)が、法律 Ley sobre el escudo, la bandera y el himno nacionales(国章、国旗及び国歌に関する法律. 1984年, 最終改訂2010年)によって詳細が規定されている。この法律の第2条に、国章を構成する要素として、戦う姿勢の鷲(わし)、岩の上に咲いたサボテン、鷲がつかんでくわえている蛇、楢(なら)と月桂樹の枝などについて記述されてい(2)。また第6条に国章を使用する範囲を規定している。貨幣、公的なメダル、印章、公文書など、それに大統領の公用車、連邦、州、地方自治体の公文書のみに使用できるが、私的文書での使用は禁止されている。
 サボテンの上に止まり蛇を食べている鷲の姿は、アステカ文明の担い手であったメシーカ人(mexica)がテスココ湖の中の小さな島にテノチティトラン Tenochtitlán (現在のメキシコ市)を建設し始めた時の神話を表している。

テノチティトラン創建の図像

アストラン(Aztlan)という土地を出て、長年各地を流浪していたメシーカ人は、「石の上の生え出たサボテンを探せ。その上に一羽のひじょうに美しい鷲が、翼をひろげて朝日を浴びているはずである。その地こそ汝らの町を建設すべき場所であると思え。その町は、やがて他のすべての都市に君臨し、世界に冠たる名を得るだろう」(増田 1974, 1977 p.56)というウィツィロポチトリ神の予言を受けて探し回り、テスココ湖の中の島、現在のメキシコ市の場所に、サボテンに止まる鷲を見てテノチティトランを建設した。
 流浪の民であったメシーカ人が、テノチティトランという都市国家を創り、周辺の都市国家と同盟し、戦争し、支配していって、やがてメソアメリカの広大な地域を支配下におさめ、アステカ王国を築いたのである。その栄光の出発点ともいえるテノチティトラン創建は、メシーカ人にとって、重要な意味を持ち、後の時代まで神話として伝承されていったことは容易に想像できる。
 テノチティトラン創建神話は、征服前の彫刻の図像、征服後に作成されたいくつかの文書(códice)や絵に表されている。それらを見ると、鷲とサボテン、石、水の要素についてはほぼ共通しているけれども、鷲がくわえる蛇は共通して表されているわけではない。創建の年も、"2 calli"(2 家)、すなわち西暦1325年の他、文書により異説がある。


征服前の彫刻

神殿の形をした石の彫刻 Teocalli de la guerra sagrada (聖なる戦いの神殿)の背面に、下から上を向く人の口の形から生えるサボテンの上にとまる鷲の浮彫がある。鷲の嘴から出ているのは、蛇ではなく atl-tlachinolli (水-焼かれたもの)を示す絵文字であり、戦争を表すとのこと。刻まれている暦の記号から、Noguez(2021)は、暦が一回りする52年ごとの「新しい火」の儀式が行われた1507年にちなんで製作されたものと示唆してい(3)

TeocalliGuerra Sagrada Teocalli de la guerra sagrada (聖なる戦いの神殿)の裏面の浮彫 (Wikimedia Commonsよりリンクで表示)



征服後に作成された文書や絵

アステカ王国は、スペイン人征服者エルナン・コルテス(Hernán Cortés)によって1521年に征服された。しかし征服後も、メシーカ人の歴史などが、伝統的な絵文字や、スペイン語のアルファベットによるナワトル語、スペイン語で記録され、いくつかの絵文書として残っている。それらの内のいくつかからテノチティトラン創建神話の部分を見てみた。
 1542年に作成されたとされるメンドウサ文書(Códice Mendoza)のスペイン語文、それに絵にも蛇は表されていない。(作成年は (メキシコ国立人類学歴史研究所 I.N.A.H. による)

彼らはそこで大きな岩を発見し、その上には大きなウチワサボテン(tunal)が生えていて、そこにイヌワシが巣をかまえていて、その中には鳥の骨や色々な羽根があった。あらゆる所を歩き回り、そこは肥沃で、生きていくために鳥や魚介類が豊富で、収穫したものを近隣の部族と分かち合えることがわかった。(メンドウサ文書 拙訳 Códice Mendoza folio 1 r. INAHのウエブページの翻字による)

