2014年3月にメキシコ市(Ciudad de México)とカンクン(Cancún)の旅行に行った。成田からの直行便でメキシコ市の空港に着き、市内のホテルにチェックイン後、メキシコ市歴史地区(El Centro Histórico de la ciudad de México)を妻と二人で歩いて見学した。
ホテルから出て、アラメダ公園(Alameda Central)のベニート・フアレス大統領半円形モニュメント(Hemiciclo a Benito Juárez)などを見て、フアレス通り(Avenida Juárez)を東の方へ、歩いて行く。左側のアラメダ公園が終わると、左に堂々とした芸術院宮殿(Palacio de Bellas Artes)が見える。
芸術院宮殿:オペラハウス(歌劇場)と美術館。リベラなどの壁画もある。内部も太い大理石の柱などで堂々たる造り。
大きな通りを横切りさらに同じ方向へ進むと、そこから道は、歩行者専用になっている。通りの名前もフランシスコ・マデーロ通り(Francisco Madero)になる。すぐ右にはラテン・アメリカ・タワー(Mirador Torre Latino)の入り口がある。外壁に張られた青い模様のあるタイル(azulejo)が美しいタイルの家(Casa de los Azulejos)の前を通り、さらに歩く。道路では観光客など多くの人が行き来していた。大都会のメキシコ市は、治安の面で不安があって、ひと時、避けてきたのたが、これらの通りは、警官の姿もちらほら見られ、まったく不安を感じることなく歩くことができた。やがて中央広場・ソカロ(Zócalo)に出た。
メキシコ市の中央広場、ソカロ
ソカロは、いつ見てもその広さに感嘆する。大都会のど真ん中にある文字どおりの広場である。大きさは、東西240m×南北195mとのことで、長方形をしているはずだが、地上からは広すぎて正方形のようにしか見えない。周囲の建物の広場側に車が走る道路がある。石畳の広場の中央には、これまた巨大なメキシコ国旗が掲げられている。アルマス広場(Plaza de Armas 武器/軍隊の広場)、マヨール広場(Plaza Mayor 大広場)などの名前を経て、現在の正式名称は、憲法広場(Plaza de la Constitución)だそうだが、誰もがソカロという。憲法広場という名前は、メキシコがヌエバ・エスパーニャ(Nueva España 新スペイン)と呼ばれた副王領時代の1813年に、スペイン最初の憲法、カディス憲法(1812年公布)への忠誠がこの広場で誓われたからとのことである。ソカロというのは、メキシコ大統領を何度が務めたサンタ・アナ(Antonio López de Santa Anna 1795–1876)が、1843年にメキシコの独立を記念する記念碑をこの広場の真ん中に建てるよう命じ、記念の柱を立てるための台座(zócalo)が作られた。だが、柱は立てられることなく月日が経ち、いつのまにかソカロ(台座)が広場の名前となったという。そしてメキシコの他のいくつかの町でも、中央広場のことをソカロというようになったのである(2)。
ソカロを北東に抜け、テンプロ・マヨール(Templo Mayor 大神殿)遺跡の見学に行った。テンプロ・マヨールは、スペイン人たちが来る前に先住民たちが宗教儀式をしていた大神殿である。
アステカ帝国の首都テノチティトラン(Tenochtitlan)は、湖の中にある島だった。そびえたつピラミッドなどの建物をスペイン人たちが破壊し、湖を埋め立てて建設したのが現在のメキシコ市である。テノチティトランにあった大神殿も破壊し埋められていたので、長い間その正確な位置が忘れられていた。
1978年、電力会社の工事でソカロ近くが掘られていた際、彫刻のある大きな丸い石盤が発見された。調査の結果、アステカ神話に出てくる月(あるいは闇)の女神コヨルシャウキ(Coyolxauhqui)の像であることがわかった。頭が切られ、胴体と四肢はばらばらの裸の女性が浮き彫りにされている。この像は、コヨルシャウキが、コアテペック(Coatepec ナワトル語:蛇+山)の山頂で弟の神ウイツィロポチトリに首を切られ、山頂から転げ落ちる際に四肢がばらばらになった様を表している。
コヨルシャウキの母である大地の女神コアトリクエ(Coatlicue, diosa de la tierra)がコアテペックの山で掃き掃除をしていた時、空から落ちてきた羽毛の玉を懐に入れたことで妊娠した。このことを知ったコヨルシャウキは、兄弟たちの星の神々(南方の400人)と図って、コアトリクエを亡き者にしようとした。そうこうしているうちに、武装したウイツィロポチトリ(Huitzilopochtli 戦いの神)が生まれ、コヨルシャウキらを打ち負かしたのである。
