メキシコ到着3日目、ラス・コロラーダス塩田とリオ・ラガルトスの自然保護公園を見た後、チチェン・イツァ(Chichén Itzá)遺跡近くのホテルに入った。ホテルで夕食を食べた後、遺跡の敷地西にあるメイン・ゲート(Entrada principal)まで車で送ってもらって、遺跡内で行われる「ククルカンの夕べ」(Noches de Kukulkán)という光と音のショー(una proyección narrativa y audio lumínica)を見るために遺跡敷地内へ入った。
ゲートを入るのにチケットが2枚で、それぞれのチェック・ポイントがあった。連邦政府と州政府の両方の入場料を払う必要があるからである。ゲートからしばらく歩いて、チチェン・イツァ遺跡を代表する建造物、写真で良く見る、エル・カスティヨ(el Castillo 城)あるいはククルカン神殿(El Templo de Kukulkán)というピラミッドが見える広場に来た。ピラミッドは、赤や青など色を換えながら照らされ暗闇に浮かんでいる。ピラミッドには近づけないようロープが張ってあり、その手前に椅子がかなりの数、並べられている。椅子には番号が振ってあり、座席は指定である。かなり左手ではあるが一番前の列なので、エル・カスティヨとその左奥の戦士の神殿(Templo de los Guerreros)も見ることができる。さらに左の前には大きなスピーカーらしきものがある。遺跡の中の夜の散策もできるとのことで、ショーが始まるまで、妻が1人で回ってきた。散策ルートは決められていて、建造物に近づいた人が監視員に注意されていたそうである。
時の始まりではすべてが漂っていて、創造者が宝石を落とすと、それからセイバの木(ceiba)が1本生えてきた。その四方に赤(東)、白(北)、黒(西)、黄(南)のセイバも生えてきた。幹のあたりに人間が漂い、樹上に天国、根元に冥界がある。マヤ人は生と死の永遠の循環を信じていた。ユカタンの晴れた夜、マヤ人は星々を見て過去から学び、未来を明らかにしていた。千年に渡る星の知識から強力な領国を築いた。
チチェン・イツァとは「水の魔法使いの井戸のほとり」という意味で、天然の井戸、聖なるセノーテの周りに築かれた。最初は正面を雨の神(Chaac)の像で埋めるようなプウク様式の建造物が建てられた。2世紀間放棄された後には、戦士の神殿(Templo de los Guerreros)で見られるように、列柱を立てて建物内の空間を確保するような、メキシコ中央高原の様式が混じってきた。ククルカン神殿は、マヤの暦を元に建てられている。4面各1つの階段はそれぞれ91段、合計364段、頂上最上段を足して365で1年の日数になる。春分(equinoccio de primavera)と秋分(equinoccio de otoño)には、日没時、北面の階段横に影でククルカンの姿が降りてきて、大地と人々に新たな生をもたらす。セノーテは冥界(inframundo)への入り口で、干ばつ時には雨の神、チャーク神への人身御供が行われた。マヤにとって死は再生のもとであり、生をもたらすために死が必要である。球技(Juego de pelota)で、球技場は天空を、球は太陽を象徴し、試合の終わりには首をはねる。戦争は神に捧げる犠牲者を得るために行われる。
マヤの都市は放棄され、マヤ人の知識、宗教の大部分は失われてしまった。しかし農業技術、家庭の伝統、伝説、信仰儀式は伝えられていて、言語は二百万人以上の人が話す。チチェン・イツァは、考古学研究の対象のみならず、マヤ文明の最高の遺産(supremo legado)であり、古代メキシコの宝(tesoro)、世界の素晴らしきもの(maravilla)である。
約30分の光と音のショーが、先祖から受け継いだ遺産としての賞賛で終わると、観客からは拍手が起きた。ピラミッドなどの遺跡が立つ現場での、先祖の文化遺産を大切に思うというメッセージは、真っ直ぐに胸に伝わってくる。
翌朝、日中のチチェン・イツァ(Zona Arqueológica de Chichén Itzá)の見学に出かけた。昨夜のようにゲートまで車で送ってもらえるのだと思っていたが、ホテルから歩いて、南のゲートから入る。ゲートを入って歩いていくと大勢の現地の人達が、土産物や飲物などを売る出店を開いていたり、開く準備をしている。
チチェン・イツァは、ディエゴ・デ・ランダ(fray Diego de Landa 1524-1579)の『ユカタン事物記』(Relación de las cosas de Yucatán)に、チチェニサ(Chichenizá)として記述されている。(和訳 6や42章など p.262~449. Electronic edition by Christian Prager: VI, XLII, etc. 12~115)
先住民が先祖から聞いた話として、チチェン・イツァを治めていたのは、西方から来た3人の兄弟、あるいはククルカン(Cuculcán)と呼ばれた偉大な首長だという。多数の人を集め大集落を作り、信仰が厚く壮麗な建物を多数建造し、何年間か平和に、かつ公正に統治していた。しかし首長の1人がいなくなった後の首長たちが公正を欠き、不誠実で節度を欠いたため、人々が彼らを殺害して、この地を破壊し放棄してしまったなどと書かれている。
