メキシコと言うと、テオティワカン、アステカ、マヤの遺跡が有名である。だがこれらとは別の文化・文明、あるいは別の民族による遺跡もいくつかある。オアハカ州にあるモンテ・アルバン(Monte Albán)とミトラ(Mitla)の遺跡も、サポテコ(zapoteco)(1)やミシュテコ(mixteco)といった民族が築いた大規模な建造物で、墳墓から複雑な装飾を施した土器や宝石などの副葬品も発見されていて、非常に重要な遺跡として数えられている。オアハカ市到着の翌日、モンテ・アルバンとミトラの遺跡を見学した(2)。
オアハカ市の歴史地区から車で30分ほど走ってモンテ・アルバンの遺跡に到着する。車を降りて、坂道を登って行くと、右手に博物館がある。そこは後で見学することにして、道に沿って左の方にさらにしばらく登って行く。遺跡は、周りの平地から約500mの高さの丘の頂上にある。いくつかの石積みを見ながらさらに進む。途中、ガイドの佐藤さんから、白い花が咲くという casahuate(あるいは cazahuate)という木があるのを示してもらい、この丘にこの木がたくさんあったから、モンテ・アルバンという名前となったという説を聞いた。花は、晩秋から冬に咲くとのことで、我々が訪れた3月には咲いていなかった。昔、ユカタン半島のどこかで、樹木で覆われ、木の根元には岩石がごろごろしているような小山が、再建されていないマヤのピラミッドだと、教えてもらったことがあったので、この遺跡もそうなっていた時期があったと想像した。しかし、もしモンテ・アルボ(monte 山, albo 白き)ならスペイン語で「白き山」なのでこの説が正しいのだが、アルバンという語形なので「白」との関係はわからない。
ガイドの佐藤さんは、仕事でなくてもこの遺跡を何度か訪れているとのことで、丁寧に説明をしてくれて、また我々夫婦のゆっくりとした見学にもいやな顔することなく、つきあってくれた。
モンテ・アルバンは、紀元前500年頃から紀元後800年頃まで、サポテコ人の首都および宗教センターとして機能していた地である。中国史だと春秋時代の中ごろから、秦の統一や漢、隋を経て、唐の時代の末期までの時代である。テオティワカンやマヤとは時代が重なり交流があった。アステカ王国(1345年建国)が現れるよりはずっと昔のことである。遺跡群は、広大な地域の中のいくつかの丘の上にあり、最盛期には3万5千人程が周辺に住んでいたとのことである。紀元後10世紀の半ば頃には新たに大きな建造物は建てられなくなり、首都としては放棄されたと解釈されている。その後ミシュテコ人がここに現われる。
最初に球技場(Juego de pelota)を見た。メキシコ国立人類学歴史学研究所(Instituto Nacional de Antropología e Historia)のロゴ INAH が付いた説明板がある。3言語によるもので、スペイン語と英語が左右にあり、真ん中の言語は、サポテコ諸語の一「方言」である。サポテコ諸語は、現代メキシコで話者数の多さで、ナワトル語、マヤ諸語に次いで3位である。オアハカ州の中央部から南東部で話されている。「諸語」としたのは、「言語」と呼んでもいいくらいの、相互に理解できないほど異なった「方言」が含まれているからである(3)。
説明板のサポテコ語は、テワンテペック地峡のサポテコ語(zapoteco del Istmo)のようである。他に、「植物相」(Flora)、「踊り手の建物」(Edificio de los Danzantes)、「松の宮殿」(El Palacio del Ocote)」「宝飾基壇」(Plataforma Enjoyada)の説明板も同じ方言のようである(4)。
球技場は、北はメキシコ中部から南はコスタリカ西部までの地域、すなわちメソアメリカ(Mesoamérica)における様々な文明による遺跡に多く見られる建造物である。アルファベットの大文字 I の形で平面コートを残して建物が囲む形は、他の地域や時代のものと共通である。サポテカの球技場では、まだゴールとなる石の輪が使われてなかったとのことである。ゴム製の玉を腰や肘などで打ち合って、勝敗が決まるのであるが、それによって人身御供になる犠牲者を決めるといった宗教的意味があったとされている(5)。
続いて大きな長方形の広場に出た。「広い!」という感想である。大広場(Gran Plaza)あるいは中央広場(Plaza Central)と呼ばれているところで、遺跡の中心である。東西約200m、南北約300mの広さがあり、周りにいくつかの建造物がある。中央にもいくつか建物がある。東側に並んでいる建物は、一つ一つが、幅の広い階段が広場に面して降りてきていて、階段両側に階段より高く、幅の広い手すりのように階段と同じくらいの傾斜でくだり、途中で垂直になる壁がある。テオティワカンやマヤのピラミッドの多くは、これと異なり、中央の階段が左右の壁より高い。東側の建物と広場中央の建物とを繋ぐ地下道があったとのことである。神官が、観衆の見えないところで行き来することで神秘性を演出していたらしい。十数個の建物は、東西南北を基軸に立っているけれど、広場中央に南北に並ぶ内の一番南にある一つだけ、基軸から45度ほど回転して立てられている。これは天体観測のために基軸が違っているとのことである。
