ベラクルス州ハラパ市(1)のバスターミナルに、我々が乗ったメキシコ市からの長距離バスが到着した時、大勢の出迎えの人たちがいるのがバスの窓から見えた。バスを降りると、いきなりトランペットやバイオリンのマリアッチの賑やかな音楽の出迎えを受けた。1971年7月初めのことである。46年も昔のことなのに、この時のことは鮮明に覚えている。我々は日本メキシコ交換留学制度の1期生99人のうち、ハラパ市で学ぶことになった15人である。これから約8カ月、ホームステイしながら、スペイン語とメキシコおよびラテンアメリカの文化や歴史について、スペイン語で学ぶという我々のために開かれるプログラムである。ベラクルス州立大学の新年度の始まる10月からは正規授業科目を選んで受講することもできた。
我々が到着したバスターミナル (A.D.O. Autobuses de 1a. Clase)
バスターミナルから、我々はそれぞれの滞在先に連れて行ってもらった。ハラパ組15人の中からチーフを選ぶ際、大学生7人の他は企業からの研修生などで自分より年上なのに、メキシコ側との連絡の仕事もあるのでスペイン語専攻の学生からという声が出て、その中でなぜか小生がチーフに選ばれた。そのため、ホームスティ先は、ベラクルス州での留学生受け入れの担当者エレラ氏のお宅となった。ハラパ市の住民や学生は、日本人に対して皆が非常に好意的で、よく話しかけられ、いくつもの歓迎パーティーに招待された。大学の正規授業を受講してからは友人が格段に増えた。
中心街近くの町並み。大聖堂の裏側が見える。この道を下った先に州政庁やフアレス公園(Parque Juárez)がある。
州政庁の建物。中央部が州の知事室など行政府、東(写真左側)に州立法府、西(右側)に市役所が入っているとのこと。手前の階段は大聖堂の玄関に続いている。
エレラ氏はベラクルス州知事の秘書室に勤め、他に州立劇場支配人の仕事と高校教師の仕事も持っていて、家でもあまり会えないほど非常に忙しい生活をしていた。家は、道路舗装もまだの新興住宅地区にあった。といっても特別プログラムの授業が行われる経済学部(Facultad de Economía)の建物までは路線バス(camión)で20分、町の中心(centro)まで15分ぐらいで行けるところにあり、植民地時代の屋敷の様なスタイルで、白壁とこげ茶色の木材、黒い鉄の素材を生かした外観と内装の家で、家具も昔風の形のものが揃えられている。それ程広くはないが、斜面にそって3階建ての構造になっていて、小生は3階にある1室を使わせてもらった。夫人、4歳の息子、それに夫人のお母さんの4人家族であった。小生がハラパを離れる直前に次男が生まれ5人となった。平日の日中は、家政婦さんが食事の用意、掃除、洗濯をしてくれていた。州の判事という夫人も含め、エレラ氏とその友人たちは、資産家ではないが、いわゆる中産階級で、州政府など公的な仕事を含めた複数の仕事を掛け持ちして一生懸命働いている様子であった。
滞在していた部屋の窓
近くのバス停。バス停を示す看板等はどこも無かったけど、バスは決まった所にしか停まらない。市内バスは、同じ路線を走るけど塗装が赤と緑の2種類があり、料金と中の椅子の快適さに差があった。ただどちらもかなり安かったと記憶している。
メキシコの食事は、トウモロコシ(maíz)をすり潰し練ってクレープのように焼いたトルティーリャ(tortilla)が、日本のご飯に相当し、醤油に相当する調味料が、辛い唐辛子(chile)やそれを素にしたソースである。米も炒めたりして食べるが、付け合せ野菜の感覚である。昼食のコースで、味付けのしてないご飯をお皿に盛ったのがスープとして出された時は、さすが困った。2回目には次の料理も出してもらって、メキシコ式には無作法であるが一緒に食べた。日本で食べたことのある洋食とは異なり、またもちろん和食とも違う食べ物で、味覚の世界が広がったと思う。内容のみでなく、時間や量の配分も違っていた。正午まで授業があり、帰宅後、昼食をしっかり食べた。しかし、夕食はバナナ1本と薄いスープだけといったぐあいに、ほんの少しだったので、慣れないうちは空腹を感じつつベッドに入った。
