メリダ市は、ユカタン州の州都で、1542年にフランシスコ・モンテホ「若(者)」(Francisco Montejo “El Mozo”)によって建設された。すでに廃墟となっていたティホ(Tihó, T'ho)というマヤ都市の土地にスペイン人達の町が建設された。石のマヤ遺跡を見て、スペインのエストレマドゥーラ州(Extremadura)メリダ市(Mérida)近郊にあるローマ遺跡との連想で、新しくこの地に建てる町をメリダと名付けたそうである(1)。2013年の統計で約83万人の人口を有していて、ユカタン半島のマヤ遺跡などへの観光の拠点になっている。ガイドのN氏によると、ユカタン州は、マヤ遺跡などへの観光と、コンベンション施設へ各種会議を誘致してその参加者からの収入でかなり豊かな州だそうである。
メキシコ到着初日に、メリダの空港からホテルに案内される途中の町並みで、19世紀に富裕層が住んでいた邸宅が並んでいるところを見た。現在は銀行やレストランなどになっているとのこと。19世紀の富裕層とは、広大な土地で、先住民の労働力を使い、リュウゼツラン(エネケン henequén)を栽培し、その繊維からサイザル麻(sisal)を作り北米へ輸出して富を築いた人たちである。ちなみにサイザルの語源は、メリダの北西にあるかつて繊維を輸出していた港町の名Sisal(スィサル)の英語読みである。
北米で穀物の自動刈取機に使う丈夫な紐(ひも)としてエネケンの紐が大量に必要であったため、ユカタンがその輸出で栄えたことと、人工繊維が発明・製造されてからは、その好景気が終わったという、確か学部の授業で聞いた話を思い出した。
メキシコ到着の翌朝、ホテルから車でカバー遺跡(Kabah)とウシュマル遺跡(Uxmal)に向かった。途中メリダ市を出る前に、アグスティン・オーラン総合病院(Hospital General Agustín O'Horán)の前の路上に停車し、柵の中の野口英世(1876-1928)の銅像を見学した。あまり大きくない。1972年3月のユカタン修学旅行以来の2度目の対面である。記憶は曖昧だが、当時は柵の中ではなかったように思う。
アメリカ合衆国のロックフェラー研究所(Instituto Rockefeller)で黄熱病の研究に従事していた野口英世は、1920年に同研究所から派遣されて、このメリダのオーラン病院の研究室にやって来た。メリダ医学校(La escuela de Medicina de Mérida 現在のユカタン自治大学医学部)は、野口博士に名誉博士号を授与している。だが当地での黄熱病が終息していたため、数週間滞在し研究しただけで、アメリカに戻り、その後アフリカへ行ったそうである(2)。
メリダには、銅像の他に、名誉を讃えて野口博士の名前を付けられた、ユカタン自治大学附置の「野口英世博士地域研究センター」(Centro de Investigaciones Regionales Dr. Hideyo Noguchi)がある。
野口英世の銅像
ウシュマル遺跡の見学の後、メリダ市に戻り、ソカロ(zócalo)とそのあたりの見学をした。ソカロの正式名称は、独立広場(Plaza de la Independencia)あるいは「大広場」(Plaza Grande)という名前のようである。広場というより、かなり茂った木が植えられていて、木々の間に散歩道があり公園になっている。中央には国旗が半旗で掲げられていた。後で乗った馬車の御者になぜ半旗なのかを尋ねたけれど、この日2月14日はメキシコで「愛と友情の日」(día del amor y la amistad)で夫婦や恋人同士がプレゼントし合うけど、なぜ半旗なのかは知らないとの返事だった。帰国後調べたら、メキシコ独立&共和制確立期の英雄ビセンテ・ゲレロ(Vicente Ramón Guerrero Saldaña, 1782-1831)が銃殺刑に処せられた日だった(3)。
メリダの通りの名は、一部を除いて、東西に走る道が南に向けて増える奇数、南北に走る道が西に増える偶数の数字になっている。ソカロの東に60番街(Calle 60)、西に62番街(Calle 62)、北に61番街(Calle 61)、南に63番街(Calle 63)が通っている。1894年か1895年頃に郵便事業のために数字による現在の通りの名称が決められたそうである(4)。