筆者の学生時代、1972年3月に留学締めくくりのプログラムとしての修学旅行の一貫としてモンテ・アルバンなどを見学しているので、2度目の訪問である。しかし記憶はかなり薄れている。当時の写真の遺跡の建物や周囲と比べると、現在のものはかなり整備されているように見える。
モンテ・アルバンで有名なのは、石版に刻まれた「踊り手」(los Danzantes)と呼ばれる人物像である。石版は、大広場の西側に並ぶ建物の一つで、最も初期の時代の斜めの壁と床を飾っていた。多くが後の時代の建築で覆われたり、別の建物の建材として再利用されたりした。今は、別の所にあったものが立てて並べてある。人物像は男性で、厚い唇と低い鼻の特徴が、メキシコ湾岸におけるオルメカ文化で描かれた人物像と共通性がある。「踊り手」という名称にも関わらず、裸で、目をつぶり、苦しそうな表情をしている。手首が折られたような、不自然な姿勢をしているのもある。股間に雲のような模様が描かれているのは去勢され出血しているのを描いているらしい。打ち負かし、殺害した部族の大将か首長を表していると解釈されている。数字と象形文字が書き添えられていて、打ち負かした日付なり相手の名前なりを表しているのかもしれない。数字は、1を表す丸と5を表す棒を組み合わせるものでマヤ文字と共通している。また暦は、数え方がアステカやマヤなどメソアメリカの文明で共通で、20日と13の数を組み合わせた1年が260日の宗教暦と、20日からなる月が18カ月と5日の閏日で1年が365日の太陽暦を使っていたとのことである。
「踊り手」に描かれた人物は、捕虜ではなく、王に使えた戦士たちであったという最近の説がある(5.5)。石板が据えられていたのが元々遺跡の中心に位置した初期の建物で、股間の出血は去勢ではなく自ら性器を傷つけ出血させる放血儀礼を表しているとし、その痛みや意識朦朧としていることを苦しそうな表情で表しているとする。裸なのは実際の姿を写実的に描いているのではない。体の一部の切断を表現する場合には切り取られた部分も表現することが普通であるのにそれが無い。それに、捕虜を去勢したというような証拠が先住民やスペイン人征服者の記録にも無いことなどを根拠としている。
「踊り手」に描かれた人物についての考察は、モンテ・アルバンの王がどのように権力を維持していたのか、周辺地域を武力征服していたのかどうかといったことに関わってくる。今後の研究成果を期待したい。
モンテ・アルバン遺跡の「大広場」南基壇(Plataforma Sur)から北の方を見る。中央に見える建物は天体観測所。
大広場西側の建物の一つ。「踊り手」の石版が掲げてある壁。
大広場の北西に18という番号が付けられた石柱(Estela 18)が立てられている。紀元前100年ごろから紀元後300年ごろの第II期のもので、5.8mの高さがあり、モンテ・アルバンで最も高く、最も古いものとされている。石柱の影の方向で、正午の時を知り、影の長さで季節を確認したと説明文にある。この18番石柱の説明板のサポテコ語は、他の説明板と異なっていて、北部サポテコ語(zapoteco septentional)のようである(6)。なぜこの説明板だけ別の「方言」が選ばれているのかは不明である。作成・設置の時期が異なるのではないかと推測される。
他には、「松の宮殿」(El Palacio del Ocote)、「宝飾基壇」(Plataforma Enjoyada)など、そして遺跡入り口近くで人類学者アルフォンソ・カソ(Alfonso Caso. 1896-1970)のプレートを見て、博物館を見学した。アルフォンソ・カソは、モンテ・アルバンの発掘・研究で著名で、国立人類学歴史学研究所の初代所長なども務めた人物である(7)。博物館には、遺跡にあった石碑や発掘された墓の埋葬品などが多数展示してある。
モンテ・アルバンの見学を終えてから、ミトラへ向かう途中の道で、ヤグル(Yagul)の遺跡入り口の看板を見た。石組みの上に YAGUL PATRIMONIO MUNDIAL(ヤグル 世界遺産)という文字が飾ってある。残念ながら遺跡へ行く時間はとれなかった。街道から北へ1kmぐらい行ったところにあるようである。「オアハカ中央盆地にあるヤグルとミトラの先史時代の洞窟群」(Cuevas prehistóricas de Yagul y Mitla en los Valles Centrales de Oaxaca)という名で、ユネスコの世界遺産に登録されている。ユネスコのサイトによると、いくつかの先史時代の洞窟・岩屋からなる遺跡で、洞窟のいくつかからは、約1万年前の最古期の定住農民が生活した証拠であるウリ科植物の種やトウモロコシの穂軸などが発見されている。この地における人間と自然の繋がりが、北アメリカにおける植物栽培の動機となり、メソアメリカ文明の発展に道を開いたとある。
