グアナファト大学脇にあるラ・コンパニア聖堂を見た。ラ・コンパニア(la Compañía)とは、イエズス会(la Compañía de Jesús)のことである。だからイエズス会聖堂とも和訳できる。最初イエズス会が立てた教会なのだが、現在は聖フィリッポ・ネリ祈祷所(オラトリオ)会(la Congregación del Oratorio de San Felipe Neri)の教会になっていて、同会のウエブページには「聖フィリッポ・ネリ祈祷所聖堂(ラ・コンパニア)」(Templo del Oratorio de San Felipe Neri (la Compañía))のように、ラ・コンパニアを括弧に入れて付記してある(1)。
イエズス会は、18世紀にグアナファトをヌエバ・エスパニャ(Nueva España 植民地時代のメキシコおよび中米)における活動の拠点にしていた。1747年に教会建設を始め、1765年に完成し落成式が厳かに執り行われたものの、数ヵ月後にイエズス会がヌエバ・エスパニャから追放されたため、この聖堂も一時は放棄されていた。1794年に聖フィリッポ・ネリ祈祷所会の教会として再開されたとのこと。当初は、バロック様式の教会であったが、バロックの要素が新古典主義の要素に置き換えるなどの大規模な改築が行われたそうである。
この聖堂の中央祭壇の左に行くと付属の絵画館(Pinacoteca)に入ることができる。この部屋は聖具室だったところで、現在は、17世紀から19世紀の、先住民とヨーロッパの混交(tequitqui)、副王時代(virreinal)、そして新古典主義(neoclásico)の三つの様式の非常に重要な絵画作品が展示してあり有料のようである(2)。当時我々は無料で中を見ることができた。聖像の修理作業をしている人がいた。
ユネスコ世界遺産「歴史的都市グアナフアトと近郊の鉱山群」(Ciudad histórica de Guanajuato y minas adyacentes)の説明文の中にも、この教会とバレンシアナ教会((iglesia de) la Valenciana)は、「中南米のバロック建築の最も美しい教会に数えられる」(figuran entre los más hermosos ejemplares de la arquitectura barroca de Centroamérica y Sudamérica)と名があがっている。
我々が訪れた時は、装飾が派手なチュリゲーラ様式の正面は修復中で足場が組まれていて、見ることができなかった。
正面からは入れなかった。我々が入った側面の入り口
中央祭壇
1700年代にこの地で行われていた教育活動がグアナファト大学(Universidad de Guanajuato)の前身であると、同大学のウエブサイトにある(3)。1732年にホセファ・テレサ・デ・ブスト(Josefa Teresa de Busto y Moya)という女性篤志家がグアナファトの上流階級の援助を得て、自宅と先住民旧礼拝所で「聖三位一体学校」(Colegio de la Santísima Trinidad)を開いた。その後イエズス会士、聖フィリッポ・ネリ祈祷所会、植民地政府のグアナファト知事(intendente)などによって教育活動の存続と充実が行われてきた。独立後、一時閉鎖の危機もあったけれど、学校の司祭・教授陣の努力や州知事により、1827年に州の高等教育を担う州立機関として、建物、実験室、図書館などの充実が実現した。鉱山で栄えたグアナファトの教育機関として鉱物学の講座やその教材も充実されたそうである。
1945年に大学となった。1950年に交響楽団と演劇学科が創設され、演劇学科がセルバンテスの幕間劇を上演したことにより、国際セルバンテスフェスティバルが開催される元となったのである。1994年に州議会で大学の自治が承認され、現在はグアナファト市のみでなくグアナファト州の各地10の町にキャンパスを持つ総合大学だそうである。
別の日に、再度グアナファト大学の建物に来て、階段(escalinata)を登り、一番上からの町の景色を眺めた。建物と建物の間ではあるが、街中の建物の向こう、かなり先にはピピラの像が立ち、山並みが見える。その後、階段下の道路の向こう側のレストランで日替わり定食(Menú del día)を食べた。カボチャのクリームスープ crema de calabaza あるいは肉団子スープ sopa de albóndigas、ブリートス burritos、メインがトンカツ milanesa de cerdo あるいはトルティリャで卵と肉を巻いた料理 tortillitas の3皿の料理で、それに小瓶ビールまたは缶ソフトドリンク、コーヒー、アロス・コン・レチェ arroz con leche(ライスプディング)のデザートも含み50ペソと安かったのにとてもおいしかった。翌日もここで昼食を食べようと訪れたのだが、翌日は日曜だったので定食は無く残念だった。
