グアナファトのホテルを朝8時半頃に出て、2時間のドライブの後、ドローレス・イダルゴの中央広場(Plaza Principal)に到着した。まず、この広場に面して立っている「悲しみの聖母教区教会」(la Parroquia de Nuestra Señora de los Dolores)を見学した。18世紀末の最もすばらしいメキシコのバロック形式の教会の一つとされている。正面入り口と左右両側には柱が3本立っているような装飾があり、さらにその外側の上には、塔がそびえ、かなり大きい教会である。
1810年9月16日早朝、この教会の鐘を鳴らし、前庭でドローレスの司祭ミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo y Costilla. 1753-1811)が演説した。そして「(南北)アメリカ万歳! ガチュピン(gachupines.スペイン生まれスペイン人の蔑称)に死を!」(“¡Viva la América y mueran los gachupines!”)と叫び、呼びかけに答えた先住民やメスティーソ(mestizos. 白人と先住民の混血)の一団を率いて蜂起したのが、メキシコ独立戦争の始まりとされている(1)。
以前、日本語の本(2)でドローレスの「村」あるいは「小村」の教会と読んでいたので、小さな教会を想像していたけれども、実物はかなり大きな教会である。教会の中から外へ出るのにあまり高くはないが、扉のすぐ外に10段の階段を降りてきて前庭と同じレベルになる。1810年にもこの同じ階段があったとするとこの階段の上から演説をしたのだろうかと想像した。
悲しみの聖母教区教会 この教会の前で、イダルゴ神父が「ガチュピンに死を!」と叫んだ。
16世紀から300年近く、スペイン宮廷の支配により植民地メキシコでの高い地位や権力はスペイン本国出身者(penisulares, gachupines)が占め、南北アメリカ生まれの者(criollos)は、人種的にはスペイン人であっても出世が限られていた。植民地生まれの者でも、大農園(hacienda)などから得られる収入で富を得ていた者もいるのに、高位の官職などに就けないということも大きな不満となっていた。またさらに彼らの下で支配され働かされていたメスティーソや先住民大衆は、悲惨な状態に置かれていた。イダルゴは、メキシコが独立することによってそのような社会的状況を打破しようという植民地生まれの仲間たちの考えに賛同して行動を起こしたのであった。
メキシコ独立記念日として祝日となっている9月16日の前日15日夜には、毎年、メキシコ市の国立宮殿(Palacio Nacional)のバルコニーから大統領が「叫び」を発するのを頂点として、メキシコ各地および世界各地のメキシコ人コミュニティーにおいて「ドローレスの叫び」(Grito de Dolores)という儀式が行われる。
今年2017年9月15日のメキシコ市では、国旗を持ってバルコニーに出たエンリケ・ぺニャ・ニエト(Enrique Peña Nieto)大統領は、鐘を鳴らし、中央広場(ソカロ Zócalo)に集まった人たちに向かって、「メキシコ人よ! 我らに祖国と自由を与えた英雄たち万歳! イダルゴ万歳! モレロス万歳! ホセファ・オルティス・デ・ドミンゲス万歳! アジェンデ万歳! ..(略)..チアパスとオアハカとのメキシコ人の連帯万歳! 国の独立万歳! メキシコ万歳! メキシコ万歳! メキシコ万歳! 」(¡Mexicanos! ¡Vivan los héroes que nos dieron patria y libertad! ¡Viva Hidalgo! ¡Viva Morelos! ¡Viva Josefa Ortiz de Domínguez! ¡Viva Allende! ... ¡Viva la solidaridad de los mexicanos con Chiapas y Oaxaca! ¡Viva la Independencia nacional! ¡Viva México! ¡Viva México! ¡Viva México!)と叫んだ。1週間前オアハカでかなりの被害をもたらした地震があったため、今年は「連帯万歳! 」という一文が加わっている。それぞれの ¡Viva!で始まるせりふの後に、参集者も“¡Viva!”と唱和する。せりふの後でまた鐘をならし、その後、演奏に合わせていさましい国歌を合唱する。メキシコ人の愛国心を高揚させる一大イベントである(3)。
ちなみに、2005年愛・地球博(2005年日本国際博覧会)開催中の9月15日、メキシコ館の中で、招待客のみを入れて行われたこの儀式を筆者も体験した(4)。
教会前の公園に立つイダルゴの像。左手に軍旗とした聖母グアダルーペの像を持っている。
18世紀末に建てられた屋敷で、ミゲル・イダルゴが1804年から1810年まで居住していた。イダルゴはここで夜の講座を開き、教区の住民に手工芸や音楽を教えていたそうである。1810年9月16日の明け方、この家から教区教会へ行き、独立の叫びをあげたとのことである。井戸のある中庭の周りに部屋があり、パン焼き釜も備えた台所、食堂、居間、寝室など、イダルゴが生活していた当時の雰囲気が再現されている。他に聖母グアダルーペの軍旗など独立戦争当時の書類や武器、ミゲル・イダルゴの持ち物が展示してあった。
