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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

メキシコ カバー遺跡&ウシュマル遺跡 編

堀田英夫

2019年2月に、7日間の日程のメキシコ旅行に妻と2人で参加した。アエロメヒコ航空(AEROMEXICO)で成田からメキシコ市(México)へ飛び、メキシコ市の空港でメリダ(Mérida)行きに乗り換えた。メリダには夕刻に着き、出迎えのガイドN氏にホテルへ送ってもらい、ホテルでの夕食で初日は終わった。

翌朝、ホテルから車でカバー遺跡(Kabah)とウシュマル遺跡(Uxmal)に向かう(1)
 車は、メリダ市市街を抜け、ほぼ一直線の道を走る。両側は潅木の平原が続いている。周りには高い山や建物などは見えない。ほとんど起伏の無い平地の中の道をかなり進むと、前方に少し小高くなっているのが見える。この丘陵地域はプウク(Puuc, pu'uk)という名で、ユカタン語(maya yucateco)(2)で「丘、丘陵」を意味するそうである。
 ユカタン州の地形(3)を見ると、北部の大部分は海抜の低い平地(メリダ辺りは海抜約13m)で、南西部に海抜50mから100mぐらいまでの丘陵地帯があることがわかる。ユカタン州南西部といっても、ユカタン半島とグアテマラからなるマヤ地域の中では、かなり北にあり低地北部に含まれる。
 カバー遺跡やウシュマル遺跡はこのプウク丘陵地域にある。カバー遺跡の辺りは、海抜約71m、ウシュマル遺跡の辺りは、海抜約91mである。ユカタン州(Estado de Yucatán)は、これらの遺跡を含め6つの遺跡と2つの洞窟をプウク・ルート(Ruta Puuc)と名付けてマヤ遺跡の見学コースとして示している。

カバー遺跡 Kabah

カバーとは la mano poderosa (力強い手)(4)と意味解釈されているそうである。紀元後600年から1000年頃までに建てられた建造物からなる、後古典期(Clásico Tardío)の都市である。道路(la Carretera Federal No. 261 国道261号)が遺跡敷地(Zona Arqueológica de Kabah)の真ん中を南北に走っていて、東側のコズ・ポープ(Codz Poop)と宮殿(El Palacio)という建造物、それに西側に入ってしばらく歩いた先にある凱旋門/アーチ(Arco)を見学できた。
 東側敷地に入って、コズ・ポープに向かう。広い芝生の中に立っているマヤの聖なる木セイバ(ceiba パンヤノキ, カポック)の説明をガイドのN氏から受ける。この旅行記の「グアテマラ(3) ティカル遺跡編」のページ(注3)でグアテマラの木として紹介した。

(C) 2019 Setsuko H.