グアナファト大学の階段
この日、町中をあるいているとあるホテルの入り口近くに長距離バス(ETN. Enlaces Terrestres Nacionales)の切符がここで買える(VENTA DE BOLETOS AQUÍ.)との宣伝ポスターがあった。グアナファト見学の後は、帰国便にのる空港があるメキシコ市に戻る必要があったので、ホテルのフロントにいた比較的年配の男性にバスの切符を買いたいと申し出た。早速電話してくれたのではあるが、かなりの時間待たされていた。バス料金の中に手数料として受け取る何パーセントかが含まれているはずと思うが、電話代で消えてしまうのではないかと余計な心配をした。その場では受け取ることができなかったが、その日の午後、予定していた日の座席指定の切符2人分を買うことができた。ただ、予約した時点では1人371ペソで2人で742ペソと言われていたのだが、チケットを受け取る時には、1人385ペソ2人で770ペソをカードで払った。電話代が加算されたのだろうか。(ちなみにカード引き落としは2人分で5302円であった)。
その後、銀行と公園でこの男性の姿を見かけたのだが、顔を合わそうともしなかったので、挨拶することもなかった。仕事とプライベートを区別しているのか、それとも切符の手配でもたついたことにこだわっているのかと思った。
様々な形をしたお面、リュウゼツランの繊維や土、金属など様々な材質で作られたミニチュアの玩具や民芸品などが興味深かった。土器や人形、トランプなどのカード遊びなどもあった。常設展示室には18世紀から19世紀メキシコ、特にグアナファトの芸術家の絵画など芸術作品や食器が展示されている。
グアナファト州文化庁の博物館で、17世紀に立てられ貴族の屋敷だった建物に入っている。1978年に博物館として改装され1979年に開館したそうである(4)。
メキシコ壁画運動3巨匠の1人、ディエゴ・リベラ(Diego Rivera 1886-1957)の生家として1975年から博物館となっている(5)。4階建ての家の中に、1階は、食堂やお母さんやおばさんの寝室など、当時のベッドなど家具調度がその頃の生活を偲ばせるように置いてあった。2階と3階が常設展示室で、リベラの子供の頃の作品から、晩年までの作品が展示してある。4階は、特別展のための展示室である。
町中の比較的南の方に、口付けの小道(Callejón del Beso)という観光スポットがある。道を挟んだ左右の家が一部で接近していて、片方の家の2階のバルコニーから向かい側の家のバルコニーとで、身を乗り出して移動したり、口付けができるほどの狭い道である。悲劇の恋人同士の伝説がある。鉱山主の娘と鉱山で働く若者が恋人同士になり、鉱山主の父親が片方の家に娘を閉じ込めていたところ、娘の召使の手配で恋人の若者を向かい側の家に間借りさせ、二人は小道越しに逢引を重ねた。ある日父親が気づき、ナイフで娘を刺し殺してしまった。若者も悲観し崖から身を投げて死んでしまったという伝説である。金持ちの鉱山主という登場人物は、銀鉱山で栄えたここグアナファトならではの伝説である。
7時からエストゥディアンティナ(estudiantina)の演奏と練り歩き(Callejoneada)があると聞き、ラ・ウニオン公園(Jardín de la Unión)の向かいの聖ディエゴ聖堂(Templo de San Diego)の前(Atrio)に行き、聖堂の中を見たりして演奏を待った。エストゥディアンティナというのは、トゥナ(tuna)ともいい、伝統的衣装で陽気な歌を歌い歩く(学生の)音楽隊のことで、起源となったスペインではトゥナという。
何人かの見物人や衣装を着た演奏者がいた。音あわせなどをしているだけで、なかなか演奏が始まらない。始まったのは7時半頃、その場で1, 2曲演奏した後、練り歩きに出発した。我々は、その場での演奏鑑賞と練り歩きの後を少しだけついて歩き、演奏開始後20分ぐらいで分かれてホテルに帰った。普通我々は夜は外出しないのだが、この日はエストゥディアンティナを見たかったため、特別だった。しかし早々にホテルに戻った。
トゥナは、13, 14世紀のスペインで貧しい学生が学費や生活費を稼ぐために陽気な歌を歌い楽器を演奏したのが起源という説もある。ここグアナファトでは、1962年にグアナファト大学学生のグループが始め、今は3つほどのグループがあるそうである(6)。