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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

メキシコ プエブラ&チョルーラ編

堀田英夫

2001年8月と2003年8月に、メキシコ国プエブラ州(Estado de Puebla)のプエブラ市(Puebla)(1)とチョルーラ市(Cholula)のほぼ中間にあるプエブラ・ラス・アメリカス大学を訪れた。勤務先大学の学生達が、この大学の夏期講座に参加するため渡航した日に合わせて渡航したものである。学生達は4週間程の講座であったが、筆者は最初の1週間程のみ滞在した。滞在中、夏期講座での教育方法や教材などの視察、同大学関係者との打ち合わせや共同研究を実施した。2001年には、勤務先大学学長がラス・アメリカス大学教職員と学生対象に講演をされ、筆者がその通訳を務めた。講座には、受講学生対象に、大学内外でのアクティビティ、近郊への小旅行や研修旅行が複数組まれていた。そのうち、筆者滞在中に行われたものには同行した。休日などの空いた時間には1人でプエブラ市などを見に行った。

プエブラ・ラス・アメリカス大学

『愛知県立大学スペイン学科同窓会会報¡Hola!』6号, 2001年10月, p.28に「メキシコの協定大学」というタイトルで筆者が書いた記事のラス・アメリカス大学紹介部分を、ここに転載する。

 メキシコ市から南東へ車で約2時間半のところにあるプエブラ市の閑静な郊外に、プエブラ・ラス・アメリカス大学(Universidad de las Américas Puebla、略称UDLA)という私立の総合大学があります。16世紀コルテスのアステカ王国征服進軍中、大虐殺がおこなわれたチョルーラ(Cholula)にも隣接しています。かつてのアシエンダ(hacienda 大農園)の跡地を大学にしたもので、サッカー場が3、4面、陸上競技トラック、野球場、プールなどの運動施設や、芝生、並木、庭園、池がある中に図書館、診療所、学生会館(食堂、売店、コピーセンター、郵便局等を含む)、いくつかの学生寮や各学部の建物が点在する広大なキャンパスです。大学の紋章を付けた警備員が警備する門の中は、外のメキシコ世界とは別世界です。

(C) 2001 Hideo  H. ラス・アメリカス大学、Hacienda(農園)と呼ばれる建物の中庭。スペイン語集中講座担当部局CILC(言語文化国際センター)事務室や人類学部の教室や研究室がある。2001年8月



ラス・アメリカス大学は、1940年設立のMexico City Collegeという私立大学を元に、1970年に、Santa Catarina Mártir(殉教者聖カタリナ)というHacienda(大農園)だったところに開校したとのこと。Santa Catarina Mártirは、3世紀末のエジプト、アレクサンドリアで殉教したキリスト教の聖人のことのようである。大学の住所は、“Ex Hacienda Sta. Catarina Mártir S/N. San Andrés Cholula, Puebla. C.P. 72810. México”で、以前の農園の名前となっている。

プエブラ市 Puebla

「プエブラ歴史地区」(Centro histórico de Puebla)は、ユネスコの世界遺産に登録されている。ユネスコのサイトにある説明文によると、メキシコ市の東約100kmのところ、ポポカテペトル火山(el volcán Popocatepetl)の麓に1531年に創設され、16, 17世紀に遡る大聖堂(catedral)などのキリスト教の建造物、大司教館などの壮麗な宮殿、化粧タイル(azulejo)で被われた壁の家々が多く残っている。またこの町のバロック様式は、ヨーロッパと新大陸の建築・芸術様式をこの地方で融合させたもので独特のものであるとしている。
 市街図を見ると、町中の通りが東西南北の碁盤目状に走っていることがわかる。ソカロ(Zócalo 中央広場)の北西角を中心として、基本的に番号と方角で合理的に通りの名が付けられてい(2)。この名前でもって、およそどれくらいソカロから離れているかとソカロからの方角がわかる。

(C) 2001 Hideo H. プエブラ大聖堂の正面。2001年8月


大聖堂(la Catedral de Puebla)、すなわち「無原罪の御宿りの聖母バリシカ大聖堂」(Catedral Basílica de Nuestra Señora de la Inmaculada Concepción)の周りは、鉄柵の塀で囲まれている。広場側の正面入口をはいり、石が敷き詰めてあるちょっとした広場を通って大聖堂の入口に行く。新古典様式(neoclásico)の建物で、中央入口の上もかなり高い壁になっているが、左右の塔がそれ以上に高く聳えている。
 1546年に建築が始められ、たびたび中断を経て、1649年に法王から教会として認められ(聖別され)るも建物はその後も増築されていった。 北側の塔は1678年、南側のは1768年に建てられたそうである。基礎部分がラテンアメリカで最も大きい大聖堂とのことで、壮大さがわかる。

