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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

メキシコ(3)
     サン・ミゲル・デ・アジェンデ&王の道 編

堀田英夫

2016年3月の旅では、オアハカの見学を終えてからメキシコ市へ国内線で飛び、メキシコ市で一泊した。翌朝から車で、サン・ミゲル・デ・アジェンデ(San Miguel de Allende)、ドローレス・イダルゴ(Dolores Hidalgo)、ケレタロ(Querétaro)などを訪れた。宿泊は、グアナファト(Guanajuato)のホテルに2泊した。訪れたこれらの町々は、植民地時代の美しい建物が多くあり、風光明媚で、観光客にとって魅力ある所であると同時に、メキシコ独立の揺籃地(cuna de la Independencia)として、メキシコの歴史の1ページを知ることができる場所でもある。グアナファトは、同じく夫婦で、2009年1月に7泊し、町中と近郊を歩き回った。その時、ドローレス、アトトニルコ(Atotonilco)、サン・ミゲルを1日で見て回る「独立の道ツアー」(Ruta de Independencia)にも参加している。

メキシコ市のホテルを朝8時に迎えに来た車で出発、2時間ほど走った後、高速道路のサービス・エリアで休憩を取った。フードコートやカフェ、お土産やおもちゃ、食べ物の売店があるかなり大きな規模のサービス・エリアである。多くの種類のチーズとソーセージを売っている店もあった。雰囲気がどこか日本と違うけれども、清潔感や売っているものの種類の豊富さは、遜色ない。ただトイレは有料(1人4ペソ)だった。入口に扉があり、料金を入れて中に入る仕組になっている。
 途中、高速道路上で少し渋滞があったものの、12時15分頃にサン・ミゲルの町を見下ろす展望台(mirador)に到着した。

サン・ミゲル・デ・アジェンデ(San Miguel de Allende

 展望台の回りの整備された花壇には赤い花が咲いていて、サボテンもある。下の方に見渡せる町の中には、多くの建物の屋根の上に突き出ているかのように、サン・ミゲルのシンボル的な教区教会(Parroquia de San Miguel Arcángel)(1)のピンク色した石の尖塔が見える。

(C) 2016 Setsuko H. 展望台からの眺め。教区教会の尖塔が見える。


 町に入って、まずサン・フェリーペ・ネリ教会(Templo del Oratorio San Felipe Neri)(2)を訪れた。ピンクの石造りで、赤茶色で塗られた部分もあり、これと同じ色で外の前庭の庭園の垣根も塗られている。町中の家もこの赤茶色とオレンジ色で塗られた家が多く、ほぼ統一された色調と感じる。この色と木々の緑、それに空の青色が対照的である。
 次に、歩いて近くのサン・フランシスコ教会(Templo de San Francisco. 旧サン・アントニオ修道院. ex-Convento de San Antonio)を見学した。床に青い模様のあるきれいなタイルが敷き詰められた教会と、付属の修道院では、柱廊が囲み緑の樹木のある中庭を見た。どちらもそれほど大きくはないが美しい。
 その後、Pueblo Viejo(古い村)という名のレストランでお昼を食べた。植民地時代のお屋敷という雰囲気の建物で、太い石の柱、その上に浅いアーチ形に石の梁がある。中庭に昔風の道具類も飾ってあった。メイン料理は、妻が大きなタコの足の炭火焼(Pulpo a las Brasas)で筆者は海老のタコス(Tacos Rosarito)を選び、大変おいしかった。昔は冷凍運搬ができなかったのだろうと思うが、留学時代の印象で、メキシコの内陸部で海産物はあまり食べないと思っていた。今は時代が変わった。トルティーリャ(tortilla)も昔はトウモロコシ製ばかりだったが、今は小麦で作ったものが幅を利かせている。これではクレープと同じでメキシコらしさが薄まっている。