 コズ・ポープとは「巻いたござ(5)という意味らしいがなぜこの名前なのかはわからない。西向きの正面に上の段に登る階段がある。その前の芝生には、ちょっと大きな石の筒状のものが立っている。ガイドのN氏によるとこれは男性器であり、大地の女性と対になって豊穣を願う宗教的な意味があるとのこと。近づいて表面を見ても彫刻や文字はない。形もただの円筒なので形だけではfalo(男性器)に見えない。他の資料ではこのことについての確認が取れなかった。グアテマラのマヤ遺跡では大きな建物の前には文字の刻まれた石碑が建てられていたのにこちらは違うようである。
 階段を登って3mぐらい高い上の段に行く。正面のさらに少し階段を登ったところに装飾のある壁を持ち4つの入口のある建物が見える。その手前の広いところには、彫刻が一部残っている石の建材が、建造物を再建するためなのか、何列かの直線状に並べられている。また中央あたりに、チュルトゥン(Chultún chultuno')という、かなり大きな(説明板によると直径6m)お盆のような丸い石造りで、中心にある穴に向けて少し傾斜があり、穴の下に水をためる装置もある。El Chultún del Dios Chaac(チャーク神のチュルトゥン)と題したスペイン語、ユカタン語、英語の3言語で書かれた古ぼけた説明板がある。プウク地帯は、泉や川がなく、一番近くの水のあるチャーク洞窟まで4kmあり、熱帯気候で11月から4月の雨が降らない乾季には、雨季の間に貯めた雨水に大いに依存していたそうである。マヤ地域南部のグアテマラのマヤ遺跡では近くの川や湖が、北のユカタン半島北部ではセノーテ(cenote)が担っていた水供給の役割を、ここプウク地域では、チュルトゥンが果たしていたようである(6)
 チュルトゥンの左には、Altar de los Glifos(絵文字の祭壇)とタイトルが書かれた3言語の案内板があり、マヤ文字が彫刻されている石が積まれた高さ50cmぐらいの低い壇があった。建造物としての外観はなく、四角形の辺の部分に石が積まれているだけである。チュルトゥンとこの祭壇跡とは隣接していて、チャーク神の装飾のある建物の正面にあるこのチュルトゥンは、生活用水を得るため(だけ)でなく、何らかの宗教儀式に使われた象徴的なものと説明板に記してあった。
 コズ・ポープの正面はチャーク神像(el Dios Chaac)の顔がびっしりと並べられた装飾である。1つの顔が、象のような鼻、丸い目、四角い耳、並んだ歯が見える口からなる、同じ大きさの像が数多く並んでいる。眉や頬は模様で飾られている。部品となる石を組み合わせて作ってあるようである。同じ部品を大量に作って現場で組み合わせたのだろうか。
 コズ・ポープの階段を登って左手の方に行き、宮殿の方に行く。コズ・ポープの別の壁面は網代のデザインでの装飾が施されている。上の方には、肘から先の両手を前に差し出した人物像が二つ見える。

(C) 2019 Setsuko H.


『マヤ遺跡探訪』によるとこの像が、遺跡の名「強い手を持つ領主」の人物で、今は2つしか残っていないが、もっと多くが飾られていたはずとしている。

(C) 2019 Setsuko H. (C) 2019 Setsuko H.
遺跡にいたイグアナ 石の色と同じ色で保護色になっている。雄1匹の写真と、雌と雄が並んでいる写真。


 さらに進むと途中、いくつかの石造りの建造物で何匹かのイグアナ(iguana)がジッとしているのを見た。近づくと動いて逃げて行く。背中に突起があるのが雄、突起がなく少し小ぶりのが雌とのこと。宮殿の方は、入口が9つある。両端から2つ目、3つ目は隣接している。何回か増築されたそうで、複雑な構造になっている。こちらも正面の階段前に石筒が立てられている。
 東の区域を出て、道路を横断し、西の区域に入る。道をあるいていくと、右手に木が生い茂った小高い山がある。手前に「大ピラミッド」(La Gran Pirámide)と題した3言語の説明板がある。ピラミッドは再建されていなくて、近づけない。「遺跡」とか「廃墟」の雰囲気は味わえる。
 さらに歩いていくとアーチ(Arco)が見える。一段高くなった基壇の上に、かなり高いマヤの擬似アーチの凱旋門がある。説明板によると、670年から770年に建築されたもので、ウシュマルまでいける道(sacbej)の基点である。道は石と漆喰で舗装された道で、少しの距離が再建されている(7)アーチ内の高いところに赤い染料でつけた手の跡がまだ見られるとのこと、筆者にはよく見えなかった。