17世紀に建てられた聖ドミンゴ教会(La Iglesia de Santo Domingo)に付随するロサリオ礼拝堂(La Capilla del Rosario)の内部は、天井や柱に金を豊富に使った細かい装飾がびっしりと施されていて、祭壇も金で被われている。メキシコ・バロック様式のすばらしさを見せている。

プエブラの建造物にも使われている陶磁器のタラベラ焼き(talavera poblana)は、近隣の土が焼き物に適していて、先スペイン期の土器製造の伝統と、スペインのタラベラ・デ・ラ・レイナ(Talavera de la Reina カスティーリャ・ラ・マンチャ自治州トレード県の町)の焼き物技術を受け継いでいる。市内にいくつかタラベラ工場・売店があり、見学できる。2003年にウリアルテ・タラベラ工房(Uriarte Talavera)を訪れた。1624年創業で、16世紀からの工法で伝統的なデザインや色使いを保ちつつ現代的な作品も製造しているとのことである。

(C) 2003 Hideo H. ウリアルテ・タラベラ工房。2003年8月


(C) 2003 Hideo H. タラベラ焼の壷と皿の製作工程の展示。ウリアルテ・タラベラ工房にて。2003年8月


プエブラにはいくつかの博物館がある。先スペイン時代の考古遺物から植民地時代、現代の美術・工芸品を展示しているアンパロ博物館(Museo Amparao)を2001年に見学している。病院、学校などに使われた植民地時代の建物を利用し、1991年に博物館として開館した。アンパロとは、博物館の創設者である実業家マヌエル・エスピノサ(Manuel Espinosa Yglesias 1909 - 2000)の夫人の名前である。

(C) 2001 Hideo H. アンパロ博物館の展示物と、前方は中庭。2001年8月


プエブラ市近郊の小高い丘の上にロレート砦とグアダルーペ砦(Los fuertes de Loreto y Guadalupe)が再建されている。ここは19世紀のフランス軍対メキシコの戦闘など、いくつかの戦いの舞台となったところである。丘の上からはプエブラ市が眺望でき、プエブラ市攻防の戦略上重要な地点であったことがわかる。ロレート砦博物館(Museo del Fuerte de Loreto)があり、2001年に訪れたときは、写真パネルなどでメキシコの歴史を説明する展示があったことを記憶している。

レンガ色の建物が白いクリームで装飾されたような砂糖菓子の家(Casa de Alfeñique)も「地方博物館・砂糖菓子の家」(Museo Regional Casa de Alfeñique)という博物館である。ヨーロッパとヌエバ・エスパニャ(Nueva España 現メキシコ)の融合したバロック様式芸術の代表的な建物で、18世紀末に建てられたものとのこと。ある一族の代々が住まう私的所有の屋敷であったものがプエブラ州に譲られ、1926年に、州で最初の博物館となったそうである。18世紀から19世紀の、馬車や家具、食器、台所用品、宗教画や彫刻などが展示してある。

チョルーラ Cholula

チョルーラという地名は、スペイン人征服者エルナン・コルテス(Hernán Cortés)によるメキシコ・アステカ王国征服の物語の中で、コルテスらによって行われた大虐殺の場として有名である。
 1519年、コルテスが700人弱の兵力を率い、キューバ島から出帆し、マヤ地域で小規模な戦いをした後、ベラクルス(Veracruz)付近に上陸した。先住民トトナコ人をたくみに味方にして、さらにトラスカラ人と戦って勝利し、和睦の後、配下に付けた。そしてアステカ王国の首都テノチティトラン(現メキシコ市)へ攻め上る途中、チョルーラで数千人を殺戮したのであ(3)
 このチョルーラの虐殺(la matanza de Cholula)についての先住民側記述の1つ(の和訳)を引用する。