CodexMendoza01 Códice Mendoza (メンドウサ文書) (Wikimedia Commonsよりリンクで表示)


ドミニコ会修道士ディエゴ・ドゥラン(1537-1588)が16世紀後半(1579年)に書いたとされる Historia de las Indias de Nueva España e islas de Tierra Firme すなわち Códice Durán (ドゥラン絵文書)にある絵の鷲は蛇をくわえてい(4)

Códice Durán (ドゥラン絵文書) (出典: Wikimedia Commons)
 スペイン国立図書館(Biblioteca Nacional de España)のBiblioteca Digital Hispánicaで見られる文書ではp.20にこの絵がある。


ただし、文章のテノチティトランの創建について語る部分には蛇が出てこない。小鳥は出てくる。(和訳は拙訳)

Copilを殺し心臓を取り出し、蒲の間に投げ捨てたところ岩の上に落ちた。昨夜のウイツロポチトリのお告げでは、その心臓から美しいサボテンtunalが豊かに生え、その上に美しい鷲が巣を作っている。その場所を探し出せば、我々は幸せで幸運が得られる。その場所こそ我々の安らぎの場所で、我々が落ち着きと偉大さを得られ、我々の名が称賛され、メシーカの国が偉大になる。(p.39)
 サボテンの上に太陽の光に羽根を拡げる鷲を見た。鷲は太陽光から暖と朝のすがすがしさを受け取っていた。また鉤爪で美しい貴重な輝きを見せる羽根の小鳥をつかんでいた。(p.40)
Historia de las Indias de Nueva-España y islas de Tierra Firme(1867, México: Imprenta de J.M. Andrade y F. Escalante), Internet Archive


イエズス会士フアン・デ・トバール(Juan de Tovar 1541頃 - 1626頃)による絵文書では、鷲は、蛇でなく小鳥をつかんだりくわえたりしている。

Códice Ramírez(ラミレス絵文書) 別名 Manuscrito Tovar(トバル原稿)(5)(1583年から1587年の間に作成)(出典:Wikimedia Commons)


The Eagle, the Snake, and the Cactus in the Founding of Tenochtitlan WDL6749 Códice Tovar(トバル絵文書)(6)(1587年6月から1588年4月までに作成)(Wikimedia Commonsよりリンクで表示)


エルナンド・デ・アルバラード・テソソモク(Hernando de Alvarado Tezozómoc 1520~30 - 1610)により1598年に書かれた『メシーカ年代記』CRÓNICA MEXICANA では、鷲(ワシ)が蛇(culebra)を食べてい(7)

悪魔ウイツロポチトリに説得され、現在メヒコ・テノチティトランであるその町に着いた。なぜならこのメシーカの湖に着いた時、その真ん中に、土のある所があり、その中に一つの岩、その上に大きなサボテンがあり、アシ(葦)あるいはヨシ(葦)のいかだ(筏)で着いた時、その場所に、例の石とサボテン、そしてその足元には穴があり、サボテンの上には一匹のを食べ、ずたずたにしている一羽の鷲(ワシ)がいた。そこから苗字、紋章、そして象徴(el apellido, armas y divisa)とした。サボテンと鷲、それはテヌチカまたはテノチティトランで、今日そのように呼んでいる。(第1章) 拙訳

ドミニコ会士フランシスコ・チマルパイン(Francisco de San Antón Muñón Chimalpain Cuauhtlehuanitzin)(1579年-1645年頃)が17世紀初頭に書いた文書(Memorial breve acerca de la fundación de la ciudad de Culhuacán)でも、鷲が蛇をむさぼり食べているところを捜すようにと書かれてい(8)