ハラパ市は、当時それほど大きな町ではなく、町中を歩いているだけで、何人かの知り合いと出会い、何度も挨拶することになる。海抜1500メートル程にあり、ベラクルス州最大の都市で港を持ち、海抜0メートルに近いところにある暑いベラクルス市よりは、涼しい気候なので、ベラクルス市で事業を営む資産家は、車で1時間程のこのハラパ市に住居を構えることが多いようだ。州政府や州議会(州政庁 Palacio de Gobierno に入っている)など州の政治中枢もここにある。州立大学の図書館、博物館(Museo de Antropología)、州立劇場(Teatro del Estado)、スタジアム(Estadio Jalapeño)などもあり、湿気が多いので緑の木々がたくさん茂り、いくつかの公園もきれいに整備されている。街に並んだ家は、家ごとに異なる色に塗られていてカラフルである。陽気なメキシコ人という一般的な見方があり、確かに冗談ばかり言う愉快な人も多いけれど、エレラ氏の家では、大晦日に家族が集まり、年が変わった時間に一人ひとりが沈痛な表情で、目に涙さえ浮かべながら、静かにお互い抱き合った。あたかも1年の無事を静かに喜び、これからの1年の無事を祈っているかのようであった。小生も家族の1員と同じ扱いを受けた。普段は見せないメキシコ人の心の一面を見た気がした。ハラパ市に限らないがメキシコでは、貧富の差や社会階層の違いによる生活の差も目にすることがあった。難しいことではあるが、エレラ氏たちのような中産階級の働きがうまく機能すれば、富の偏在を減らし、社会全体がもっと豊かになるのではないかと思った。
大学進学の時、これからの時代、国際的な貿易や交流が重要なので、言葉の研究をしたい、あるいは、外国語を学ぶべきと思って受験をし、たまたまスペイン語を専攻する学科で学ぶことになった。学ぶ前は、スペイン語が中南米でも使われている言葉といった漠然とした知識しかなかった。学ぶうちに、16, 17世紀にはスペインが「日の没することのない帝国」といわれるほど広く深く世界に影響を与えた大国であったと知った。また中南米は、独自に発達した文明が繁栄していたところに、スペイン語とカトリックの信仰がもたらされ、多様性の中にも共通性があり、豊かな天然資源と多くの人口で、将来性のある地域だということを知るに至った。日本では外国というとアメリカや英独仏という国々が取り上げられることが多いけれども、これらスペイン語が使われている地域についてももっと知られるべきであると思うようになった。そして自分がスペイン語をさらにマスターするため、また、スペイン語圏の社会を実際に経験するため、是非スペイン語圏のどこかに留学したいと思うようになった。
しかし当時は1ドル360円の時代で、渡航費もかなり高かった。また学部学生対象のスペイン語圏への公費留学制度はそれまでなかった。とても金持ちとはいえない家で育っていたので、私費留学などは夢のまた夢であった。船の中で働いて渡航し外国で働きながら学ぶという、今思うと夢想でしかない方法での留学を同級生と模索していた頃、大学の掲示板で、メキシコ交換留学制度一期生の受験案内を見つけ、早速、必要書類を揃え、東京まで試験を受けに行ったのである。往復旅費、学費、食事込みの滞在費はメキシコが出してくれて、しかも毎月400ペソ(当時1万円ぐらい)の小遣いまでもらえるという破格の待遇であった。
スペイン語のみで進められる授業を受け、スペイン語の中で生活するという貴重な経験をすることができた。また日本で学んだ主にスペインのスペイン語とは違う表現をメキシコ人たちが使っていたのが気になったので、帰国後の卒業論文のテーマを、メキシコ・スペイン語の特徴を記述することと決め、図書館で参考文献をコピーして持って帰ることができた。大学卒業後進学した大学院の修士論文や、その後の大学教員としての研究テーマに「スペイン語の地域差」を掲げて研究したのも、このメキシコでの留学生活が原点となっている。親切で好意的な扱いをしてくれたメキシコ人の友人や知人のことを想い、日本でもメキシコなどの中南米やスペインにもおおいに関心を持って欲しいという気持ちから、37年間の教員生活において、スペイン語の教育と研究に熱意を込めて取り組むことができたのである。