2004年7月にメキシコのヌエボ・レオン州(Estado de Nuevo León)の州都モンテレイ(Monterrey)に妻と9泊した。「特別編 国王に謁見」のページに書いたように、モンテレイ工科大学(El Instituto Tecnológico y de Estudios Superiores de Monterrey. ITESM)で開催された国際イスパニア学会第15回大会(XV Congreso de la Asociación Internacional de Hispanistas)の一部として第1回各国イスパニア学会会長会議(el Primer Encuentro Internacional de Presidentes de las Asociaciones de Hispanistas)が開かれ、当時たまたま日本イスパニヤ学会(la Asociación Japonesa de Hispanistas)の会長だった筆者が、この会議に参加するよう、妻同伴で招待されたものである(1)。
会長会議は、スペインからの国際イスパニア学会役員の他に、日本を含め16カ国からの参加である。学会大会6日間の日程に重ねて、会長会議が5日間毎日開催された。前日夕方の州知事公邸(Casa de Gobierno)でのマリアッチの演奏付きの夕食会からはじまり、7日間、連日のように大会関連行事もあった。
会長会議参加者として、スペインの皇太子・皇太子妃への謁見と、昼食会にも参加した。スペインの皇太子夫妻は、5月に結婚してから初めてメキシコを公式訪問されていて、このモンテレイにおける国際イスパニア学会第15回大会の開会に来られていた。
日本、韓国、エジプト、インドからの学会会長としてスペインの新聞El Paísのインタビューを受け、2004年7月22日付p.30にその記事が掲載された(2):
大会関連行事で訪れることができたモンテレイの見所は、モンテレイ工科大学の他、現代美術館(Museo de Arte Contemporáneo, MARCO)、ヌエボ・レオン地方博物館・旧司教館(El Museo Regional de Nuevo León Ex Obispado)、ラ・ワステカ公園(Parque La Huasteca)、それにフンディドラ公園(Parque Fundidora)である。町中のいたるところから見られるモンテレイのシンボル、バットマンの紋章のような形をした山、スィヤ(鞍)の丘(El Cerro de la Silla 馬の鞍の形からの命名)は、天気が良い昼間であればいつでも眺めることができた。
モンテレイのシンボル、スィヤ(鞍)の丘
モンテレイ工科大学(El Instituto Tecnológico y de Estudios Superiores de Monterrey. 通称: Tecnológico de Monterrey, Tec de Monterrey, el Tec)は、ここモンテレイを本拠地とする私立大学である。
広大なキャンパスなので、その一部を歩くことができただけである。現代的な建物が、間隔を空けていくつも建っている。構内には孔雀が何羽か歩いていた。スペインの皇太子夫妻との昼食会は、キャンパス内のCEDESという高層ビル(Edificio CEDES)の最上階(Mirador)で開かれたのだが、かなりの参加者が着席して食事できる広さがあった。
企業家グループにより1943年に創立され、特に経営学や先端科学技術の教育研究に評価が高い総合大学である。メキシコ国内外のいくつかの大学評価機関から高い評価を受けている。メキシコのインターネットへの接続にも、その技術力で、中心的な役割を果たしてきた。また本部のあるモンテレイ以外にもメキシコ国内に30以上のキャンパスがあるとのこと。
また1000巻の蔵書を誇るセルバンテス図書館(Biblioteca Cervantina)がある。蔵書の中には、『ドン・キホーテ』の275もの版、他のセルバンテス作品75の版が含まれている。この蔵書は、カルロス・プリエト(Carlos Prieto)という個人の収集家が、1956年にモンテレイ工科大学に寄贈したものが元となっているとのこと。この図書館が所蔵する1607年から1798年刊行の『ドン・キホーテ』38種類の刊本の目録(扉写真入り)と、1965年印刷のカルロス・プリエト寄贈図書目録復刻、それに4本の研究論文を掲載している『ドン・キホーテの400年』Cuatrocientos años Del Ingenioso Hidalgo(Monterrey, 2004)という箱入りハードカバーの分厚い本を、各国イスパニア学会会長会議参加の記念に贈られた。『ドン・キホーテ』の古い刊本の挿絵も多く載っている。前書きと研究論文の1つは、モンテレイでの国際イスパニア学会第15回大会開催の中心的役割を果たしたアウロラ・エヒード(Aurora Egido)学会会長(当時. スペイン・サラゴサ大学教授。2014年からスペイン王立学士院会員)が書いていて、この本の制作にも彼女が貢献していることがわかる。
