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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

メキシコ(5) ケレタロ市 編

堀田英夫

朝8時半にグアナファトのホテルを出て、車で2時間走り、ケレタロの町に入った。ケレタロ州(Estado de Querétaro)の州都の名は、正式にはサンチアーゴ・デ・ケレタロ(Santiago de Querétaro)である。手元の古い日本のガイドブックなどではケレタロとしか書いてない。メキシコの歴史上いくつかの重要な舞台となった町であ(1)、シンボル的建造物として水道橋がある。

ケレタロ州(ピンクのところ)。赤丸のあたりが州都ケレタロ市。
d-maps.comのサイト(http://d-maps.com/carte.php?num_car=1388&lang=es)から一部改変


町に入って道路を進むうちに車の中からも水道橋が見えた。18世紀に建造されたということで、作られた時代と大きさでは、2世紀に建造されたスペインのセゴビア(Segovia)のものよりは見劣りするけれども、メキシコでもこのような水道橋が作られていたという驚きを感じることはできる。74のアーチ(arco)で支えられ、1,280メートルの長さで、一番高いところは23メートルあるとのことである。新鮮な水が手に入らず汚れた水が引き起こす病気をなんとかしたいと願っていた修道女マルセラ尼(Sor Marcela)の願いを聞き入れたフアン・アントニオ・デ・ウルティア(Juan Antonio de Urrutia y Arana)侯爵(Marqués de la Villa del Villar del Águila)により1726年から1735年にかけて建造されたとのことである。

(C) 2016 Setsuko H. 道路から見る水道橋


水道橋を眺められるところとして高台に案内された。「ケレタロ出身偉人の霊廟」(Recinto de honor de las Personas Ilustres de Querétaro)である。東の柵の際まで行くと町並みが一望でき、町中の遠くに水道橋がまっすぐかなりの長さに立っているのが見える。あいにくこの時間には雲が多くなって、くっきりとは見えない。霊廟の方は、単なる墓地ではなく、ホセファ・オルティス・デ・ドミンゲス(Josefa Ortiz de Domínguez)など、祀られている偉人の業績の紹介などの展示がある。

(C) 2016 Setsuko H. 高台から見た水道橋


1810年9月16日のイダルゴの「ドローレスの叫び」から始まる独立戦争の前、このケレタロの町で文芸の同好の集まりを装い、クリオリョ(criollo. 新大陸生まれスペイン人)のグループがメキシコ独立を密談していた。そのグループを援助していたのが、当局側であるはずの、この地域のコレヒドール(corregidor. 代官)ミゲル・ドミンゲス(Miguel Domínguez)とその妻ホセファ・オルティスである。サン・ミゲル・デ・アジェンデ(当時はサン・ミゲル・エル・グランデ)の町にも同様のグループがあり、そのグループの軍人イグナシオ・アジェンデ(Ignacio Allende)などがケレタロのグループと連絡を取りあい、ドローレス村の神父ミゲル・イダルゴもこの動きに加わっていた。彼らが10月1日に蜂起することを決めたのであるが、この計画が当局に密告され、共謀に加わった者たちが逮捕されることになった。この当局側の動きを事前に察知し仲間に知らせることに大きな役割を果たしたのがコレヒドールの妻(corregidora)ホセファ・オルティスである。そのおかげで9月16日にイダルゴらが「叫び」と、それによる蜂起の行動を起こすことができたのである。

その日もかなり寒かったが、霊廟から西へ7~8分歩いて、サンタ・クルス教会・修道院(Templo y Convento de la Santa Cruz)の中を見学した。修道院では、そこのガイドさんから、十字架状のトゲができる植物が生えている場所を見せてもらい、水道橋からの水を水槽で受けて、炊事に使ったり食材の倉庫を冷やすために使っていたことの説明を聞いた。中庭の一つにはバスケットコートが作られていた。修道士たちもバスケットをするようである。
 メキシコで改革派と保守派が争い、フランス軍などの干渉を受けて内戦状態だった時代、ケレタロは、ベニート・フアレス政権側の軍に敗退し続けたメキシコ皇帝マキシミリアン(Ferdinad Maximiliano. 1832-1867. 在位1864-1867)の軍が1867年に最後の拠点とした地である。フアレス政権側の軍に包囲され食糧が尽きたケレタロの中で、サンタ・クルス修道院を拠点としていた皇帝側の1隊の隊長がフアレス政権側に寝返り、フアレス政権軍が勝利したとメキシコの歴史の教科書にあ(2)。捕らえられたマキシミリアン皇帝は、ケレタロ市内の共和国劇場(Teatro de la República. 以前はTeatro Iturbideという名)で開かれた裁判で死刑判決を受け、ケレタロ市西のカンパーナスの丘(Cerro de las Campanas. 鐘の丘)で銃殺された。

ケレタロ市は、「ケレタロの歴史史跡地区」(Zona de monumentos históricos de Querétaro)の名で世界遺産に登録されている。ユネスコのサイトの説明によると、先住民が元々住んでいた蛇行した通りの地区とスペイン人征服者が計画した碁盤の目状の地区とがあるのが特徴である。この町でオトミ、タラスコ、チチメカなどの先住民とスペイン人が平和に共存していた。 豊富な装飾がほどこされた、17, 18世紀の黄金時代に遡るバロック様式の建物や教会が多くある。

(C) 2016 Setsuko H. ケレタロ歴史地区の町並み


17世紀に建立されたサンタ・クララ教会(Templo de Santa Clara)を訪れ、新古典主義の建造物である「ネプチューンの噴水」(Fuente de Neptuno)も見た。18世紀末に作られたものとのことで、石造りのアーチの下にネプチューンの像が立っている。サン・フランシスコ教会(Templo de San Francisco)にも入った。付近のいくつかの公園や町中の石畳の道を散策していた時、「共謀者たちの博物館」(Museo de los Conspiradores)の前を通った。入り口にツタンカーメン展(Tutankamón)の看板とポスター、それにアヌビス(Anubis)神の大きな像が飾ってあるのを見た。3月から8月までの展覧会とのことである。「共謀者たち」(conspiradores)の名は、文芸の集まりを装って独立のための蜂起を話し合ったクリオーリョたちを讃えてのことだと思われる。憲法広場(Plaza Constitución)にあった観光案内所で町の地図をもらっ(3)。ここより2ブロックほど北にある共和国劇場(Teatro de la República)が、メキシコ革命(1910-1917)後、ここで現行のメキシコ憲法(1917年)が公布されたという歴史的なところである。
 散策の後、「レストラン1810」で昼食を取った。アルマス広場(Plaza de Armas)に面していて外にもテーブルがあるが、その日は寒かったので建物の中で食事した。食事の後、メキシコ市へ向かう帰路についた。

(C) 2016 Setsuko H. ネプチューンの噴水



<注>
2016年3月に旅行し、見聞したことと旅行前後に調べたことを書いた。

(1) メキシコの歴史は、以下のような文献を参考にした。
Jiménez Moreno, Wigberto et al. Historia de México, Ed.E.C.L.A.L.S.A.(1970)
ラテンアメリカ協会『ラテン・アメリカ国情叢書 メキシコ』(1968)
増田義郎『メキシコ革命』中公新書(1968).

(2) Jiménez Moreno(1970)pp.516-517.

(3) 地図の裏には、観光スポットの説明がある。このページを書くうえで参考にした。



※写真はいずれも2016年3月メキシコにて撮影 [©️2016 Setsuko H.]
2017/10/10 - 11/18.

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