(C) 2019 Setsuko H. カバーの凱旋門 前方を約20km進むとウシュマルへ行くそうである


カバー遺跡の見学の後、メリダからこちらへ来た時に近くを通り過ぎて来たサンタ・エレーナ(Santa Elena)の村へ街道からそれて入っていく。町中で車を停めると、その前の1軒の家の門のところに男性が立っていた。ガイドのN氏に案内され、そのお宅を訪問した。家は茅葺の屋根で中にハンモック(hamaca)が吊ってある。壁は塗り土である。ハンモックの使いかたを見せてくれた。その家の奥に少し小ぶりの、壁は木が組まれているだけの家があり、その中で夫人がトルティリャ(tortilla)を焼いて見せてくれた。焼きたてを少し食べさせてもらったがおいしかった。ユカタンのトルティリャは、材料のトウモロコシの種類によるものと思うが、メキシコ中央部のものより白く見える。また大きさも少し小ぶりである。八杉佳穂『マヤ興亡』1990,福武書店(pp.145-146)によると、マヤ地域からのコマル(comal トルティリャを焼くための平べったい土鍋)の出土がないことや16世紀以降の記録にトルティリャを食べたという記録がないことから、マヤ人は、メキシコ高原との接触によりトルティリャを食べるようになったとのこと。それ以前は、タマル(tamal トウモロコシ粉を練り葉で包んで蒸したもの)に調理してトウモロコシを食べていたそうである。タマルを蒸す深い壷は出土していることが根拠となっている。
 奥の庭で、男性がエネケン(henequén, サイザル麻,中米原産リュウゼツラン属の1種)の葉を削って繊維を取り出し紐(ひも)に編むところを見せてくれた。その後、ウシュマル遺跡に向かう。
 ウシュマル遺跡(Uxmal)の駐車場に着いて車を降りた後、遺跡見学の前に、遺跡の入口すぐのところにあるレストランで昼食を食べる。

(C) 2019 Setsuko H. スープの後のメインディシュ、ユカタン料理のコチニータ・ピビル(Cochinita pibil)。豚肉をachiote(ベニノキ.熱帯の木で実を染料・香辛料・清涼飲料水に用いる)の漬け汁に漬けバナナの葉で包み土の炉で焼いたもの。トルティリャで巻いておいしく食べた。
外国人観光客へのサービスということなのか、最初はパンとバターが提供されたけれど、トルティリャに代えてもらった。写真に見られるようにメキシコの他の地と同じく布で保温した状態で供された。


ウシュマル遺跡 Uxmal

CULTUR(Patronato de las Unidades de Servicios Culturales y Turísticos ユカタン州文化観光サービス協会)のパンフによるとウシュマルは“Tres veces construida”(3度建設された)として知られているとある。古い名称で語源は諸説あるようだ。「先スペイン期都市ウシュマル」(Ciudad prehispánica de Uxmal)の名でユネスコ世界遺産に登録されている(8)700年頃から1000年頃の間に建てられた建造物からなる都市で、最盛期には25000人近くの住民が居たと考えられている。建造物はマヤ人の天文学上の知識を示しているとのこと。ユネスコの説明文には、ウシュマルの他に、同じプウク地域にある、カバー(Kabah)、ラブナー(Labná)、サイール(Sayil)の遺跡が、マヤ芸術と文化の頂点を示していると説明がある。また遺跡入口の世界遺産の看板には、1996年12月の日付とともに「先スペイン期プークの都市:ウシュマル、カバー、サイールとラブナー」(Ciudades prehispánicas del Puuc: Uxmal, Kabah, Sayil y Labná)と書いてあった(9)。ウシュマルだけでなく、他の遺跡も含めて世界遺産とされているようである。それぞれかなり異なった建造物や彫刻があるようなので、ラブナーやサイールなども機会があれば見に行きたい遺跡である。

占い師のピラミッド Pirámide del Adivino

レストランから歩いて遺跡の敷地へ入っていく。しばらく歩いて最初に目の前にそびえるのが「占い師のピラミッド」である。「魔法使いのピラミッド」と和訳されることもあるが、adivinoは「予言する人(男性)」なので「占い師」のほうがより適切かと思われる。いずれにしてもスペイン人が来てからの命名なので、マヤ人達が呼んでいた名前はわからない。入口を入ってすぐ見えるのは、ピラミッドの東側で裏側のようである。階段の上の方、かなり高い1段目の基壇の上のあたりにマヤ式の三角形の天井を持つ穴が見える。調査のために開けたものか本来あった構造なのかはわかない。一番上の基壇のあたりにも4角形の窓あるいは入口が開いている。西側の正面に行くと、こちらの階段の両側にはチャーク神の像が正面から45度外の方向を向いて縦にかなりの数が並んでいる。他の多くのピラミッドような四角錐ではなく、下から2段は、底面が楕円をした円錐、楕円錐の形をしている。

(C) 2019 Setsuko H.