学会の開会式(acto de inauguración)は、スペインの皇太子夫妻の臨席のもとモンテレイ工科大学の学生センター(Centro Estudiantil)で初日の午前中に行われた。それに加えて同日夕方7時半から、現代美術館の中で開会に関連する行事が開催された。(招待状にレセプション(recepción 歓迎会)と、予定表に公式開会式(Inauguración oficial)と書かれていた。)赤茶色の現代的な建物の美術館前には数段の階段を登った上に大きなハトの彫刻・モニュメントがある。大勢の人たちが群れなしている中を入口らしい方へ歩いていくと、制服を着た女性が近寄ってきて、大会参加者かどうかたずねられた。名札を見せると入口に案内された。
こちらの行事にもスペインの皇太子夫妻が参加された。こちらでは、皇太子夫妻は気さくに、並んで待った希望者の挨拶を受けてくださった。妻はこの時に列に並んで皇太子夫妻に挨拶し、握手することができた。大学生たちによるメキシコ各地の踊りの披露があった。それぞれの地方の衣装を着ての本格的な踊りだった。
現代美術館は、ウエブページによると、1991年の開館で、ディエゴ・リベラ(Diego Rivera)などのメキシコ現代作家の作品を展示する常設展示室と期間限定の展示を行う11の展示室がある。コンサートなどの文化的なイベントも開催しているそうである。
大会4日目夜8時半から、フンディドラ公園(Parque Fundidora 鋳造)のソプラドレスの庭(Jardín de Sopladores)(3)でメキシコ・パーティー(Fiesta mexicana)が催された。ホテルから会場まで大会参加者は、バスで連れて行ってもらった。フンディドラ公園に行く前、短時間ではあるが、マクロ広場(Gran Plaza o Macroplaza)とラ・ワステカ公園(Parque La Huasteca)に寄っている。ラ・ワステカ公園は、大きな山々や岩山があり、モンテレイ大都市圏の中と東部シエラ・マドレ山脈(la Sierra Madre Oriental)の中にあり、モンテレイ山頂国立公園(Parque Nacional Cumbres de Monterrey)の一部をなす。広場になっているところもあり、周りの岩山を観察できる公園になっている。公園を出る頃に小雨が降り出した。
ラ・ワステカ公園。広場の周りは、非常に高い岩山になっている。
モンテレイでは我々滞在中それまで雨が降ったことはなかったが、フンディドラ公園では、あいにくの本格的な雨の中、運動場のような広い会場の周りに各種のメキシコ料理の屋台と、景品がもらえるゲームのブースがかなりの数立ち並んでいる。学会大会参加者全員をもてなすことができるよう大勢のスタッフが長時間かけて準備したと思われるようなパーティーが用意されていた。しかし予期せぬ大雨の中、段取りが悪くなってしまったのか、大勢の出席者は、傘をさして長い行列を作って並んで待ち、ようやく食べ物・飲物を受け取ることができた。いろいろな種類の食べ物が用意されていたと思うが、我々は、モレ(mole 肉の煮込み)、チーズ(queso)、野菜とご飯(arroz)の料理、レモン(limón)やメロン(melón)のシャーベット(nieve)だけを少し食べた。行列があまり長すぎて食べ物を受け取るのも大変だったし、傘をさしながらの立食で食べにくかったからである。ホテルに帰るバスが夜10時半に出て、ホテルへは11時ごろ帰着した。
フンディドラ公園(鋳造公園)という名前は、鉄鋼鋳造所・製鉄所の跡地を公園にしたからである。1900年にモンテレイ鉄鋼鋳造会社(Compañía Fundidora de Fierro y Acero de Monterrey)が設立された。これはメキシコの製鉄業近代化の第1歩といえるそうで、メキシコ工業化の歴史上、モンテレイは重要な地位を占めている。モンテレイの町も、これらの工場により工業都市として発展してきた。工場拡充などの変遷を経て、1978年に準国営企業になるも、1986年に破産した。1988年に、鉄鋼鋳造所の敷地が収用され、民間と州政府によりフンディドラ公園が作られた。我々が訪れた2004年には、高炉などの鋳造製鉄所時代の建物がいくつか立っていた。