ソカロに面した「モンテホの家」の入口では、守衛さんが無料で入れる博物館と言って呼び込みをしていた。ユカタンの征服者モンテホ家の私邸として、メリダ創設者のフランシスコ・モンテホ「若」によって1542年から1549年に建てられた建物である(5)。正面には石の彫刻の装飾がある。入口の右に3つの銘がはめ込まれていて、一番下のは新しいもので、「国(民)の財産」(Patrimonio de la Nación)と題し、スペイン語、英語、ユカタン語による説明があった。昔は、1区画全部を占める建物であったのが、正面(Portada)だけがかつてのオリジナルな形を残していて、メキシコのプラテレスコ様式建築(arquitectura plateresca)を最も良く示しているとの説明である。真ん中の銘は、メキシコ国立銀行(BANAMEX. Banco Nacional de México)によって修復されたものを国立人類学歴史研究所(I.N.A.H.)が承認したことが記されている。一番上は石に刻んであり、紋章の左に1542、右に(たぶん)1942とある。その下にある説明文はよく見えない。
入口を入ると回廊が囲むちょっとした中庭があり、通路から一段上に低い木と高い木が茂っている。左手に博物館があり、19世紀から20世紀初頭の家具などが展示してあるそうである。普通ならそこも見てくるのであるが、筆者の足の不都合で断念した。
モンテホの家を出て、ソカロの中を歩いて行くと、最近世界のあちこちの写真で見る極彩色の大きな地名の文字、ここではもちろんMÉRIDAの文字が立っていた。その後ソカロの北にあるユカタン州庁舎に入った。
州庁舎が立っている所は、植民地時代、王家から派遣されたユカタンの統治者の拠点だった所だそうである。19世紀に建てられた古典折衷様式の2階建ての建物で、壁は薄緑色に塗られている。ソカロ側は回廊になっていて、その途中に入口がある。中に入ると回廊に囲まれた中庭がある。回廊の壁には壁画がある。ユカタン出身の画家(Fernando Castro Pacheco 1918-2013)によるユカタン州の生活がテーマということだが、メキシコ壁画運動の絵に比べると抽象的のようだ。何が描かれているのかをじっくり見る時間はなかった。
入口横に観光案内所があった。わりと広い部屋の奥で2人の職員がパソコンに向かっていた。忙しそうで、観光客に積極的に声をかけたりする余裕はなさそうだった。手前壁際にいくつかパンフが置いてあったので、声をかけてから、遺跡のパンフをもらってきた。ガイドのN氏が、職員のところに進み、Yucatán today(Año 32 No.373, Enero 15-Febrero 14 2019)という地図の載った無料観光情報誌をもらってくれた。
州庁舎ソカロ側の回廊
メリダの大聖堂(Catedral de San Ildefonso 聖イルデフォンソ大聖堂)は、アメリカ大陸で建てられた最初の大聖堂だそうである。なお、ここ大陸より先にカリブ海域の島々にスペイン人が住み着いていたので、カリブ海域を含む南北アメリカで最初に建てられたのは、カリブ海の島国のドミニカ共和国サント・ドミンゴ市の大聖堂である。
内部は、ごてごてとした装飾はなく、すっきりとしている。
大聖堂の中央祭壇 大きなキリスト像が祭られている
大聖堂を出てから馬車(calesa)で、ホテルに向かった。白い塗装が施され、いくつかの造花で飾られていて、新婚旅行の夫婦が乗るような馬車である。ヨーロッパ起源のこの種の馬車も、19世紀末頃までメリダの富裕層が利用していたものだそうである。途中、馬車の上から見ることのできるいくつかの建物などを御者(cochero)がスペイン語で案内してくれた。ただ、御者は前を向いての発声で、交通量の多い道路を走っているせいもあり、あまりよく聞こえなかったのが残念である。
ソカロから北上し、サンタ・ルシア公園/広場(Parque de Santa Lucía)を左手に見る。ここでは毎週木曜夜にユカタン地方の民俗音楽・舞踊が披露されるそうである。
右折し、「モンテホ通りの端」(Remate de Paseo de Montejo)のロータリーまで進み、モンテホ通りを北上する。メリダ市創設者の名を冠したこの大通りは、フランス・パリのシャンゼリゼ通りのように市の中でも重要な通りである。博物館のカントン宮殿(Palacio Cantón)の前も通る。モンテホ通りの北の方の「祖国への記念碑」(Monumento a la Patria)を回ってから少し戻ってホテルに着いた。大通りは祖国への記念碑より先にも延びていて、さらに先は「モンテホ延長」(Prolongación Montejo)という名で延びている。祖国への記念碑は、かなり大きく、4mの高さで外周40mの円の一部、カーブを描いたような半円の壁になっている。石の彫刻で、先スペイン期、植民地時代、独立、改革時代、革命、そして20世紀始めまでのメキシコの歴史の各場面を表している。1945年に建造が開始され、1956年にお披露目されたそうである。中央の頂上にはここでもこの日は、メキシコ国旗が半旗で掲揚されていた。
北側から見たところ。一番高い所に国旗が半旗で掲げられている。