 昼食後、サン・ミゲルの町のシンボルである教区教会(Parroquia)を見学した。柵で囲まれた敷地内に入り仰ぎ見ると、ピンクの石造りの塔が中央にそびえ、その周りに一段と低く塔が何本も見える。町のどこからでもこの塔が見えるということが理解できる。窓が4層になっていて3階に見える窓が鐘楼のようである。教会内部は、ピンクあるいは茶色の石柱の間は白壁である。キリスト像や聖母子像などたくさんの聖像や絵画の他、メキシコの教会の定番のグアダルーペの聖母像もあった。この教会の前が中央広場(Plaza Central)あるいは中央公園(Parque Central)になっていて、手入れされた緑の木々が立っている。

(C) 2016 Setsuko H. サン・ミゲル・デ・アジェンデの教区教会


(C) 2016 Setsuko H. 教会の前の公園。帽子を売る人がいる。


文化センター(Centro Cultural Ignacio Ramírez El Nigromante)に入った。女子修道院だったこの建物は、噴水と緑の木々がある綺麗な中庭を回廊が2階建てで囲っている。1938年から美術学校として使われ、1962年から現在の文化センターとなっ(3)。この美術学校が、現在もアジェンデ学校(Instituto Allende)という名前で芸術とスペイン語の教育を行い、サン・ミゲル・アジェンデが芸術と文化の町という名声を国内外に博している。
 現在文化センターとなっている建物が美術学校だった時、1948年から49年にかけてダビッド・アルファロ・シケイロス(David Alfaro Siqueiros. 1896-1974)がここで壁画を教授した。シケイロスは、オロスコ(José Clemente Orozco. 1883-1949)、リベラ(Diego Rivera. 1886-1957)と共に、メキシコ革命(1911-17)の意義を民衆に知らせるべく壁画を描くという「メキシコ壁画運動」の中心的な人物であ(4)。シケイロスが描いた『イグナシオ・アジェンデ最高司令長官の生涯と業績』(Vida y Obra del Generalísimo Don Ignacio de Allende)というタイトルの壁画がここにある。壁画を教えていた時の実習として描いたもののようである。未完とのことで、広い部屋の天井と壁に描かれていて、シケイロスの作品らしい迫力はあるにしても抽象的過ぎるように思われる。

アジェンデの家博物館(Museo Casa de Allende)も訪れた。この町の出身で、独立のための蜂起において中心的な役割を果たした軍人イグナシオ・アジェンデ(Ignacio Allende. 1779-1811)が住んだ屋敷である。2階建ての石造りの家で、応接間、寝室、台所など、当時の雰囲気を再現してある。
 サン・ミゲル・デ・アジェンデの町は、16世紀に建設されサン・ミゲル・エル・グランデ(San Miguel el Grande)という名であった。イグナシオ・アジェンデを讃えて、1826年にアジェンデを加えて現在の名になった。ユネスコ世界遺産の登録名 “Villa Protectora de San Miguel el Grande y Santuario de Jesús Nazareno de Atotonilco” も昔の町の名となっている。ユネスコのサイト日本語版には、登録名として「サン・ミゲルの要塞都市とヘスス・デ・ナサレノ・デ・アトトニルコの聖地」とある。スペイン語名と比べると、まず2つの「デ」のうち「ヘスス」の後の「デ」が登録名のスペイン語・英語名にはない。また「要塞都市」は、しっくりこない。スペイン語のVilla Protectora、英語のProtective townをこのように和訳したと考えられるが、この町に「要塞」や「城壁」はない。あるいは残っていないはずである。北方にあるサカテカス(Zacatecas)の町と副王の宮廷のあるメキシコ市を結び、銀や水銀などを運ぶ王の道(Camino Real)を守るために整備されたとのことなので、「守護する町」、あるいは、せいぜい「防御する町」とでも訳したらどうだろうか。この王の道も「内陸の王の道」(Camino Real de Tierra Adentro)として世界遺産に登録されてい(5)。ユネスコのサイトにある地図を見るとサン・ミゲル・デ・アジェンデの町の中も通っている。

