成田からの直行便で「メキシコ市ベニート・フアレス国際空港」(Aeropuerto Internacional Benito Juárez de la Ciudad de México)に到着し、筆者8回目のメキシコ入国を果たした。2016年3月のことである。この空港の公式名称は、先住民で初のメキシコ大統領ベニート・フアレス(1806-1872)を讃えたものである。オアハカ州(Estado de Oaxaca)の先住民サポテコ(zapoteco)出身で、メキシコという国を近代化するために保守派と改革派が闘争していたレフォルマ(Reforma「改革」1854-1867)という時代における改革派のリーダーとして、宗教と国家の分離、先住民社会の保護、教育の促進などを実行し、保守派との内乱やイギリス、フランス、スペインの占領軍との戦いも指揮した人物である(1)。
オアハカ州(ピンクのところ)。州都オアハカ市は州のほぼ中央に位置している。
d-maps.comのサイト(http://d-maps.com/carte.php?num_car=1388&lang=es)から一部改変
空港から、国内線に乗り継ぎ、オアハカの「ホホコトラン国際空港」(Aeropuerto Internacional Xoxocotlán)に夕方6時半頃到着した(2)。現地ガイドの佐藤さんの案内で、オアハカの歴史地区にあるホテル「オスタル・デ・ラ・ノリア」(Hostal de la Noria 水車(あるいは井戸)の旅館)にチェックインして部屋に入った。1階のロビーの道路に面した広い窓には格子がつき、大きくはないが、中庭(patio)の中央には噴水があり、その周りの1、2階には石の柱の立つ柱廊がある。スペインのアンダルシア地方の家を想わせる植民地時代風の建物である。部屋の中のベッドや椅子などの家具調度も当時の雰囲気を出している。
荷物を置いてすぐ、妻と二人だけで、ホテル玄関から道路を挟んで向かい側にある「オアハカ織物博物館」(Museo Textil de Oaxaca)を見学した。入館料は無料であった。この博物館の建物も歴史的なもので、18世紀に建てられた屋敷を基に、2007年にリフォームしたものとのことである。2階建ての石造りの建物である。木綿(algodón)のレボーソ(rebozo)などの織物や刺繍(bordado)の展示だけでなく、リュウゼツラン(maguey)の繊維で編んだバッグやサンダル(huarache)など、先住民の伝統的な日用品の展示もあった(3)。
博物館を出た後、植民地時代風の建物が並ぶ夕暮れの町並みを散歩した。少し歩いた先に「サン・パブロ文化センター」(El Centro Cultural San Pablo)があった。ここでは、イタリア・シエナ市プブリコ宮殿のフレスコ画展覧会の開会式に遭遇した(4)。ここも無料でだれでも入ることができた。お揃いの地元の先住民の民族衣装を着た女性が何人かいて、開会式の雰囲気を盛り上げていた。この「センター」には、展示会場の他、オアハカ州の先住民言語や文化などに関する書物を集めて公開している図書館などがある。建物は、1529年にドミニコ会がオアハカで最初に建てた修道院が基になっていて、400年以上の歴史を経ているとのことである。オアハカ州の布教にはドミニコ会修道会(la Orden de predicadores, Orden dominicana)がたずさわったので、オアハカには、同会の残したいくつかの建造物がある。
オアハカ織物博物館の展示
サン・パブロ文化センター。シエナ市プブリコ宮殿フレスコ画展覧会開会式
翌日は、モンテ・アルバンとミトラの遺跡を見学した。これら遺跡については、別のページで書くこととし、ここでは、遺跡見学の後と3日目におけるオアハカ市歴史地区の見学も含めて、オアハカ市について書く。筆者は、学生時代、日本とメキシコとの交換留学制度一期生99人の内の一人としてメキシコに1971年6月から翌年3月まで、10ヵ月間滞在した。留学締めくくりのプログラムとして、大型バス3台を連ねてのメキシコ市からユカタン半島を巡っての修学旅行の帰り道、オアハカ市とモンテ・アルバンなどを見学したので、2度目の訪問である。しかし45年も前のことでかなり記憶が薄れている(5)。
歴史地区の中央広場(Zócalo)。樹木やあずまやもある
メキシコ国旗が立っている
オアハカ市は、オアハカ州(Estado de Oaxaca)の州都で、公式名称は「オアハカ・デ・フアレス」(Oaxaca de Juárez)、これもベニート・フアレス大統領に敬意を表した名称である。16世紀の植民地時代の町並みを残す旧市街と、先スペイン時代の遺跡であるモンテ・アルバン遺跡を含めて、「オアハカ歴史地区とモンテ・アルバンの古代遺跡」(Centro histórico de Oaxaca y zona arqueológica de Monte Albán)の名で、ユネスコの世界遺産に1987年に登録されている。ユネスコのサイトによると、オアハカ市は、先住民のサポテコ人がいた土地にスペイン人がやってきて、1529年アンテケーラ(Antequera)の名で町の設立が宣言された。広場(plaza)を中心に、建物が日光を受けることができるよう少し傾斜した東西南北の線に沿って碁盤の目のように通りが計画され、建物が作られていった。1200もの歴史的建造物があり、建物は、地震のあるこの地方に合わせて、低く厚い壁で建てられているとのことである(6)。
