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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

メキシコ グアダラハラ(1) カバーニャス孤児院他

堀田英夫

2008年の12月から翌年1月にかけ夫婦で、メキシコのグアダラハラ市で6泊、グアナフアト市で7泊の滞在をして、両都市とその近郊を見た。メキシコまでの往復航空券とメキシコ市からグアダラハラまでの航空券、それに一部の宿泊を日本で予約しておい(1)。メキシコ市空港近くで1泊し、朝9時発、10時15分グアダラハラ空港着の便でグアダラハラ市に入った。
 ハリスコ州(Estado de Jalisco)の首都であるグアダラハラ市(Guadalajara)は、メキシコ第2の都市である。グアダラハラ市に到着してから、ホテルに荷物を預かってもらって、まずカバーニャス孤児院(Hospicio Cabañas)の見学に歩いて出かけた。

広場の十字架

南北アメリカのスペイン語国では、4角形の中央広場の1辺に大聖堂、頂点を共有する別の1辺に政庁が建てられているのが普通である。しかしグアダラハラ市は、大聖堂を中心として周りを4つの広場が囲って、地図で見ると広場で十字形になっている(Cruz de Plazas)。南にアルマス広場(Plaza de Armas 武器)、大聖堂正面の西にグアダラハラ広場(Plaza Guadalajara)、北にロトンダ広場(Plaza de la Rotonda 円形寺院)、東にリベラシオン広場(Plaza de la Liberación 解放)がある。アルマス広場という名前からもわかるように、この広場がもともとの(市が設立された時からの)広場である。この広場東側には州の政庁(Palacio de Gobierno)が建っている。他の3つの広場は、ゴンサレス・ガリョ(José de Jesús González Gallo 1900 - 1957)ハリスコ州知事の時代の1940年から50年代に、建物を壊して作られたものだそうである。
 大聖堂東側のリベラシオン広場には、野外コンサートの準備で椅子が並べられていた。この広場の名前リベラシオン(Liberación 解放)は、1810年12月8日にこのグアダラハラでミゲル・イダルゴによって公布された奴隷解放令を記念しているとのことであ(2)。南北より東西が長い広場の東の端には、デゴリャード劇場(Teatro Degollado)がある。19世紀後半に建てられた新古典主義様式の立派な建物である。劇場横を抜けてさらに東へ行く。途中巨大なクリスマス・ツリーが立っている。タパティア広場(Plaza Tapatía)に入ると、グアダラハラ市の紋章(Escudo Guadalajara)、ケツァルコアトルの犠牲の噴水(Fuente de la inmolación de Quetzalcóatl)のモニュメントがある。「タパティア」とは、「(メキシコの)グアダラハラの」を意味する地名形容詞(tapatío,-tía)である。 この幅の広い歩行者専用(zona peatonal)となっている広場の突き当たりにあるのがカバーニャス孤児院である。

(C) 2008 Setsuko H.


グアダラハラ市庁舎(Palacio Municipal de Guadalajara)  手前は「広場の十字架」の1つグアダラハラ広場

カバーニャス孤児院

カバーニャス孤児院は、2万3千447 m2の広い敷地の中に23の中庭(patio)、106の部屋(habitación)、72の廊下(pasillo)、2つの礼拝堂(capilla)がある大きな建物群である。また1938年から1939年にかけて、旧礼拝堂(capilla)の丸天井と側壁に、メキシコ壁画運動3巨匠の1人、ホセ・クレメンテ・オロスコ(José Clemente Orozco 1833-1949)が壁画を描いた。これらのことから「グアダラハラのカバーニャス孤児院」(Hospicio Cabañas de Guadalajara)として、ユネスコ世界遺産に登録されている。ユネスコのサイトの説明によると、ここの建物は、当時の類似施設と異なっていて、独特の特徴があるとのこと。特に、保護されている人たちの必要を十分満たすように考えられていて、シンプルなデザインで規模も適切、また建物とオープンエアの中庭とが調和していることなどがあげられている。