「スペイン人は... 武装して行き、到着するや、貴族・首長・隊長・兵士そして民衆すべてに出て来るよう呼び声や叫び声が上がった。神殿の中庭は人で一杯になった。全員が集まると、スペイン人は出入りする門をことごとく閉じた。
 チョロールラ人は直ちに刺され殺され殴打された。チョロールラ人はまったく不意をつかれたのであった。矢も盾も持たずスペイン人と戦った。騙され、わけも分からず、予告もなく殺されてしまった。」

サアグン編「メシコの戦争」小池佑二訳(ナワトル語からの訳). コルテス他『征服者と新世界』大航海時代叢書第II期12, p.35)

ちょっと高い山を上ると、頂上にカトリックの教会が建っている。ロス・レメディオス教会(El Santuario de Nuestra Señora de los Remedios 救済の聖母)である。1594に建造が始まったけれども1864年の地震で破壊され、同年再建されたとのこと。山は、実は大ピラミッド(La Gran Pirámide de Cholula)である。麓では考古学上の発掘調査が続いている。ピラミッドの底辺(400m四方)は、世界最大とのこと。スペイン人征服者コルテス達が来る数世紀前に神殿(ピラミッド)としては使われなくなっていて、頂上で雨乞いのため祈りが捧げられていたものの、自然の丘に見えたのでスペイン人達による破壊は免れたそうであ(4)。チョルーラにあった他の多くのピラミッドは、破壊され、その石材が教会や屋敷を建てるために利用された。

(C) 2003 Hideo H. 山(ピラミッド)の頂上にカトリックの教会がある。手前麓では発掘調査が継続中。2003年8月


 「大ピラミッド」の近くに、チョルーラ考古学博物館(Museo de Sitio de la Zona Arqueológica de Cholula)がある。この地域の考古学資料の土器、葬祭儀礼、壁画模写などが展示してある。

プエブラ市の西、チョルーラ市の南数キロのところにトナンスィントラ村(Tonanzintla)があ(5)。そこに聖マリア・トナンスィントラ教会(Santa María Tonanzintla)が建っている。それほど大きくはない。正面外壁は赤いレンガで被われ、等間隔で星の模様が書かれたタイル(azulejos)がはめ込んである。正面左の上、すこし向こうに立っている1本の塔、鐘楼も同じように外壁が装飾されている。内部に入ると、壁、柱、天井、建物の内側すべてが、黄金で彩られた彫刻や装飾でびっしり敷き詰められていて、視界全部を覆う装飾を前にして、どのように表現したらよいかわからない。人物像や顔も多く埋め込まれている。人物像には先住民風のものもある。正面の中央祭壇は、小さな子供の像や花などの散りばめられた螺旋形装飾の柱(columnas salomónicas)4本で守られ、聖母マリア像が祀られている。先住民の世界観や技術、美意識が混じり込んだバロック様式である。


<注>
2003年8月と2001年8月に旅行し、見聞したことと旅行後に調べたことを書いた。いくつかの文献やサイトを参考にした。
https://www.udlap.mx/web/
http://webcatolicodejavier.org/SantaCatalinaMartir.html
https://sic.cultura.gob.mx/ficha.php?table=museo&table_id=1198
https://sic.gob.mx/ficha.php?table=museo&table_id=879
https://whc.unesco.org/en/list/416
https://es.wikipedia.org/


(1) プエブラは、1531年にスペイン人修道士達によって「天使のプエブラ」(Puebla de los Ángeles)の名で創設され、翌年スペイン王室より「天使の市」(Ciudad de los Ángeles)の称号を与えられた。
 日常にはプエブラ(Puebla)というだけで通じるのであるが、公式名称はプエブラに付け加える語が増やされてきている。1862年5月5日のプエブラ近郊での戦闘で当時世界最強と言われたフランス軍を撃退したメキシコ軍指揮官イグナシオ・サラゴサ(Ignacio Zaragoza 1829-1862)にちなんでベニート・フアレス大統領令により「サラゴサのプエブラ」(Puebla de Zaragoza)、1950年に州議会によって「サラゴサの英雄的プエブラ」(Heroica Puebla de Zaragoza)とされ、2014年には同じく州議会で「サラゴサの4度の英雄的プエブラ市」(Cuatro Veces Heroica Ciudad de Puebla de Zaragoza)という名にすることが決められている。「4度の英雄的」とは、フランス軍の侵攻を撃退した1862年5月5日の戦闘(Batalla del 5 de mayo)、1863年3月16日から5月17日のフランス軍による包囲戦、マクシミリアノ皇帝派軍隊を破りプエブラを奪還した1867年4月2日、ポルフィリオ・ディアス政権とセルダン兄弟(los hermanos Serdán)との1910年9月18日のメキシコ革命前哨戦の4度の歴史的戦いを意味している。