最も壮大な建物、ククルカンの神殿(エル・カスティヨ)が描写されている。四方に各91段の階段を持ち、手すりの下に蛇の口をした石の像があること、頂上に4つの部屋を持つ建物があることなど。他にも建物がいくつもあり、建物の間の地面は漆喰で固められていた。ククルカンの神殿の北に2つの基壇(金星の基壇と鷲とジャガーの基壇)がある。その前の広場から美しい広い道が伸び、その先に池がある。その池には旱魃の時に人間の生贄を捧げ(1)、供物を投げ入れる習慣が最近まで続き、(ランダがいた時も)人々が巡礼に行っていた。投げ入れた生贄は3日目に出てくると考えられていた(決して戻ってくることはなかったが)。スペイン人が来てからの時代に、旱魃となったためマニ(Mani)の首長シウ家(Xiues)がこの池に奴隷の男女を生贄にささげようとしたことも書かれている。
また、スペイン人総督のモンテホがここの土地をマヤの首長から与えられてその後の征服の拠点としたことも記されている。
INAH(Instituto Nacional de Antropología e Historia メキシコ国立人類学歴史研究所)のウエブ・サイトによるとチチェン・イツァは、紀元525年から1200年までのマヤの都市、すなわち宗教センターであり、古典期後期900年から1200年まで栄えたとのこと。(日本の平安時代(794-1192)と部分的に重なる)。
「井戸のほとり」という名前のように、北に聖なるセノーテ(Cenote Sagrado)、南にシュトロック・セノーテ(Cenote Xtoloc)がある(2)。
5世紀からのプウク様式のいくつかの建物があり重要な古典期マヤの都市であったチチェン・イツァに、メキシコ中央高原からククルカン(ケツァルコアトル)に率いられた軍勢が紀元987年(あるいは967年)にやってきて、マヤ軍を破り、新しい神殿を築き、トルテカの文化をもたらした。戦士の神殿(Templo de los Guerreros)、刻まれた戦士像、カラコル(天文台)(el Caracol)の円形建物、傾斜のある基壇の基底部、ツォンパントリ(El Tzonpantli)、チャク・モール像(Chac Mool)などがトルテカの遺跡と共通している。10世紀以降は、古くからのマヤ文化に、外来のトルテカ文化が融合して、新しい文化スタイルが作られたのである。これがユカタン半島の広い地域に文化的影響を与えた。13世紀以降は、大きな建造物が建てられなくなり、15世紀からチチェン・イツァは、急速に没落した。「先スペイン期の都市チチェン・イツァ」(Ciudad prehispánica de Chichén-Itzá)の名で1988年にユネスコ世界遺産に登録されている。
敷地の南の方から建造物を見ていく。次のような建造物を見た。金星の基壇(Plataforma de Venus)と丸い基壇(Plataforma Redonda)、高僧の墓(オサリオ神殿 El Osario “納骨堂”)と、元はその建物の上にあって、今は下に置いて組み立てられている南西壁面角の仮面(Mascarones de la esquina Suroeste)、カラコル、尼僧院(Conjunto de las Monjas)、教会(La Iglesia)、東別院(Anexo Este)などが、チチェン・イツァの象徴的なククルカンの神殿/カスティヨ(El Castillo)の南西にある建造物群である。
教会と名付けられた建物。これもプウク様式。
泳ぐことができるセノーテで、シャワーや着替え室などの施設がある。かなりの観光客で賑わっている。セノーテは、通路から階段をかなり降りたところに水面がある。我々はレストランへ直行する。
客が多いので、長いテーブルが並んだ中、席に付くのも大変だった。ビュッフェなので食べ物を取るのにも長い行列である。我々が座ったすぐ横に行列を作って立っている人たちがいて、味わうべき料理でもなかったが、とにかくゆっくり食事を楽しむことはできなかった。ウエイター達も忙しくしていて、妻がデザートのプリン用の小さなスプーンをもらいに厨房近くへ行ったけど、もらうのに待たされ、大きなスプーンしかくれなかった。(自分で取ってくるところにはナイフとフォークしかなかった。) 忙しくしているウエイターではあるが、また、なんらそれらしいサービスを受けているのでもないが、チップはここへと書いてある小さな籠を持ってきて我々の前へ置いていった。他の客の前にはその籠はないので、東洋人だからと考慮したのだろうか。
食事の後、妻がセノーテを見に階段を降りて行った。筆者は上で休憩しながら待っていた。PROFUNDIDAD: 50MTS (水深 50m)との表示があり、何人かが飛び込みをしていたそうである。中にはスマホで自撮りしながら飛び込む若い女性もいたとのこと。施設全体は、賑やかな保養地という雰囲気で、マヤの神聖なセノーテという雰囲気は無くなっているように思った。
階段を降りる途中から水面を見る。たくさん垂れ下がっているのは、マヤの神聖な木 ceiba (カポック)の根とのこと。
下の水面には泳いでいる人たち、上には地上が見える
イク・キル・セノーテを後にして、車でメリダ空港へ送ってもらった。空路メキシコ市へ向かう。