(C) 2008 Setsuko H. カバーニャス孤児院 メインの建物を通り抜け、中庭(patio)の1つから振り返ったところ


 1796年にスペインからグアダラハラに着任した司教フアン・クルス・ルイス・デ・カバーニャス(el obispo Juan Cruz Ruiz de Cabañas y Crespo 1752 - 1824)の主唱により、孤児・老人・病人などのための救護所として19世紀初期に建設された新古典主義様式の建物群である。歩行が不自由な人でも行き来できるよう一連の建物の多くが、単一フロアになっている。孤児だけのための施設ではないので、救護院あるいは養護院と訳してもいいかもしれない。途中何度か兵舎として使われたり、運営母体が代わったりしたが、1810年から1980年まで、養護施設として孤児や障碍者を住まわせ教育を受けさせる場として使われたそうである。現在は、ハリスコ州政府(Gobierno del Estado Jalisco)のカバーニャス文化協会(El Instituto Cultural Cabañas)の名の、オロスコの壁画の保存・研究・普及を主たる使命とした美術館になっている。たまたま訪れた火曜日は、毎週入場料が無料だった。
 壁画は、丸天井に描かれた赤い炎に包まれ燃えている人物が浮かぶ「炎の人」、横たわり燃えている褐色の人間の上で鋼鉄製鎧を着て鋭い剣を持ち立っているコルテスを描いた「コルテスと勝利」、体が機械仕掛けになっている馬を描いた「機械の馬」など多数ある。スペイン人によるメキシコ征服をテーマとしつつ、オロスコ特有の筆致で機械文明に虐げられる人間を描いているようでもある。

ハリスコ州庁舎

カバーニャス孤児院からホテルの方向へ戻って、ハリスコ州庁舎(Palacio de Gobierno)に入り、ここでもオロスコの壁画を鑑賞した。中央階段正面には、若くはないイダルゴ神父が左手のこぶしを高く掲げ、右手で握った炎のような棍棒を差し出している「立ち上がるイダルゴ神父」が描かれている。巨大なイダルゴ神父の下には、赤い旗が林立し、さらに下には、戦う人物群像がモノクロで描かれている。カバーニャス孤児院の前年1937年の作品で、実物を見るとかなり迫力がある。
 州庁舎の中は、中庭を囲む2階建ての回廊を自由に歩いて回れた。ただオロスコ晩年の1948年から1949年に州政庁内の旧立法院(ex Cámara Legislativa del Estado)に描いた壁画は見ることができなかった。

(C) 2008 Setsuko H. ハリスコ州庁舎中庭の回廊2階から大聖堂の尖塔を眺める


夕方8時過ぎには、リベラシオン広場でのコンサートを聴きに出かけた。コンサートが終わるのを待たずにホテルへ帰ってグアダラハラ滞在1日目が終わった。

ルイス・バラガン

建築家のルイス・バラガン(Luis Barragán Morfín 1902 - 1988)は、ハリスコ州(Jalisco)グアダラハラ(Guadalajara)生まれである。建築のノーベル賞とも言われるプリツカー賞を1980年に受賞し、メキシコ市郊外に1948年に建てた自邸は「ルイス・バラガン邸と仕事場」(Casa-Taller de Luis Barragán)の名でユネスコ世界遺産に登録されている。
 グアダラハラを訪れた機会に、彼の作品を見ようと、グアダラハラ市に着いた翌日タクシーで出かけた。ゴンサレス・ルナ邸(Casa de Efraín González Luna)とロブレス・カスティリョ邸(Casa Robles Castillo)の外観を見て、児童公園(jardín de recreo infantil)の革命公園(Parque de la Revolución)を見た。
 ゴンサレス・ルナ邸は、ルイス・バラガンの1928年の作品で、現在は、イエズス会の大学のひとつである西工科高等教育大学(ITESO)の文化・学術普及のための施設(Casa ITESO Clavigero)になっている。看板に入場無料(entrada libre)とあったが、年末年始の休暇のためか閉まっていた。植民地時代風の外観で、壁は黄色、1階にアーチがいくつか並ぶ回廊が見え、住宅街に溶け込んでいた。