その後、街道沿いにあるビュッフェ形式のレストラン「ラ・チョサ」(La Choza. 小屋)に寄って昼食をとった。
遺跡の上に建てられている教会の横の道を歩いて進む。教会の上と下とで石組みが異なり、下の段の上方の壁にはミトラ遺跡の特徴の雷文が見える。いかにもメキシコらしいいくつかの種類のサボテンがところどころ生えている。ミトラの遺跡は、西暦200年頃から1521年まで、すなわちスペイン人達が来た時まで、使われていたところである。ここの建物のことを書いた最も古い記録は、スペイン人によるもので、1580年の記述とのことである。ほぼ正方形の中庭の4面に建物が立ち、建物の壁が幾何学的な文様の雷文で修飾されているという点が特徴である。文様は、彫った石を組み合わせて繰り返しのパターンを連続させて作ったもので、いくつかの種類があり、かなりの面積を占めている。匠と言えるような職人の技のような美しさである。建物の中に、一本石で作られた石柱が何本か並んでいる部屋もある。石柱の上には木製の屋根があったとのこと。一部の部屋にはそれが再建されてもいる。ミシュテコによるものと言われているのに反し、サポテコの伝統による建築とのことである。ここの説明板も3言語で表記されている。しかし中央の言語が何語かが筆者には確認できなかった(8)。
ミトラ遺跡の上に建てられたカトリック教会
ミトラ遺跡の「宮殿」の説明板
オアハカ市への帰路の途中、ミトラの遺跡から1時間弱で、サンタ・マリア・デル・トゥーレ(Santa María del Tule)の町に到着した。ここにはトゥーレの木(Árbol del Tule)と呼ばれる、樹齢2000年以上のヒノキ科の巨大な木(ahuehuete)があることで有名である。車を降りて、綺麗に整備された公園を歩いて行くと、向こうに市庁舎が見え、その右に大きな木が見えた。45年前訪れた時と同じ木が立っているのではあるが、昔はあたりに何もなかったという記憶なのに、今は木も柵で囲まれ、外灯や庭園が整備されている。近くの教会も市庁舎と同じく白地に、教会は赤と青、市庁舎は緑と茶色の線が引かれていて、綺麗に塗装されている。
途中にところどころに立っている道路標識は、大きな文字でサポテコ語(の一方言)により表記されていて、小さな文字でスペイン語と英語で表記されている。さらにQRコード(código QR)も表されている。sucedioenoaxaca.comのサイト掲載の「トゥーレの『言語景観』を見に来て」(Ven a conocer el “Paisaje Lingüístico” en El Tule. 2016年1月28日)という記事によると、2016年1月26日にお披露目されたこの標識は、いくつかの公的組織の支援によりオアハカ先住民言語研究・開発センター(Centro de Estudios y Desarrollo de las Lenguas Indígenas de Oaxaca. CEDELIO)によって行われたプロジェクトによるものである。サポテコ語トゥーレ方言の維持・発展を目的としている。表記法の開発と表記する語を決め、録音するため、この地の成人母語話者35人を対象に8カ月以上かけて研究したとある。研究と同時に子供たちに母語による識字教育も行われた。QRコードをスマホで写しインターネットにつなぐと標識のサポテコ語の発音が聞けるとのことである。
モンテ・アルバン遺跡やミトラ遺跡の説明板の先住民言語による表記、それにサンタ・マリア・デル・トゥーレの標識表記が、サポテコ諸語(とミシュテコ諸語)の維持や文化的発展にどの程度貢献するかはわからない。スペイン語や英語と並んで表記されることで、先住民言語も、国際的な大言語と同様な、言語としての価値を持っていることを人々に知らせる意義はある。生活の場にある標識ならば日常的に目にすることで、少なくともそこに書かれた語句は、読み方を知った者の記憶に留められることであろう。ただ、ある言語が次世代にも引き継がれるためには、社会的、経済的、文化的な動機が必要なので、小さなコミュニティーの一つの言語形態が維持発展されるのは、かなり困難だろうと予測される。オアハカ州におけるこれらの先住民言語による表記は、先住民文化の復権に向けて、困難に立ち向かう努力として評価したい(9)。
QRコードと3言語(大きい文字がサポテコ語、小さな文字はスペイン語と英語)の書かれた標識。左端に市庁舎がちらりと見え、中央向こうの方に白い門と低い壁で囲まれた「トゥーレの木」が見える