メリダからメキシコ市に国内便で飛び、メキシコ市のホテルで1泊を過ごした翌朝、朝9時の待ち合わせ時間に昨晩と同じガイドのT氏が迎えに来てくれた。午前中テオティワカン遺跡、午後にメキシコ市歴史地区と国立人類学博物館の見学である。
メキシコ市北東約40kmのところにあるテオティワカン遺跡は、「テオティワカンの先スペイン期都市」(Ciudad prehispánica de Teotihuacán)の名称で1987年にメキシコで初めてのユネスコ世界遺産として登録されている。先スペイン期の最も重要な文化遺産の1つであり、メキシコ人にとって国民文化の象徴となっている。巨大な太陽のピラミッドは、メキシコ独立(運動開始)100周年の1910年を機に、時の大統領ポルフィリオ・ディアス(Porfilio Díaz 1830-1915)の主導で復元が行われたそうである。
以後、メキシコの写真というとテオティワカンの太陽のピラミッドを目にすることが多く、外国からの観光客も多くが訪れている。
地名はナワトル語(náhuatl)のTeōtihuácānで、teotia(神格化する,崇拝する <teōtl神) -hua(受身接辞) -can(場所接辞)で、「神々に成された(神格化される)所」(Lugar donde fueron hechos los dioses)あるいは「神々の都市」(ciudad de los dioses)のように解釈されている。この地名や太陽のピラミッド、死者の道などの名も、既に放棄されていたこの地へ、ナワトル語を話すアステカ人が来た時に名付けたものである。それ以前にこの都市を築いた住民がどんな言語でどんな名で呼んでいたのかはわからないそうである。
メキシコ中央高原盆地にあるいくつかの湖のまわりに、人々が住み、やがて中心に神殿を持つ集落群ができた。その中の1つが西暦紀元少し前に、急速に大きくなり、都市計画のもとに、人口約3万人、20km2の居住区域を持つ大宗教都市となった。それがテオティワカンである。
当初、農耕と生活を雨水に依存していた周辺の農民が、神に祈るために集まる場所としての平和な宗教都市であった。やがてメソアメリカ各地方の遠方からも人々が集まるようになり、その人たちとの交易によって富を得るようになった。遠方からは各地の産物や鳥の羽毛などがもたらされ、テオティワカンからは土器や石細工、貝細工が輸出された。これらの品を作る職人集団が形成された。4,5世紀には最盛期となり、人口が10万を超えていた。メキシコ湾岸や、オアハカ州のモンテアルバン、グアテマラのカミナルフユ、ユカタン半島のマヤ地域にもテオティワカンの土器や石細工などの製品が見出され、文化的影響を相互に及ぼしていた。
5世紀以降、戦士による軍事的組織が勃興した。そのため、神官の権威による従来の伝統的な行政体制と、戦士・商人・職人などによる新興の権力機構との矛盾と対立が生まれたと考えられる。そして紀元750年頃、原因は不明だが、大火災が起きている。その後急速に衰退し、没落したそうである(1)。
テオティワカン遺跡で、公開されている考古学地域/遺跡地域(Zona Arqueológica de Teotihuacan)は、264haヘクタール(hectáreas)の広さある。東京ディズニーランドのテーマパークエリアが51haだそうなので、その5倍以上である。遺跡地域を周回する道があり、入口が南西の1番(Puerta 1)から時計回りに、北へ2番、3番、東側に4番と5番がある。1番から入って敷地内を南北に走る「死者の道」(la Calzada de los Muertos Miccaohtli < micca(tzintli)死者 + ohtli道)を北上して見学することが多いそうであるが、今回は、小生の足の不都合のため、なるべく歩かなくてもすむようにガイドのT氏が配慮してくれた。5番入口(Puerta 5)から入って、太陽のピラミッド(Pirámide del Sol)を見学、その後、車で回ってもらって、3番入口(Puerta 3)から入り、ジャガーの中庭(Patio de los Jaguares)、ケツァルパパロトルの宮殿(Palacio de Quetzalpapálotl)、そして月のピラミッド(Pirámide de la Luna)などを見学した。
訪れた日は、メキシコ人とメキシコ居住者は入場無料の日曜日だったからだろう、1番入口近くでは、駐車場に入ろうとする乗用車がかなり押しかけていた。5番入口に回ると、まだそれほど多くなかった。車を降りて入口から入る。筆者は、テオティワカン訪問5度目(2)でもあるので、今回はピラミッドに登るのをパスした。妻がガイドのT氏と共に太陽のピラミッドに登りに行った。筆者は、5番入口近くにあり、今まで訪れたことのない「テオティワカン文化現地博物館/遺跡併設博物館」(Museo de Sitio de la Cultura Teotihuacana)を見に行く。1963年創設とのことなのだが今まで見学する機会がなかった。入口から歩くと、途中、自販機、トイレや売店などがあり、その先に博物館入口があった。
この博物館は、テオティワカン出土品を現地で保存し展示するために作られ、建物は現代建築で半地下式にし植物で囲むことにより、遺跡内のまだ発掘されてない小山であるかのようにすることで周囲に溶け込ませているとのこと。そのため今までここに博物館があることに気づかなかったのだろう(3)。
土器や装飾品、彫刻された石材など、多くが展示されていて、埋葬の様子や遺跡地域全体の立体模型もあった。最も目を引いたのは、ごてごてとした装飾で覆われた比較的大きな儀礼用香炉の土器である。それぞれ装飾が異なる5つがガラスケースの中に並べてあった。