(C) 2008 Setsuko H. ゴンサレス・ルナ邸


 ロブレス・カスティリョ邸は、前述のルナ邸の1年前の作品である。訪問した時は、キューバ料理のレストランであった。(その後いくつかのレストランとして使われてきているらしい)道路に面した庭には、いくつものたたんだパラソルが立っていて、その下にテーブルと椅子がある。壁はサーモンピンクに塗られていて、窓の形はかまぼこ型で上が半円形になっている。屋根瓦の色と形、それに昔のランプが掲げられていて、この建物も植民地時代風に見える。
 革命公園と名付けられた児童公園は、読みにくいデザイン書体による銘文があったので、設計にルイス・バラガンが加わっていたことがわかる。ただ、公園そのものは、木や街路灯が立つ中に、コンクリート製の舞台やベンチ、水遊びもできるような噴水池などがある程度である。現代ならば、住宅街の中のどこにでもありそうな公園であった。銘文には、州政府、土地所有者、市当局の共同で1934年から1935年に作られたとある。当時は画期的な施設だったのかもしれない。

旧カルメル会修道院、教会、庭園

現在は美術館になっている旧カルメル会修道院(Exconvento del Carmen)を訪問した。ちょうどホセ・ルイス・クエバス(José Luis Cuevas Novelo 1931-2017)とフェルナンド・デル・パソ(Fernando del Paso(1935 - )の作品の展覧会が行われていた。

(C) 2008 Setsuko H. 旧カルメル会修道院の内部。中庭に面した回廊でも展示がされていた


 旧修道院を出て、広いフアレス通り(Avenida Juárez)を横切るとカルメル会聖母教会(templo de Nuestra Señora del Carmen)とカルメル会庭園(Jardín del Carmen)がある。もともとカルメル会がグアダラハラのここに17世紀末から教会と修道院を建設してきたのであるが、レフォルマ(Reforma)の時代の保守と革新の闘争の中で、破壊されたり、20世紀中頃、フアレス通りの拡張のため修道院部分と教会部分が分断されたりした結果、今のようになっているとのこと。教会の正面にはギリシャ風の柱が地上から2階の上の屋上を支え、屋上両端には鐘楼がたっている。内部の主祭壇は、大小二つの金色の後光の下に聖母子像が祀られ、その両側にギリシャ風の柱3本づつ立っていたりと抑え目ではあるが豪華な造りになっている。この教会内にもキリスト生誕飾り(nacimiento)が飾ってあった。庭園では古風な噴水が水を噴き上げていて、比較的大きな木が何本か立っている。

大聖堂

市の中心部に戻り、大聖堂の内部を見学し、周辺の広場を散策した。大聖堂(Catedral basílica de la Asunción de María Santísima)は、グアダラハラ大司教区の本拠地で、壮大な建物である。グアダラハラの写真として、4本のネオゴシック様式の小さい尖塔が囲む大きな尖塔が2本立つこの大聖堂の写真がよく使われるぐらい、グアダラハラのシンボル的存在である。大聖堂の中と、外の広場にも大きなキリスト生誕飾り(nacimiento)が飾ってあった。

(C) 2008 Setsuko H. グアダラハラ大聖堂


 大聖堂北側のロトンダ広場にも立ち寄り、「著名ハリスコ州出身者の円形寺院」(Rotonda de los Jaliscienses Ilustres)も見た。円形に並ぶ柱が、その上の輪を支えている。オロスコやルイス・バラガンなどのハリスコ州出身の著名人を讃え、祀るモニュメントである。円形の柱がある柵の外側にはベンチや緑の木があり、さらに外側に、各人物像とその名前が書いた台座が公園の周囲に並んでいる。