おお! テヌチ(Ténuch)よ、我々はここにいてもうしばらく経った。直ぐに出発してカヤ(萱)の間、ヨシ(葦)の間、占い師コピル(tlaciuhqui Cópil)の心臓を埋めに行った所を、その心臓がどんな状態になっているか見に行くように。我々の神ウイツロポチトリが私に言っていることによれば、そこでコピルの心臓が増えるだろう。
 おまえは出発するのだ、テヌチであるおまえは見に行くのだ。コピルの心臓から、サボテンが芽吹いたそこで、その上に一羽の鷲が鉤爪で掴んで立ち、を突いて貪り食っている。そしてそのサボテンは、おまえテヌチであろう。そしておまえが見る鷲は、確かに私である。そのことは世界が続く限り我々の名声となる。メシコ・テノチティトランの名声と栄誉は失われることはない。
このことはメシカの王、ウイツィリウイトゥル王(huehue Huitzilíhuitl)の時代、在位55年目に起きた。(拙訳)


以上、少しばかり調べた範囲内では、征服前の図像と征服後の16世紀の文書で、Códice Durán (ドゥラン絵文書)の絵の他は、鷲は蛇をくわえているのではなく、何もくわえていないか、小鳥をつかんでいる。16世紀末のアルバラド・テソソモクの文と17世紀になって書かれたドミニコ会士チマルパインの文では鷲が蛇をむさぼり食べている。
 この違いは各文書の情報源の違いによるためか、伝説に異伝があるためなのか、書かれた時期によるのか、確実なところはわからない。いずれにせよ、メシーカの人々の歴史を描こうとする中で、テノチティトラン創建神話の要素としては、鷲とサボテン、それに石は共通しているが、蛇が含まれるのは伝説の一つのバージョンだったらしいことがわかった。

ヌエバ・エスパーニャ副王領 Virreinato de Nueva España

1535年にアントニオ・デ・メンドーサ(Antonio de Mendoza y Pacheco 1490 o 1493 - 1552)が初代ヌエバ・エスパーニャ副王に任命される。その副王領の現在のメキシコを含む地域を示す紋章として、植民地時代の早い時期から、サボテンの上にとまる鷲の絵が使われていたようであ(9)
 1537年以降、17世紀以降までの加筆がある紋章目録(armorial)で、Colección de manuscritos e impresos genealógicos pertenecientes a los Duques del Parque: armoriales y obras genealógicas という文書で、"Megíco"と記載ある紋章には、緑色のサボテンの上に、両翼を拡げた黄金色の鷲が描かれている。経年変化の色落ちのためか、ネット上の画像のせいか、よくは見えないが口元に蛇が描かれているようにも見える。
 また、Códice Osuna (オスーナ絵文書)にある1559年~1560年のフロリダ遠征の図像では、兵士を引率する馬上の隊長が、サボテンの上に鷲が止まる絵の入った旗を掲げている。オスーナ絵文書は、1535年から1565年の間に作成されたとのこと。これもネット上の画像ではよく見えないが、鷲は小鳥のようなものをくわえているように見える。

 17世紀に建築されたスペインのマドリードにあるブエン・レティーロ離宮(Palacio del Buen Retiro)の王国の間(Salón de los Reinos)にあるメキシコ副王領(Reino de México)は、Núcleo de la Lealtadのサイトにある図像を見ると、サボテンの上にとまっている鷲は何もくわえていない。
 植民地時代、民衆にどの程度知られていたのかはわからないけれども、サボテンの上にとまる鷲の図像が使われていたらしいことがわかった。

独立運動における鷲の図像

独立戦争時の軍旗

1810年9月16日にドローレスの司祭ミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo y Costilla. 1753-1811)は、スペインからの独立を唱え蜂起した。そしてグアダルーペの聖母の像が描かれた幟(のぼり)を掲げてが進軍した。イダルゴと同時に独立戦争を戦っていたイグナシオ・アジェンデ Ignacio Allende (1769 - 1811)はグアダルーペの聖母像の旗に加え、サボテンにとまり蛇をくわえた鷲が描かれた旗も掲げたとのことである。

Insignia de Allende. Gemela con águila mexicana (detalle) イグナシオ・アジェンデの旗 (Wikimedia Commonsよりリンクで表示)