3日目には、ホテルから歩いて、まず、歴史地区の中央広場(zócalo)である「憲法広場」(Plaza de la Constitución)に行き、 「大聖堂」(Catedral)、 サント・ドミンゴ教会(Iglesia o Templo de Santo Domingo)、ラ・ソレダード教会(Iglesia de La Soledad)を見た。
オアハカ市歴史地区の街。聖週間(Semana Santa)の準備で切り紙細工が飾られている。
大聖堂(Catedral)
「サント・ドミンゴ(・デ・グスマン)教会」(Iglesia o Templo de Santo Domingo (de Guzmán))は、ドミニコ会の教会であり、この修道会の創設者、ドミンゴ・デ・グスマン(Domingo de Guzmán. 1170-1221)の名が付けられている。サント(Santo)とは聖人の意味で、死後の1234年に列聖されてからサント・ドミンゴ(Santo Domingo)と呼ばれる。教会は1570年に建設が始まっている。1600年代初頭のいくつかの地震による破壊も乗り越え、天井内部の金箔貼りなどの手が加えられ続けて、1660年におおむね完成した。内部にあるロサリオ礼拝堂(La capilla del Rosario)は、18世紀初頭に作られたとのことである。19世紀のレフォルマの時代、教会財産を国有化する法律により、兵舎にされたりして荒廃するも、20世紀に入ってから修復が始まり、新しい祭壇が建立され、グスマン家の家系樹が完成されたりしたとのことである(7)。
サント・ドミンゴ教会の隣に、「サント・ドミンゴ文化センター」(Centro Cultural Santo Domingo)があり、この建物は、「サント・ドミンゴ修道院」(Convento de Santo Domingo)を改装したものである。ここに入っている「オアハカ諸文化博物館」(Museo de las Culturas de Oaxaca)を遺跡見学の日、オアハカ市に帰ってから訪れた。博物館はかなり広く、14室の常設展示と13室のテーマ展示でオアハカ州の様々な遺跡からの出土品などを見ることができた。最も重要な展示品は、モンテ・アルバンの第7号墳(Tumba 7)の出土品とのことである。また2階の回廊からは、先住民文化と関連のあるサボテンなど多くの種類の植物が植えてある「民族植物園」(Jardín Etnobotánico)を見ることができた。
サント・ドミンゴ教会
ラ・ソレダード教会。右手奥にゲラゲッツア・ホール(Auditorio Guelaguetza)の屋根が見える
歴史地区の中央広場から北西にフォルティンの丘(Cerro del Fortín. 小さな砦の丘)がある。それほど高くはないけれど、歴史地区を見渡す高さにあり、防衛に使われ Fortín(小さな砦)の名となっている。中腹に「ゲラゲッツア・ホール」(Auditorio Guelaguetza)がある。丘の斜面を利用した観客席には、1万人ほどを収容できるとのこと。ここで毎年7月の最後の週の月曜日に、ゲラゲッツアの大祭が開かれる。これはオアハカ州に古くから伝わるお祭りの一つで州の各地域、各民族の民族舞踊を披露する祭典である。踊りの最後には、この地域の民芸品を観客に投げたり、配ったりするのもこの祭典の特徴の一つである。ゲラゲッツアという言葉は、サポテコ語起源で、互恵的交換を意味し、祭礼や結婚式など費用がかかる時に貯めた金品を融通し合うことを意味したとのことである(8)。
筆者は、今まで現地での祭典を観る機会を得ていないけれども、1995年5月に愛知県瀬戸市で開催された「メキシコ・オアハカ州民族舞踊ゲラゲッツア公演」を観ている。妻が保管してくれていたパンフレットには、国内外に向けてオアハカの民族文化を紹介することを目的として発足した「ブレーズ・パスカル高校民族舞踏団」による公演で、その日披露されたオアハカ州先住民の7民族による10曲の踊りの紹介がある。そのうちの1曲は、パイナップルを手に持ったり肩に載せたりして踊るチナンテカ人(chinantecos)の踊りとある。我々は、小さな民芸品をいくつかと、踊りに使ったパイナップルも一つもらった。会場で居合わせた知人のメキシコ人からは、パイナップルをうらやましがられた。
オアハカでの見学を終わり、メキシコ市行き飛行機に乗るべく、空港に行く迎えのドライバーと車をホテルのロビーで待った。しばらく待って予定の午後2時になったが、まだ車が来ない。ガイドの佐藤さんはおおいに気をもんでくれている。飛行機に乗り遅れて、その先の予約便がすべて取り消されたという知人の話を聞いていたので、我々がそのようになることを心配してくれているのである。電話連絡すると学校教師たちのデモで道路封鎖が行われていて、車がホテルまで来られないということであった。どうしても来られないのであれば、別の車すなわちタクシーで空港まで行くとのこと。筆者は、意思表示としてのデモや道路封鎖がメキシコではよくあることと、それほど気をもむということはなかった。結局、あまり遅れることなく、2時半頃には出発することができた。もちろん飛行機にはちゃんと間に合った。