コヨルシャウキの石盤があったのは、大神殿上の南側ウイツィロポチトリの神殿から西側正面階段を降りた麓である。この神殿で行われる人身御供の儀式は、神殿の頂上から落とされた生贄の身体をコヨルシャウキの円盤の上で受けることで、頂上にいる勝利者ウイツィロポチトリと、麓にばらばらにされた身体が横たわる敗者コヨルシャウキという神話を象徴的に再演したと解釈されている(3)。
コヨルシャウキの石盤が発見されたことをきっかけに大神殿の発掘調査が行われ、多くの遺物も発見された。発掘された所が、テンプロ・マヨール遺跡(Zona Arqueológica Templo Mayor)として公開されている。掘り出された遺物は、付属の博物館(Museo de Sitio del Templo Mayor)で展示されている。
入場料を払って遺跡の敷地入り口を入ると、木道の上を歩いて見学するようになっている。大きな蛇の頭の彫刻がある。一部には金属製の骨組みで屋根が設けられていて、日光や雨から遺跡が劣化するのを守っているようである。テオティワカンやマヤのいくつかの遺跡のように、建造物が頂上まできれいに再建されているのではなく、上部が壊れた状態のままなので、あたかも発掘現場を見学しているように思う。木道は、入り口の地上よりは下がった位置ではあるが、元々の地上よりかなり高い位置を歩くことになる。
大神殿は、ロシアのマトリョーシカ人形のように、前の時代のピラミッド全体を覆う形で、その時々の支配者により新しい時代のより大きいピラミッドが作られていて、7層になっているとのこと。一番新しい最も外側のピラミッドは、スペイン人達に破壊されているものの、その中に、以前の時代のピラミッドがあり、それらは保存状態が良いそうである。発掘された内側のピラミッドの階段や壁も部分的に見学できるようになっている。大神殿の上には、南側に戦いの神ウイツィロポチトリの礼拝所、北側に雨の神トラロック(Tláloc)の礼拝所がある。生贄にする犠牲者を仰向けに寝かせ胸を開くための四角い石と、仰向けに寝て上半身を起こし顔をこちらに向けているチャクモール(Chac mool)の人物像がそれぞれの前に置かれている。
遺跡の中の木道の上をさらに歩いて行くと、いくつかの建造物が見られ、石の彫刻で作られた多くの頭蓋骨が壁面に並ぶツオンパントリ(Tzompantli)の基壇もある。
見学には手すりのある木道を行く
町中にある遺跡である。写真中央に蛇の頭の彫刻が見える。
屋外の遺跡見学の後、付属の博物館に入った。博物館の中には、神を表したと思われる多くの像や装飾品、土器が展示してあった。我々の美意識からすると奇怪なものやグロテスクと感じられる像も多くある。頭と四肢が胴体と切り離された裸の女神コヨルシャウキの浮き彫りも残酷である。しかしアステカ人達にとっては、神聖な存在だったのであろう。
女神コヨルシャウキの石盤。直径3m4cm~3m25cm、厚さ30cm。上の階からガラス越しの写真
大地の女神トラルテクトリ像石碑。 3.57m×4m、厚さ最大で38cm、今まで発見されたアステカ石碑の中で最大。 2006年10月に大神殿の前面(西方)で発見された(4)
テンプロ・マヨール遺跡と付属博物館の見学の後、ソカロへ戻り、来た道を歩いてホテルまで帰った。
メキシコ市滞在2日目に、前日と同じ道を歩いてソカロまで行き、ソカロの北側にある大聖堂、すなわちメキシコ首都大司教座大聖堂(Catedral Metropolitana de México, Arquidiócesis Primada de México)の中を見学した。
ラテンアメリカで最大を誇る大聖堂で、副王時代のメキシコの歴史300年におけるルネッサンス、バロック、新古典主義の様々な要素が調和を持って絡み合った建築となっているとのこと。アステカ王国征服直後の1524年に、アステカの精神的中心である、四方から首都へ通る街道の交差点に、エルナン・コルテス(Hernán Cortes)によって、最初の石が置かれた時が、この大聖堂の建設の開始である。テノチティトランの大神殿の石材が建設に使われた。法王庁によって1547年に大聖堂として認められ、何年も建築が続けられ、1667年に内部が、1813年に外部がようやく完成したとのことである。
この大聖堂の地下には歴代の大司教の納骨堂があるが、さらにその地下には、風の神・ケツアルコアトルの神殿・ピラミッドなどの遺跡がある。現在のメキシコ市は、テノチティトランを埋めて築かれた都市であるため、何かの工事で地面を掘ると、アステカ人の石像やピラミッドなど多くが発見されている(4)。
メキシコ首都大司教座大聖堂東側の礼拝堂(El Sagrario Metropolitano)
町中や公園のあちこちにジャカランダ(jacarandá)の花が咲いていた。