副王軍に破れたイダルゴやアジェンデの亡き後を継いで、メキシコ南部で独立戦争を戦ったモレロス(José María Morelos 1765-1815)の軍旗には、王冠を被った鷲が石橋の上に生えたサボテンの上にとまっている。モレロスの肖像画に書き加えられている紋章には、王冠を被らず、蛇をくわえた鷲がサボテンに止まっている図柄もある。

Morelos War Flag モレロスの旗 (Wikimedia Commonsよりリンクで表示)
OCULIS ET UNGUIBUS AEQUE VICTRIX. と UNUM.は、ラテン語で「目でも,鉤爪でも同じ様に勝利者」と「団結」


スペインの副王軍と戦うために、独立軍は、アステカ王国のかつての栄光を自分たちのものとしようと先住民大衆にも呼びかけるためにテノチティトラン創建神話の図像を旗印にしたと考えられる。ただこの場合も、蛇をくわえた鷲のアジェンデの軍旗と、蛇をくわえていないモレロスの軍旗の違いがある。
 蛇をくわえた鷲のアジェンデの軍旗と、王冠を被った鷲のモレロスの軍旗の違いは、独立のため副王軍と戦った反乱軍が、先住民大衆を率いたイダルゴ+アジェンデの場合と、クリオーリョ(criollo 植民地生まれのスペイン人)も参加させようとしたモレロスの思いの違いかもしれない。

イダルゴの側近だったイグナシオ・ロペス・ラヨン Ignacio López Rayón 1773 -1832)により設立されたシタクアロ会議(Junta de Zitácuaro)(10)、すなわちアメリカ大陸最高国民会議(Suprema Junta Nacional Americana)(1811-1813)は、スペイン国王フェルナンド7世(Fernando VII)の名のもとにメキシコ独立政府として統治することを目指した。この会議(Junta)が鋳造した貨幣に、サボテンの上にとまり王冠を被った鷲の図柄がメキシコの貨幣の歴史上初めて使われた。これ以後、メキシコの貨幣にはデザインや細部は異なるものの、サボテンと鷲の要素は継承されてきた。(BANCO DE MÉXICO 2018:p.10)
 この会議(Junta)のいくつかの紋章の中に、サボテンと鷲の図柄のものがあり、鷲が王冠を被っているものと、王冠はなく蛇をくわえたものとがある。王冠は、君主制の政治体制を含意しているようである。


独立後の国旗

独立後の第1帝政時代(1822-1823)の国旗や貨幣、紙幣に印刷された国章では、鷲が帝政を象徴する王冠を掲げている。蛇はくわえていない。

Bandera del Primer Imperio Mexicano 第1帝政の国旗 (Wikimedia Commonsよりリンクで表示)


Bandera Republia Restaurada Mexico 1846 a 1879 共和国の国旗 (Wikimedia Commonsよりリンクで表示)


 共和国になった1823年には、王冠が取り除かれ、鷲が蛇をくわえた図になる。デザインはいくつかの形の変遷があるけれども、鷲、サボテン、石もしくは岩、水、それに蛇の要素は、基本的に変わらず以後、現代まで続いている。旗の中に王冠を描かれた第2帝政時代の旗でも引き続き蛇は描かれていた。
 鷲、サボテン、石、水、それに蛇の要素を含むメキシコの国章は、メキシコが独立し共和国となってからの歴史を引き継いだものである。