このピラミッド正面にも円柱形の石が建てられている。階段の上、基壇2段目に、四角い入口と周りの装飾が見える。基壇1段目、階段の両側には円柱が何本か並んでいる。

尼僧院 Cuadrángulo de las Monjas

ピラミッドの正面前に「尼僧院」と呼ばれる建造物への入口がある。中庭をはさんで四方に建物があり、いくつもの入口が中庭に向かって開いている。この建物の外観からスペイン人達に回廊のある修道院の中庭を連想させ、Cuadrángulo de las Monjas(修道女達の四角形)と名付けられたとのことである。
 建物の壁面を飾る蛇の意匠や入口などの数が、マヤ人の聖なる数13であることをガイドのN氏から説明を受けた。

大ピラミッド

球技場(Juego de Pelota)を見てから南に少し歩き大ピラミッド(Gran Pirámide)の正面階段を少し登った。底辺80m、高さ30mのピラミッドだそうである。先に見た占い師のピラミッドが高さ35mなので、それよりは低い。妻だけがさらに大ピラミッドの登れるところまで登った。階段を登っていった中間あたりに“Subir es peligroso”(登るのは危険)との表示があったとのこと。途中まで登ってからのところにあるので登るのを禁じているのではなく注意を促しているようだ。

(C) 2019 Setsuko H.


大ピラミッドの上からの景色。左遠方の小さく見える白い現代建築はホテルのよう。中央前方に尼僧院が見える。手前は総督の館の基壇が右に何段か上がっている。


(C) 2019 Setsuko H. 大ピラミッドの最上部の建造物。


(C) 2019 Setsuko H. チャーク神の彫刻部分を間近に見る


 大ピラミッドの正面階段の途中から左に行ったところで妻が降りてくるのを待ち、合流してから総督の宮殿(Palacio del Gobernador)へ行った。

総督の宮殿 Palacio del Gobernador

正面に幅の広い階段の付いたかなり高い基壇の上に、左右が長く(約100mとのこと)、雷文模様(四角形の渦巻き状の文様)や格子模様が彫られた美しい彫刻で飾られた建物がある。階段の右は内側が4段、それより外は5段の階段状の基壇が再建されている。階段の左側は、崩壊したままになっている。ガイドのN氏によると、再建前の状態を見せるためそのままにしてあるとのこと。四角い入口が11、それにマヤ・アーチの入口が2つ、計13(マヤの聖なる数の1つ)開いている。正面の中庭には傾いてはいるが石の円柱と、さらに手前には、5段の階段が四方にある四角形の基壇の上に双頭のジャガーの玉座(Trono de Jaguar bicéfalo)が設置されている。
 ウシュマルには、他にも「亀の館」(Casa de las Tortugas)、「鳩舎」(El Palomar)や「老婆のピラミッド」(Pirámide de la vieja)などがあるが今回は、筆者の足の故障もあり、多くを見て回ることはできなかった。