筆者は、1971年-72年に留学生としてメキシコ、ハラパ市に滞在していた際、国境なるものを見たいと思ったのと、メキシコの北方を見るため、休暇を利用して仲間数人と、モンテレイを経由して、ヌエボ・ラレード(Nuevo Laredo)までバスで旅行している。モンテレイを訪れた時に、メキシコの製鉄業の本拠地であるここの鉄鋼鋳造・製鉄所の入口を見に来た。鉄格子の門から中の写真を撮ろうとしていたら、警備員に撮影禁止だからと追い払われたという記憶がある。その時のモンテレイで覚えている唯一のエピソードである。
オビスポの丘(cerro del Obispo 司教の丘)という名の高台の上に、建っているバロック様式の立派な建物である。建物のあるところまでかなり広い階段を何段も登っていく。正面入口のある真ん中はかなり高いドームになっている。大会5日目の夜20時から22時の予定でここで開かれる「詩と音楽の催し物とメキシコ服飾史の展覧会」(Espectáculo poético-musical y Exposición de Indumentaria Mexicana)にやって来た。
詩と音楽の催し物は、椅子が並べてある中庭(patio)で、16世紀から20世紀までの作曲家による曲のチェロ(violoncelo)による演奏にのせて、フアナ・イネス・デ・ラ・クルス尼(Sor Juana Inés de la Cruz 1648(1651)-1695)(4)
の詩の朗読が開かれた。
旧司教館の中庭での詩の朗読会 この日も夕方、イベント開催中に雨が降り出し、写真左端の人は傘を広げている
この旧司教館の建物は、1787年にフランシスコ会の司教によって建てられた。モンテレイの町全体を見渡す高台に位置する石造りの立派な建物なので、メキシコ独立後は、砦として使われ、アメリカ合衆国軍の侵入(la invasión estadounidense)(1846年)、フランスの干渉(la intervención francesa)(1862年-64年)、ベニート・フアレス大統領(Benito Juárez)の4選に対するポルフィリオ・ディアス将軍(Porfirio Díaz)による反乱(la revuelta de La Noria)(1871年)、そしてメキシコ革命(la Revolución mexicana)の戦乱(1913年-1914年)の際、両軍の攻防戦の目標となって激しい戦いが行われたとのことである。
1956年に、ここヌエボ・レオン州の地域の歴史を示す数々の物や文書、絵画などを展示する博物館として開館した。もと司教館だったこともあり祈祷室や聖画、聖具などの展示もある。
ただ我々が訪れたときは,詩の朗読と音楽の催し物のために、展示物をゆっくり見学する時間はなかった。
旧司教館の建物から眺めた景色。遠くはかすんでよく見えない。
QUÉJASE DE LA SUERTE: INSINÚA SU AVERSIÓN A LOS VICIOS Y JUSTIFICA SU DIVERTIMIENTO A LAS MUSAS.
¿En perseguirme, mundo, qué interesas?
¿En qué te ofendo, cuando sólo intento
poner bellezas en mi entendimiento
y no mi entendimiento en las bellezas?
Yo no estimo tesoros ni riquezas,
y así, siempre me causa más contento
poner riquezas en mi entendimiento
que no mi entendimiento en las riquezas.
Yo no estimo hermosura que vencida
es despojo civil de las edades
ni riqueza me agrada fementida;
teniendo por mejor en mis verdades
consumir vanidades de la vida
que consumir la vida en vanidades.