<注>
このページを書くにおいて、
嘉幡茂『図説マヤ文明』2020 河出書房新社. 「コイントスから見るメキシコ考古学」(pp.95-97)
加茂雄三『世界の歴史第23巻 ラテンアメリカの独立』1978 講談社
増田義郎「アステカ文明」『アステカ文明展図録』1974 朝日新聞東京本社企画部 再録:増田義郎「アステカの歴史と文化」『現代のエスプリ アステカとインカ アメリカ大陸の古代国家』1977 至文堂 pp.56-82
『ラテン・アメリカ国情叢書 メキシコ』1968 社団法人ラテン・アメリカ協会
Banco de México Historia de la moneda y del billete en México (2018) (https://periodicooficial.jalisco.gob.mx/content/historia-de-la-moneda-y-del-billete-en-mexico)
Barlow, Roberto y Byron MacAfee, Diccionario de elementos fonéticos en escritura jeroglífica (Códice Mendocino), México, 1949. Universidad Nacional Autónoma de México, Instituto de Historia. Guía oficial. Museo Nacional de Antropología, Instituto Nacional de Antropología e Historia-Salvat Mexicana de Ediciones, S.A. de C.V.,1988.
Jiménez Moreno, Wigberto et al. Historia de México, 1970, Editorial E.C.L.A.L.S.A.,México.
Wikipedia(Español, English, 日本語)のいくつかの項目
http://bibliodyssey.blogspot.com/2007/07/aztec-mexico.html
https://www.emimendoza.com/piedra-del-sol.html
https://www.gaceta.unam.mx/matos-desmitifica-la-fundacion-de-tenochtitlan/
https://www.gob.mx/bancodelbienestar/articulos/historia-de-la-bandera-de-mexico?idiom=es
などを参照した。

(1) メキシコ政府のウエブページによると、緑、白、赤の3色に込められた意味について歴史的に変わってきている。
 メキシコ独立の過程の中で、アグスティン・イトゥルビデ(Agustín de Iturbide 1783-1824)が1821年2月に発表したイグアラ計画の宣言(la declaración del plan de Iguala)では、独立政府が守る3つの原則(garantía 保証)、すなわち、カトリック教の擁護(la conservación de la Religión C. A. R)、独立(la Independencia)、連合(la unión íntima de Americanos y Europeos アメリカ生まれの者とヨーロッパ生まれの者との親密な連合)が宣言されている。そしてその独立政府を支える軍隊がこの3つを象徴する白、緑、赤の3色が斜めに配された旗を軍旗としていた。
 ベニート・フアレス(Benito Juárez 1806-1872)が大統領になると、政教分離の原則から、緑が希望(Esperanza)、白が統一(Unidad)、赤が国の英雄たちの血(la sangre de los héroes nacionales)の象徴とされたそうである。

 石(tetl)とウチワサボテン(nochtli)で、te-noch-と読み、-ti-を介して、場所を示す接頭辞-tlanを繋げると Tenochtitlan テノチティトランという地名になる。
tetl s. Piedra, huevo. 《名詞》石、卵。
nochtli s. Fruto del nopal, o el pripio nopal, cactus que produce un fruto que los españoles llamaron con la palabra caribe tuna. 《名詞》ウチワサボテンの実、ウチワサボテン、スペイン人はカリブ語でツナと呼んだ実を成すサボテン。
tlan posp. Con, después de, cerca, en, debajo, entre, a, etc. ...; con los sutantivos con ayuda de la prt. ti. 《後置詞》~で...; 小詞tiを介して名詞に付く。
Siméon, Rémi, Diccionario de la lengua náhuatl o mexicana(traducción de Josefina Oliva. Siglo XXI Editores, S.A., 1977)
 このSiméon(1977)などを見ると、Tenochiは、メシーカの指導者(在位 1299-1363)の名であり、神格化され、テノチティトランとして地名になったとされる。またサボテンの1種の名(tenochtli Tuna lapidea 岩の間に生える種類)の項目もある。
 また、サボテンと鷲が、大地と天、水と火、月と太陽(la tierra y el cielo, del agua y el fuego, de la Luna y el Sol)の密接な連合を象徴しているとJohansson(2015)は書いている。
Patrick Johansson K.(2015), "La fundación de México-Tenochtitlan. Consideraciones “crono-lógicas", Arqueología Mexicana núm. 135, pp. 70-77.