1972年3月のユカタン修学旅行

1971年6月から翌年3月まで交換留学生としてメキシコに滞在した際、最終月の3月に、日本人交換留学生99名は、ユカタンとオアハカの修学旅行に(確か3台の)大型バスで連れて行ってもらった。
 手元に残っていた旅程表に、マヤ遺跡としては、ユカタン州のカバー(Kabah)、ウシュマル(Uxmal)、イサマル(Izamal)、チチェン・イツァ(Chichen Itza)、キンタナ・ロー州のトゥルム(Tulum)、コバー(Cobá)、コフンリッチ(Kohunlich)、カンペチェ州のシュプイル(Xpuhil)、ベカン(Becán)、チカナ(Chicanná)、チアパス州のパレンケ(Palenque)の名前がある。ユカタン地域で8泊か9泊して見て回ったのである。
 カバーのチャーク神の彫刻、ウシュマルの「総督の館」の美しさ、チチェン・イツァの円筒形の「天文台」、紺碧のカリブ海を背景にした白い石の建物が映えるトゥルム、パレンケのいくつかの建物の中にそびえる4層の塔、それにコフンリッチの巨大な顔の彫刻など、うっすらと記憶がある。カバーの凱旋門のその時撮った写真も手元にある。お名前は忘れてしまったが、1人のマヤ専門の先生が各遺跡で説明してくれた。その中で、チチェン・イツァ(Chichén Itzá)の球技場(juego de pelota)の首をはねられる画面が描かれたレリーフ壁画の前で、日本のカミカゼも名誉のために命を捧げるのだろうと我々に確認をした後、球技で勝者が首をはねられ名誉を得るといった説明をしてくれたことを覚えている。ただ敗者が首をはねられたという説もあることを後に知った。どこの遺跡だったかは忘れたけれど遺跡敷地入口の小屋の中にいた少年たちが声門閉鎖音が多く含まれるマヤ語(の1つ)を話していたのも記憶している。遺跡敷地内には、木が生い茂る石だらけの小山があちこちにあり、再建されていない遺跡は自然の力でこのような姿になっているのだと思ったことも覚えている。これらの心に浮かぶ情景は、自分の記憶と撮ってきた白黒写真が、それにその後見た本などに載った写真とが交差しているのかも知れない。
 一度にこれだけのマヤ遺跡へ連れて行ってくれた修学旅行は、今思うと実に貴重な体験だった。


<注>
2019年2月に旅行し、見聞したことと旅行後に調べたことを書いた。
このページを書くにおいて、
ランダ「ユカタン事物記」(林屋永吉訳、増田義郎注)および増田義郎「解説」『ヌエバ・エスパニャ報告書他』(大航海時代叢書第II期13, 1982, 岩波書店)所収
Landa, Fray Diego de “Relacion de las Cosas de Yucatán” Electronic edition by Christian Prager. The page numbering, indicated by numbers put in brackets, follows the edition of the Editorial Porrua, Mexico City, 1959.(https://www.wayeb.org/download/resources/landa.pdf)
八杉佳穂『マヤ興亡』1990, 福武書店
八杉佳穂『マヤ文字を解く』1982, 中公新書
『言語学大事典』第4巻, 1992, 三省堂(「ユカテック語」)
などを参照した。

(1) https://whc.unesco.org/en/list/791
https://www.inah.gob.mx/zonas/157-zona-arqueologica-de-kabah
http://www.infomaya.jp/yucatan/kabah/
http://www.infomaya.jp/yucatan/uxmal/

(2) ユカタン半島に広く分布しているマヤ語族の1つの言語 (maya) yucateco について、Diccionario introductorio español - maya maya -español, Javier Abelardo Gómez Navarrete, Universidad de Quintana Roo, Chetumal. Quintana Roo, 2009 http://www.uqroo.mx/libros/maya/diccionario.pdf および AULEX - Diccionario Español - Maya en línea (30-XI-2011). Juan Ramón Bastarrachea Manzano, Universidad de Yucatán, http://aulex.org/ を参照した。
なお、この言語名は、スペイン語で maya あるいは (maya) yucatecoであるが、日本語表記はゆれがある。英語名Yucatecからの語形と思われる「ユカテック語」「ユカテク語」、スペイン語の語形(idioma yucateco, lengua yucateca)から「ユカテコ語」「ユカテカ語」、それに「マヤ」をつけた「ユカテ(ッ)ク・マヤ語」や「ユカタン・マヤ語」などである。ここでは、スペイン語形の形容詞形(yucateco, -ca)の元の名詞形 (Yucatán)のカタカナ表記「ユカタン語」を使うことにする。「ユカタン・マヤ語」の省略形としての「ユカタン語」と解してもらってもよい。『言語学大事典』に従い、「マヤ語族」を意味することのある 「マヤ語」のみを使用することは避ける。