内陸の王の道 Camino Real de Tierra Adentro

メキシコ市から北へアメリカ合衆国テキサス・ニューメキシコまで伸びていた王の道(厳密には「副王の道」かもしれない)は、16世紀から19世紀まで使われた道で、「銀の道」とも呼ばれていた。この道沿いのサカテカス(Zacatecas)、 グアナファト(Guanajuato)、サン・ルイス・ポトシ(San Luis Potosí)の鉱山から採掘される銀を南へ運び、精錬用の水銀を北へ運ぶための道であった。鉱山のためだけでなく、社会、文化、宗教の結びつきのために利用されたことを評価されて世界遺産に登録された。かつての2,600kmのうち、1,400kmの道筋にある既に登録されている5箇所を含みさらに橋や建物、町、教会などの55箇所が登録されたとのことである。
 サン・ミゲル・デ・アジェンデを訪れた翌日、ドローレス・イダルゴ(Dolores Hidalgo)を訪問した後で、王の道の残っているところまで、車で連れて行ってもらった。ガイドの喜代田さんが前日までにいろいろ問い合わせて場所を探しておいてくれたのである。1時間ほど田舎と言えるような道を走り、小さな寒村のようなところを通って車を降りた。少し歩いて大きめの小石を土で固めて舗装してある道にたどり着いた。向こうの方から続いている小石による舗装は、途中から崩れている。道脇に道標であるかのような比較的新しい白く塗った小さな岩がある。後の遠くの方に湖が見え、そちらには王の道としての橋があるとのことである。

(C) 2016 Setsuko H. 前方が南で、メキシコ市方面と思われる。写真手前は舗装が崩れている。


(C) 2016 Setsuko H. 北の方に湖が見える。



<注>
2016年3月に旅行し、見聞したことと旅行前後に調べたことを書いた。

(1) 「(ラ・)パロキア教会」と、スペイン語(parroquia 教区(教会), 教区の信者)をカタカナにした名で言及している日本のガイドブックなどもある。人名Miguel(ミゲル)は、英語だとMichael(マイケル)、カトリックの大天使(Arcángel)なら日本でミカエルと言っているので、訳せば、「大天使聖ミカエル教区教会」となる。

(2) この教会も「聖フィリッポ・ネリ祈祷所教会」とでも訳せるだろうか。人名Felipe(フェリーペ)は、イタリア語だとFilippo(フィリッポ)となる。フィリッポ・ネリ(Filippo Neri. 1515-1595)は、イタリア人のカトリック司祭で、オラトリオ会(Congregatio Oratorii)の創設者。1622年に列聖。『ブリタニカ国際大百科事典小項目電子辞書版(2013)、「ネリ」「オラトリオ会」の項

(3) 正式名は、「イグナシオ・ラミレス・黒魔術師・文化センター」(Centro Cultural Ignacio Ramírez El Nigromante)である。イグナシオ・ラミレス・黒魔術師(Ignacio Ramírez El Nigromante.1818-1879)はサン・ミゲル出身の文筆家・弁護士・政治家。「黒魔術師」(El Nigromante)とは、新聞記事を書いていた時のペンネームである。参考:
http://www.bicentenario.gob.mx/reforma/index.php?option=com_content&view=article&id=74

(4) 『メキシコ・ルネッサンス展-オロスコ、リベラ、シケイロス-』名古屋市美術館(1989)
加藤薫『メキシコ壁画運動ーリベラ、オロスコ、シケイロス』平凡社(1988) p.190.
『ラテン・アメリカを知る事典』平凡社(1987)「オロスコ」「シケイロス」「リベラ」の項目
https://sanmigueldeallendemex.wordpress.com/2013/08/05/san-miguel-de-allende/ などを参照した。

(5) この世界遺産サイトにある登録名の日本語訳は「ティエラアデントロの王の道」とある。説明に「カミーノ・レアル・デ・ティエラアデントロは『大地にある王の道』という意味」ともある。カミーノ・レアル部分を「王の道」と訳すならティエラアデントロも「内陸の」とでも訳すべきと思う。英語の登録名がスペイン語のまま、“Camino Real de Tierra Adentro”としていることに倣ったのだと思われる。固有名詞をどこまで訳すべきかは難しい。


※写真はいずれも2016年3月メキシコにて撮影 [©️2016 Setsuko H.]
2017/10/08 - 2019/2/23.

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