この博物館は、2009年1月にグアナファトに来た時に日帰りの「独立の道ツアー」(Ruta de Independencia)に参加したときに見学した。イダルゴが農民と話している場面などの人形での再現、独立戦争当時の武器や砲弾、書類などの展示と、国の紋章や国旗の歴史などのパネル展示もあった。独立戦争やイダルゴのテーマの絵画や彫刻もある。ここも18世紀に建てられた建物で、牢獄として使われていた。当時のものかどうかはわからないが、太い格子状の扉もあった。イダルゴは、この牢に捕らわれていた囚人を解放し、独立のための蜂起へ参加させた。1985年に博物館として整備されたとのこと。
これも2009年1月の「独立の道ツアー」の見学に含まれていた。ヒメネス(1926 - 1973)は、ドローレス・イダルゴ生まれで、メキシコの大衆歌謡ランチェーラ(ranchera)の国民的な歌手兼作詞作曲家である。墓はドローレス・イダルゴ市の墓地にある。没後25年を記念して1998年に建立されたもので、巨大なソンブレーロ(sombrero)とその下の部分から虹のような模様で色々な色のタイルで飾られたサラーペ(sarape 原色の模様がある布製肩掛)をイメージした低い塀がくねくねと伸びている。色と大きさ、その形で記憶に残る墓である。
ヘスス・ナサレノ(Jesús nazareno)とは「ナザレのイエス」であり、イエス・キリストを意味する。アトトニルコ(Atotonilco)とは、ナワトル語で「温泉地」(atl(水) + totonilli(熱い) + -co(~における))を意味する地名である。パンフレットによると、メキシコ生まれの神父フェリペ・ネリ・デ・アルファロ(padre Luis Felipe Neri de Alfaro)がドローレスでの伝道の仕事から帰る途中、ここにあった一本のメスキートの木(mezquite.マメ科植物)の下で休んでいた時、夢の中に、いばらの冠をして十字架を担いだイエスが現われた。イエスは彼に、そこを贖罪と祈りの場とするため、教会を建てて欲しいと言った。それでアルファロ神父は、1740年に最初の石を置き、1748年に身廊など第一期の建設が完成し、中央祭壇に、いばらの冠をして十字架をかつぐイエス・キリストの像を祀った。アルファロ神父は1776年に亡くなるまでアトトニルコに住み、教会のほとんど全てを完成させたとのことである。
外側は、城砦のように装飾がない。以前は入り口近くに絵があったが歳月と共に消えてしまったとのことである。内部は、天井や梁も含めキリストの受難の物語などの絵が所狭しと描かれている。小聖堂の一つには、人形によってキリストが十字架にかけられ処刑される場面の立体的な表現もある。絵画や装飾も含め、スペイン文化と先住民文化との相互影響を示していて、ヌエバ・エスパーニャ(Nueva España 植民地時代のメキシコと中米)のバロック様式の建築と芸術の最も美しいものの一つとされている。メキシコのシスティナ礼拝堂(バチカン宮殿の教皇のための礼拝堂)とも言われている。教会は、周囲の礼拝堂を含め、サン・ミゲル・デ・アジェンデと共に世界遺産として登録されている。
アトトニルコの教会
内部。中央祭壇。
1810年9月16日にミゲル・イダルゴは、呼びかけに集まった先住民達と一緒に、ドローレス村から南南西への街道を進み、サン・ミゲル・エル・グランデ(San Miguel el Grande. 現在のサン・ミゲル・アジェンデ)の町へ向かった。途中、お祈りに寄ったこのアトトニルコの教会から出てきた時、振りかざしたのが、グアダルーペの聖母(Virgen de Guadalupe)像の旗印である。これが、メキシコの独立と国民統合のシンボルとして掲げられた。
アトトニルコで見学してから、レストランで昼食後、グアナファトのホテルへ帰る途中の山道で、雪が降ってきた。のろのろ運転となって山道で渋滞となった。車から出て雪を触っている人たちもいる。バスやトラックも含めて車は、雪道走行の準備はまったくなく、メキシコのドライバーが雪道に慣れていないようである。前方からのバスと我々の車の数台前のトラックがカーブのところで立ち往生し完全に道を塞いだ。そのため我々の車もまったく進めない。しばらくしてバスの乗客は降りて(降ろされて?)、シャーベット状になった雪が積もって足元が悪い中を歩いて行ったけれども、どこまで歩くのだろうかと同情する。我々は人家のある麓からかなりの距離を車で上がってきたので、それを歩いて下って行くのだろうかと思う。渋滞している時間が長くなって、前の方の様子を見に行っている人たちもいる。警官が来てしばらくの時間少しずつ車を誘導して動かしてくれた。それでなんとか我々の車も動き出し、雪が降り始めてからグアナファトが下の方に見えてくるまで、2時間弱の時間が経過した。3月のメキシコ中央部・北部での降雪は、翌日の新聞(El Sol de México. marzo de 2016)の第1面に写真が載るほどまれなことだった。
アトトニルコからグアナファトへ帰る道路上。この時はノロノロながらも車は動いている。