(2) 東西に走る道はソカロから北に、それと南北(Calle)の道は東に、2, 4, 6...というふうに偶数で数字が増えていき、東西の道は南に、南北の道は西に3, 5, 7...と奇数で増えていく番号が通り名である。南北に走る通りは、ソカロより北部分がノルテ(Norte 北)が番号に付け加えられ、同じ番号の通りを南に下ると、スル(Sur 南)が付けられている。東西に走る通りは、東がオリエンテ(Oriente 東)が付けられ、西がポニエンテ(Poniente 西)が付いている。
 南北に走る2番街ノルテ通りと3番街ノルテ通りの間は、方角と番号とは違い、スィンコ・デ・マヨ通り(5 de Mayo 5月5日)、2番街スル通りと3番街スル通りの間はディエスィセイス・デ・セプティエンブレ通り(16 de Septiembre 9月16日)がある。「5月5日」の名は、勝利した1862年のフランス軍との戦闘からである。「9月16日」は、1810年のドローレス村でのイダルゴ神父によるメキシコ独立を呼びかける「ドローレスの叫び」の日からである。
 東西の通りも2番街と3番街の間は、東がマヌエル・アビラ・カマチョ通り(Avenida Manuel Ávila Camacho)、西がレフォルマ通り(Avenida Reforma)である。マヌエル・アビラ・カマチョ(Manuel Ávila Camacho 1897-1955)は1940年から46年の大統領である。レフォルマ(Reforma 改革時代)は、1854年から1867年の保守派と改革派とが闘争したメキシコ史の一時代を意味する。

(3) 殺戮の方法や人数などについては、史料によっていくらか異なる。
 コルテスの1520年10月30日の「第二報告書翰」に書いているところによると、話し合いをしたいからと町の首長たち(señores de la ciudad)の何人かを集め、1つの部屋に閉じ込め、縛り上げて、小銃(escopeta)を撃つことで部屋の中の大勢に当たるようにした。そのため短い時間のうちに3000人以上を殺した(コルテスは「死んだ」(murieron)と表現している)。さらに先住民が立てこもって反撃していたいくつかの塔(torres 神殿のことか?)や家々に火をつけ、5時間にわたって戦い続け、住民の大部分を追いやったとある。この時5000人のトラスカラ人と400人のトトナコ人がスペイン人側として攻撃に加わったと書いている。Hernán Cortés Cartas de Relación Ed. Porrúa "Sepan cuantos...", 7, México 1970 5ª ed. pp.44右,45左. チョルーラは、Churultecatlと書かれている。和訳:コルテス「報告書翰」『征服者と新世界』大航海時代叢書第II期12所収. p.156
 コルテスの部下のベルナルディーノ・バスケス・デ・タビアによると荷担ぎ用に必要と言って、四、五千人を集めさせ神殿の中庭で虐殺した後、チョルーラ市内でも攻撃を行ったので、殺されるか捕虜になるかした人数は2万人に上ったそうである。コルテス他『征服者と新世界』大航海時代叢書第II期12、p.157注31による。

(4) Gabriera Uruñuela & Patricia Plunket “4. Puebla: Volcanes que enmarcan pirámides, conventos, y una ciudad trazada por ángeles”, 『共生の文化研究』3,(pp. 49-54. 和訳 pp.43-48)による。

(5)  トナンスィントラ(Tonanzintla)とは、ナワトル語で to-「私たちの」 + nan-tli「母」 + -tzin(敬称) + -tla「所」と解釈でき、「私たちの尊敬すべき愛すべき母がいる所」(lugar donde está nuestra muy reverenciada o querida madre)の意味。スペイン語では、“Lugar de nuestra madrecita”となる。先住民の母なる太地神への礼拝が行われていたこの地で、カトリックの聖母マリアへの礼拝へと昇華されたととれる。Ignacio Cabral Pérez Santa María Tonanzintla, 1989(1997), Ed.UDLA Puebla, Méxicoを参照した。



※写真はいずれも2001年と2003年8月メキシコにて撮影 [©️2001, 2003 Hideo H.]
2018/11/28.- 2020/12/11.

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