博物館の中をゆっくり回った後、太陽のピラミッドの方へ行くと「彫刻庭園」(Jardín Escultónico)と「植物庭園」(Jardín Botánico)がある。どちらもそれほど広くない。彫刻庭園には彫刻のある石材が飾ってある。植物庭園は、伝統的な植物が植えてあるとのこと。
エジプト・ギザのピラミッド(高さ約140m、底辺1辺約230m)よりは高さが半分以下で、底辺の占める面積も少し小さいけれども、高さ66m、底辺1辺220m(説明板には高さ64m、1辺224mとあった)の大きさがあり、遺跡内で最大、メソアメリカの中でも大きい方の巨大なピラミッドである。かつては頂上に複数の神殿が築かれていたそうである。INAH(メキシコ国立人類学歴史研究所)のウエブページには、いくつかの注意事項の最後に、El ascenso a las pirámides es bajo su responsabilidad y riesgo.(ピラミッドに登る際はご自身の責任で危険を承知の上でお願いします)と書かれている。
西側がピラミッドの正面で、その前に周りを建造物で囲まれた広場があり、中央に基壇/祭壇がある。登ることができるようになっている正面の階段はかなり急で、登り降りには設置されている手すりに手を添えないと危険を感じるほどである。登りと下りの一方通行に規制されてはいるが、手すりは両者の共用で、大勢の人たちが登り降りしていて、いつも手すりを持っているわけにはいかない。一部の若い外国人らしい観光客が、制限地域に入り込んだり、降りてはいけないところから降りるなどしていて、遺跡を大切に思う気持ちが欠けているのではないかと残念に思ったと妻が言っていた。
正面の階段を登る人たち
太陽のピラミッドを登る途中、下の左/南の方を見る。妻によるとこの時はまだ人が少なく、時間とともに増え、後には係員が来て登る人を制限していた
太陽のピラミッドの上から左/南を見る
大数の人たちが登る。前には南北に走る死者の道、その右/北の端に月のピラミッドが見える
大勢の人達が降りている。正面を死者の大通りが横切り、西の2番入口あたりが見える
太陽のピラミッドの上から西側の死者の大通りに向き、少し左を見る。下には太陽の広場とその中央の基壇/祭壇が見える。
テオティワカンの中のいくつかの説明板は、スペイン語、(古典)ナワトル語、英語の3ヶ国語である。「太陽のピラミッド」は、ナワトル語で Iteocal in Tonatiuh(太陽の神殿)というようである。比較的新らしい説明板はスペイン語と英語だけ、あるいはスペイン語だけだった。
車で、敷地の北西にある3番入口へ回ってもらう。少し上り坂になっている通路を東へ歩いていく。土産物店が並んでいるところを過ぎて、左手に降りていくところで、「ジャガーの中庭」(Patio de los Jaguares)に入る。羽毛の付いた巻貝を吹いているネコ科動物の絵が北側にあった壁画に描かれているので、この名で呼ばれるとのこと。赤地に様式化した絵が描かれているパネルが壁に立てかけてあった。
壁画やレリーフが彫られた柱のある「羽毛の生えた巻貝の神殿」(Templo de los Caracoles Emplumados)は、再建された遺跡保護のためか、室内展示になっている。壁画は赤地に緑色の鳥のようなものが描かれている。鳥のくちばしからは、水が流れているそうだがよくわからなかった。柱のレリーフは、羽飾りを付けた巻貝のような装飾が、またテオティワカンの図像の4枚の花弁の花の装飾も並んでいる。
室内展示 羽毛の生えた巻貝の神殿
「ケツァルパパロトルの宮殿」(Palacio de Quetzalpapálotl)は、かなり当時の姿に近く再建されているようだ。1960年代の再建とのこと。柱や壁の石の色、梁の部分の赤地と空の青さが美しい。屋根の上、丁度それぞれの柱の上に凸型の石盤が設置してある。年を表す絵文字が描かれているそうである。柱には様式化された鳥が彫られている。これが正面を向いたケツァル(quetzal)で、胸に蝶(mariposa papálotl)があることからケツァルパパロトルの宮殿と名付けられた。
ケツァルパパロトルの宮殿の中庭(Patio de los Pilares)。左に柱の彫刻も見える
ケツァルパパロトルの宮殿の中庭
その後、月の広場(Plaza de la Luna)を上から見た。そして妻は、月のピラミッド(Pirámide de la Luna)にも登ってきた。高さ45m、底辺が140mと150mの、テオティワカン第2の大きさのピラミッドである。こちらも大勢の人たちが登っていた。
月の広場と月のピラミッドを見る。左手前の建造物で、斜めの壁の上に水平の板状を載せるというタルー・タブレロ(Talud斜面-tablero板)のテオティワカンの典型的建築様式を見ることができる。これは斜面の部分が小さく、その上の垂直になった板の横面の幅が広い。
月のピラミッドの上から見た南側。前方、死者の道の右に太陽のピラミッドが見える。下の面すぐ前の、人の胸あたりまでしか再建されていない壁で囲まれた構造物は、“Quincunce”(基本方位+中心=サイコロの5の目状)または“Estructura A”の名がついている。中央(宇宙の中心を象徴)に4角形、壁内側に付けて基本方位に4角形が5つ、各基本方位の間に3角形(あるいは斜めの4角形)が4つあるのは祭壇とのこと。何らかの祭祀が行われた場所のようである。
遺跡見学の後、車で送ってもらいレストラン Gran Teocali(大神殿 < スペイン語 gran 大きい + ナワトル語 teocalli 神殿)でビュッフェの昼食である。店のすぐ横のテントの仮設舞台で、地方の民俗衣装を着た踊り手が踊っていた。我々の席からは見えなかったので、帰り間際に少し見ただけである。