(2) 「第2条 国章は、1羽のメキシコ鷲からなる。鷲は左側をこちらに向け、両翼の上部を冠羽(かんう)より上に上げ、戦いの姿勢で軽く広げ、風切羽(かざきりば(ね))が尾羽(おばね)に触るぐらいにさがっていて、尾羽は自然の扇状になっている。湖から出ている岩にサボテンが生えていて、花が咲いたこのサボテンの上に、鷲は左の鉤爪(かぎづめ)をのせ、全体と調和がとれるように、右の鉤爪と嘴(くちばし)で、むさぼり食う形で、曲がった蛇一匹をつかんでいる。サボテンのいくつかの葉が両側に枝分かれしている。鷲の前側の楢(ナラ)と、反対側の月桂樹の2本の枝が下側の半円形を形作り、真ん中で1本のリボンで結び付けられている。国章を色付きで表す場合はリボンの3本の帯条を国旗の色で表す。」(拙訳) ARTÍCULO 2o.- El Escudo Nacional está constituido por un águila mexicana, con el perfil izquierdo expuesto, la parte superior de las alas en un nivel más alto que el penacho y ligeramente desplegadas en actitud de combate; con el plumaje de sustentación hacia abajo tocando la cola y las plumas de ésta en abanico natural. Posada su garra izquierda sobre un nopal florecido que nace en una peña que emerge de un lago, sujeta con la derecha y con el pico, en actitud de devorar, a una serpiente curvada, de modo que armonice con el conjunto. Varias pencas del nopal se ramifican a los lados. Dos ramas, una de encino al frente del águila y otra de laurel al lado opuesto, forman entre ambas un semicírculo inferior y se unen por medio de un listón dividido en tres franjas que, cuando se representa el Escudo Nacional en colores naturales, corresponden a los de la Bandera Nacional.
https://www.senado.gob.mx/comisiones/defensa_nacional/docs/LEBHN.pdf

(3) 高さ123cm、幅92cm、厚さ100cmで、1831年にメキシコ市の国立宮殿の改築中に発見され掘り出されたもの。スペイン人によるアステカ王国征服以前に彫られた考古遺物である。現在は国立人類学博物館のメシーカの部屋に展示されている。鷲の口から出ている atl-tlachinolli (水-焼かれたもの)を示す絵文字は、この彫刻表面にあるいくつかの他の人物像(あるいは神)の口から出ているのと同じである。
https://lugares.inah.gob.mx/en/museos-inah/colecciones/piezas/7438-7438-10-81548-teocalli-de-la-guerra-sagrada.html
Noguez, Xavier, 2021, "El Teocalli de la Guerra Sagrada y la fundación de México-Tenochtitlan" Arqueología Mexicana, núm. 169, pp. 75-77.
https://arqueologiamexicana.mx/mexico-antiguo/el-teocalli-de-la-guerra-sagrada

(4) Códice Durán(ドゥラン絵文書)と呼ばれる文書は、Historia de las Indias de Nueva España e Islas de Tierra Firmeという題で、1579年にドミニコ会修道士Diego Durán(1537-1587)により編纂された。
http://bdh.bne.es/bnesearch/detalle/bdh0000169486
http://bdh-rd.bne.es/viewer.vm?id=0000169486&page=1
(5) メキシコ市の聖フランシスコ修道院でJosé Fernando Ramírezによって1856年に発見されたCódice(絵文書)で Relación del origen de los indios que hábitan esta Nueva España según sus Historiasと題されている。Saleh(2011)によるとメキシコのイエズス会士フアン・デ・トバール(Juan de Tovar)により1583年から1587年までの時期に作られたとされている。
フアン・デ・トバールの生没年は、スペインのReal Academia de la Historiaのサイトに1541年–1626年とあり、アメリカ合衆国のLibrary of Congressのサイトに1546年頃 - 1626年頃と、そしてLos pueblos originarios de América というサイトには1543年-1623年とあった。
https://mediateca.inah.gob.mx/islandora_74/islandora/object/codice%3A638
Saleh Camberos, Omar (2011). «Historia y Misterios del Manuscrito Tovar». Revista Digital Sociedad de la Información 35.
 1590年にスペインのセビリャでスペイン語版の全文が公刊されたホセ・デ・アコスタの『新大陸自然文化史』の第7巻第7章「メヒコの創設について」は、Códice Ramírez(ラミレス絵文書)によって書いた(増田 1966: pp.92-93)とされるように、「鷲は爪の間にひじょうに美しい鳥をつかんでいた」(アコスタ p.372)とある。 アコスタ『新大陸自然文化史』下巻. 1966,1972. 岩波書店
増田義郎「新大陸の歴史と文化の記録」,アコスタ『新大陸自然文化史』下巻. 1966,1972. 岩波書店 pp.86-109.