「サン・フアン・デ・ディオス」リベルタ市場

「サン・フアン・デ・ディオス」リベルタ市場(Mercado Libertad “San Juan de Dios”)まで行った。屋根のある市場としてはラテンアメリカ最大とのこと、3階立てで、約3000の店があり、食べ物から衣類、日用品、CD、楽器、電気器具など多くの種類の商品が売られている。この市場の中で、タコス(tacos)を食べて夕食とした。

(C) 2008 Setsuko H. (C) 2008 Setsuko H.


グアダラハラでの大晦日

夕方、大晦日のイベントがあるのではないかと思い、大聖堂周りの広場まで行った。大聖堂や、デゴリャード劇場も、クリスマス・年末年始のイルミネーションで綺麗だった。劇場前のリベラシオン広場に昨日並べてあったたくさんの椅子は今日は全部撤去されていた。我々は比較的早くベッドに入る習慣なので、ホテルへ帰るためその場を離れるまでには、イベントは始まらなかった。グアダラハラでは各家庭で静かに年越しを過ごしているのだろうか。我々は、ここメキシコ・グアダラハラで2008年を終え、2009年を迎えた。


<注>
2008年12月から2009年1月の旅行で見聞したことと旅行後に調べたことを書いた。
 筆者のグアダラハラ訪問は、1971-1972年に日墨交換留学生としてメキシコに滞在した時以来の2度目である。その時には、大聖堂、政庁、デゴリャード劇場、カバーニャス孤児院、リベルタ市場などを見た。現在は動物園になっているあたりに行って渓谷を見た記憶もある。ベラクルス州ハラパ市滞在の同じ留学生の2,3人とグアダラハラ市を訪問したもので、グアダラハラ市滞在の留学生に世話になった。
 オロスコの壁画については、以下を参照した。
『メキシコ・ルネッサンス展-オロスコ、リベラ、シケイロス-』名古屋市美術館・西武美術館、1989.
加藤薫『メキシコ壁画運動 リベラ、オロスコ、シケイロス』平凡社、1988.(Hospicio Cabañasを「カバーニャス病院」としている。)

(1) メキシコ国内線の航空券(メキシコ市からグアダラハラ市行き)は、ネット予約・購入をしようとしたけれども、(当時)座席の指定まではちゃんとできるのに、支払いをしようとするとできなかった。アメリカンエクスプレスなどのアメリカ合衆国のカードしか受け付けてくれなかったからである。何度やってもだめなのであきらめて、日本の旅行代理店で日本・メキシコ間の予約がある人のみが購入できるチケットを手に入れてもらった。
 日本からメキシコ市に到着した日の1泊と、帰国時前日のメキシコ市での1泊、それにグアダラハラ市での6泊のホテル滞在は、ネット予約ができた。
(2) 1810年のミゲル・イダルゴによる奴隷解放令(Decreto contra la esclavitud, las gabelas y el papel sellado)は、メキシコ独立(1821年)後の第1代大統領(Guadalupe Victoria)と第2代大統領(Vicente Guerrero)の大統領令によって承認されている(1825年と1829年)。フランス奴隷制度廃止宣言(1784年)よりは後であるけれど、イギリスの奴隷制度廃止法成立(1833年)、フランスの奴隷制度廃止実現(1848年)、アメリカ合衆国大統領リンカンの奴隷解放宣言(1863年)より以前のことである。 https://www.y-history.net/appendix/wh1201-067.html https://es.wikipedia.org/wiki/Decreto_contra_la_esclavitud,_las_gabelas_y_el_papel_sellado



※写真はいずれも2008年12月メキシコにて撮影 [©2008 Setsuko H.]
2018/6/4. - 2020/7/14.

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