(3) http://es-es.topographic-map.com/places/Yucat%C3%A1n-5677991/

(4) https://www.inah.gob.mx/zonas/157-zona-arqueologica-de-kabah による。
ユカタン語で、k'abが「手」を意味するらしいが、それ以上はわからなかった。
 スペイン人征服後、アルファベットを使ってユカタン・マヤ語でマヤ人が自分たちの伝説や神話などを書いた『チュマイェルのチラム・バラムの書』(el libro del Chilam Balam de Chumayel)に、チチェン・イツァ(Chichén Itzá)、ウシュマル(Uxmal)、カバーなどの名が言及されている。 http://web.archive.org/web/20120526131234/http://www.elperroylarana.gob.ve/phocadownload/los_rios_profundos/clasicos/chilambalamdechumayel.pdf

(5)  ユカタン語の辞書AULEX - Diccionario Español - Maya en línea)で調べて見ると、ネット上にある “estera o petate enrollado”(巻いたござ)という意味のようである。
koots': arrollar(巻く),rosca(ロール)
póop: petate(むしろ、ござ)
 ただメリダ市の観光案内所でもらったCULTUR(Patronato de las Unidades de Servicios Culturales y Turísticos ユカタン州文化観光サービス協会)の英語パンフレットには、“stone mat”(石のござ)といった異なった意味が掲載されていた。

(6) フランシスコ会の修道士として1549年25歳の時にユカタンに渡って、この地で亡くなるまで7年近くユカタン司教を務め、マヤ絵文書の焚書や伝統的信仰儀礼をやめない先住民を宗教裁判で厳罰に処したことでも有名なディエゴ・デ・ランダ(fray Diego de Landa 1524-1579)が、スペイン滞在中の1566年ごろに書いたとされる『ユカタン事物記』(Relación de las cosas de Yucatán)には、人間の生命にとって最も必要なものの1つとしての水についての記述部分で、ユカタン地方でのセノーテについて詳しく書いている。その中に山地での雨水利用についても記載している:「山地方面のインディオたちは、井戸が非常に深かったから、[自分の家のために]岩にくぼみを作り、雨水を溜めてこれを使用していた。というのは雨期には雨がよく降ったが時には雷鳴を伴ってはげしい雨となったからである」(和訳44章 p.457.[ ]内は筆者の補い) “Los indios de hacia la sierra, por tener los pozos muy hondos, suelen en tiempo de las aguas hacer para sus casas concavidades en la peña y allí recoger agua de la llovediza: porque en su tiempo llueven grandes y muy recios aguaceros y algunas veces con muchos truenos y relámpagos” (https://www.wayeb.org/版 p.103)
 この記述から、16世紀の一般の先住民も、プウク地域では、宗教センターとしての都市にあるチュルトゥンと同じように、雨水を溜めて使っていたと考えられる。

(7) マヤの道は、サクベ(sak: blanco 白 + beh; camino 道)と呼ばれ、ランダ「ユカタン事物記」にもイサマル(Izamal)とティホ(今のメリダ T-ho)の間に「非常に立派な道路[街道]のあった跡が今も残っている」(42章 p.431) “hay señales de hoy en día de haber habido una hermosa calzada de los unos a otros”(p.94)と書かれている。

(8) https://whc.unesco.org/en/list/791

(9) 別の2015年3月30日と日付のある看板には、Ciudad Precolombina de Uxmal(先コロンブス期の都市ウシュマル)のタイトルで、1954年ユネスコ・ハーグ協定(Convención de La Haya, 1954)により、武装紛争時に保護されるべき文化財として登録されたことが記載されていた。



※写真はいずれも2019年2月メキシコにて撮影 [©️2019 Setsuko H.]
2019/3/6 - 2021/7/29.

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