(6) Historia de la benida de los Yndios a poblar a Mexico de las partes remotas de Occidenteという題で、イエズス会士フアン・デ・トバールにより1587年6月から1588年4月までの間に作られたとされる。Códice Ramírez (Manuscrito Tovar) と同じ部分もあるけれど、異なっている部分もあるとのこと。 John Carter Brown Library(アメリカ合衆国ロードアイランド・プロビデンスのブラウン大学キャンパスにある)所蔵
https://jcb.lunaimaging.com/luna/servlet/detail/JCB~1~1~1248~1400005:4a--El-Tunal-con-el-Aguila-que-hall?qvq=q:Codex%20Tovar&mi=49&trs=54

(7) https://www.cervantesvirtual.com/obra/cronica-mexicana-escrita-hacia-el-ano-de-1598-929707/
のEdición digital a partir de México, Editorial Leyenda, 1944と
https://web.archive.org/web/20100326194016/http://www.artehistoria.jcyl.es/cronicas/contextos/11502.htm
のSegún el manuscrito # 117 de la Colección Hans P. Kraus, Biblioteca del Congreso, Washington, D. C., EE.UU. A.とある2つのスペイン語文をもとに拙訳した。

(8) Francisco de San Antón Muñón Chimalpain Cuauhtlehuanitzin, Domingo, Memorial breve acerca de la fundación de la ciudad de Culhuacán, notas, estudio, índice analítico, paleografía y traducción de Víctor M. Castillo Farreras, México, Universidad Nacional Autónoma de México, Instituto de Investigaciones Históricas, 1991, 218 p., mapa (Cultura Náhuatl. Fuentes, 9) www.historicas.unam.mx/publicaciones/publicadigital/libros/memorial/culhuacan.html (consulta: 5 de mayo de 2022)

(9) Alejandro Sierra López, Escudos de ciudades y regiones americanas en el armorial de los marqueses de Torrelaguna (Archivo Histórico de la Nobleza, Ministerio de Cultura y Deporte)
https://www.culturaydeporte.gob.es/cultura/areas/archivos/mc/archivos/nhn/actividades/rincon-de-la-heraldica/torrelaguna-dia-hispanidad.html
Rubial García, Antonio (2011). Los escudos urbanos de las patrias novohispanas. Estudios De Historia Novohispana, (45), 17–46.
https://novohispana.historicas.unam.mx/index.php/ehn/article/view/28084
Image 18 of Painting of the Governor, Mayors, and Rulers of Mexico. Library of Congress, U.S.A. https://www.loc.gov/resource/gdcwdl.wdl_07324/?st=gallery
Tlatoani_Cuauhtemoc @Cuauhtemoc_1521
https://www.scoopnest.com/es/user/Cuauhtemoc_1521/1226333720245702657-importante-imagen-que-procede-del-cdice-osuna-en-ella-aparecen-los-mexicas-que-apoyaron-a-las-fuerza

(10) Junta は、「評議会」「政務委員会」「議会」などと和訳されている。会合のような一般的な意味もあるけれど、歴史上重要なのは、1808年にスペインを侵略したナポレオン軍が、ジョセフ・ボナパルト(José Bonaparte 1768 - 1844)をスペイン王に着けた時、これを認めないスペイン国民が統治機能を持たせて各地で設置したJuntaである。これら複数のJuntaから代表を出してJunta Central(中央評議会・議会)を開き、独立後の政体を決めるため憲法(1812年カディス憲法)を制定した。
 メキシコなど、中南米でもスペインからの独立の過程で、Juntaが設立された。
2022/5/14. - 2023/1/1.

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