ホテルで少し休憩をしてから、レストランでの夕食である。車で送ってもらえるのかと思っていたら、歩いて近くのカトゥン(Restaurante Katún)という名のレストランへ行った。2月14日の「愛と友情の日」の装飾なのか、入口上といくつかのテーブルに赤い風船が飾ってあった。カトゥンとは、マヤの長期暦(cuenta larga)で、7200日を表す語である。20キン(kin 日)で1ウィナル(uinal 月)、18ウィナルで1トゥン(tun 年)、20トゥンで1カトゥン(katún)、すなわち20×18×20日である。さらにその先は、20カトゥンで1バクトゥン(baktún 14万4000日=約394年)、そして13バクトゥン、187万2000日=約5125年でこの長期暦は終わる。
ユカタン郷土料理を食べた。グレープフルーツやマンゴー、ラスクが載ったサラダ、メインが、豚肉のソテー。飲物に、店のサービスでチャヤ(chaya)から作った青汁が出た。ホワイトチョコのムースがのったデザートのお皿には赤いフルーツソースで大きなハートが描かれていた。これも「愛と友情の日」用の装飾と思う。チャヤとは中米原産の多年生植物の潅木で、たんぱく質やビタミンなどを含み栄養豊富でマヤ時代からタマル(tamal トウモロコシ粉を練ったものをトウモロコシ皮やバナナの葉でまいて蒸したもの)に入れるなどして食されていたとのこと。ただ生の葉は有毒なので、熱湯で20分ぐらい煮てから食用にするそうである。飲みやすい青汁で結構美味しかった。
コップにチャヤの青汁。その手前に見せてくれたチャヤの葉。お皿はサラダ。サラダにラスクを2, 3片載せるのがユカタンの流行なのか、初日メリダのホテルの夕飯に続いて2度目。
メインの豚肉ソテー 柔らかく、今まで食べたことのない独特の味付けでとてもおいしかった
1990年の夏休み(6)、妻と小学生の子供2人の家族4人で1ヶ月メキシコを旅行した。メキシコ市に到着して翌日バスでハラパ市へ移動し、ハラパ市滞在中にそこの旅行代理店で、カンクンへの航空便(ベラクルスからカンクン、カンクンからメリダ)と、カンクンでの1週間のホテル滞在が組まれたパッケージを申し込んだ。ハラパ市で5泊した後バスでベラクルス市へ移動し見学後カンクンへ飛んだ。この時のフライトの小学生の娘のチケットだけが翌日の便になっていた。なんとか同じ便に変更してもらって事なきを得たが手配がいい加減であった。
カンクンで1週間のリゾートライフを楽しんだ後(この時のことはこの旅行記のカンクン編に書いた)、メリダへ飛んだ。メリダでは2泊し、初日は妻と子供たちはサンタ・ルシア広場(Parque de Santa Lucía)でのセレナーデの演奏(Serenata Yucateca. la Orquesta Típica Yukalpetén)を聴き、筆者は、一人で劇を見に行った。他はすべて4人で行動した。55年型のタクシーや馬車に乗ったり、民族衣装などの博物館(Museo de Arte Popular Méridaか?)、ソカロ(zócalo)、市場(Mercado)、動物園(Paruqe Zoológico)などを訪れた。動物園から出て近くのローストチキン(pollo asado)の店でチキンを食べた。店の中でチキンを焼くロール式機械が回っていた。ハーフサイズ(medio)がホール(entero)のきっかり半額と良心的な価格設定であったのと、何よりもとてもおいしかったので、最初ハーフを頼んだのに続いて、さらにハーフを追加注文した。もちろんトルティーリャ付きである。メリダからはメキシコ市へ飛んだ。
1972年の日墨交換留学生1期生としてのユカタン半島研修旅行では、メリダ(Mérida)のホテルに3泊し、市内と近郊の見学をした。日程表には、カバー遺跡(Kabah)とウシュマル遺跡(Uxmal)を訪れた後、メリダで宿泊、翌日メリダ市(Ciudad de Mérida):(独立)100年記念公園(Parque del Centenario)、イサマル(Izamal)を訪問してからメリダ泊、3日目は自由行動で、筆者のメモによると、プログレソ港(Puerto Progreso)、野口英世像、博物館(museo)を訪れたようである。博物館は、ガイドブックに線が引いてあるので、当時の考古学博物館(Museo Arqueológico)のことのようである。ガイドブックの市街図ではソカロ(大広場)の北東角、61番街と60番街の角に「博物館」とあるので、今はここには存在していない。メリダに3泊した後は、チチェン・イツァ遺跡(Chichén Itzá)、その後イスラ・ムヘーレス(Isla Mujeres)に向かっている。この頃、カンクンのリゾート地は開発が始められてはいたが、完成していなかった。