2017年2月にポルトガル(Portugal)のいくつかの町とスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)を巡る旅行に参加した。サンティアゴ・デ・コンポステラへは、ポルトガルのポルトに到着した翌日、バスでの日帰り旅行であった。「スペイン語国旅行記」と銘打っているので、ポルトガルについては、また別の機会に残しておいて、ここでは、サンティアゴ・デ・コンポステラについて書くことにする(1)。
ガリシア自治州(ピンク色) 中の赤丸がサンティアゴ・デ・コンポステーラ d-maps.com(http://d-maps.com/carte.php?num_car=1388&lang=es)から一部改変
ポルトのホテルを朝9時(ポルトガル時間)に出て、バスは高速道路を北上する。暗い雲が立ち込め、ときおり寒い雨が降っている。ポルトガル時間10時17分、スペイン時間11時17分にスペインに入った。ビーゴ(Vigo)を過ぎてから橋を渡って、海が近くに見えるポンテベドラ(Pontevedra)近くのサービス・エリア(área de servicio)で休憩した。地図で見ると、海は東側にあり、サン・シモン湾(Ensenada de San Simón)である。サービス・エリアは、サン・シモンの名で、店は、スペイン中にあるラ・パウサ(La Pausa 休息)という系列店である。
スペイン時間で午後1時、サンティアゴ・デ・コンポステラの駐車場に到着した。バスを降りて、寒い中、坂道を歩いて登って行き、バル・デ・デウスのサン・フランシスコ修道院(Monasterio de San Francisco del Valle de Dios. Mosteiro do San Francisco de Val de Deus)の教会の前を通り、目指す大聖堂(Catedral)へ向かった(2)。道の両側は、中世の町並みであるかのように石造りの建物が並んでいる。オブラドイロ広場(La Plaza del Obradoiro / Praza do Obradoiro)という名前の大きな広場に出た。全面に石が敷かれている。オブラドイロとは、ガリシア語(el gallego)で、スペイン語/カスティリャ語(el castellano)の taller に相当し、仕事場、作業場を意味する。昔、大聖堂建築の際、職人達がここで作業していたとのことである。そのサンティアゴの大聖堂は、左にあるが、修復用の足組みが組まれている。修復は今までも繰り返し行われてきていて、現在の大聖堂正面の修復は、2021年までには完成するとのことである。広場の右に、市庁舎がある。正面は、サン・ヘロニモ学院(Colegio de San Xerome)、後方には、広場へ来るとき横を通ってきた王立施療院(el Hostal de los Reyes Católicos)がある。市庁舎は、ラショイ宮/ラホイ宮(Palacio de Rajoy Pazo de Raxoi)という名でもあり、1766年にラショイ大司教(el arzobispo Raxoi)によって合唱隊や神学校の子供たち用の宿舎として建てられた建物である。 サン・ヘロニモ学院は、17世紀の建物で、フォンセカ3世大司教(el arzobispo Fonseca III)によって貧しい学生達のために建てられ、後、サン・マルティニョ(San Martiño)修道院の拡張などに使われたりしたとのことである。現在はサンティアゴ大学の本部(Rectorado)がある。王立施療院は、カトリック両王の命で、1501年に、病院として、およびサンティアゴ巡礼者をもてなす施設として建設された。現在は高級ホテル・パラドール Parador)になっている。
オブラドイロ広場へ向かう道。右がパラドール王立施療院、正面に大聖堂の塔の一つが見える。
修復用足場が組まれた大聖堂 手前に屋根が見えるのは観光用トラム
パラドール・カトリック両王
大聖堂に入るのは後にして、昼食のために、広場の向こう側の少し先のレストラン(El Restaurante San Jaime)に入った。本場の木の皿にのったガリシア風タコ(pulpo a la gallega)が、前から好物だったが、柔らかくて特に美味しかった。他にはパエリャ(paella)、デザートにサンティアゴ・ケーキ(torta de Santiago)の一切れが出た。
ガリシア風タコ
食事の後は、サン・ヘロニモ学院(Colexio de S. Xerome)を訪れ、中庭を見た。現在はサンティアゴ・デ・コンポステラ大学の本部や中央図書館として使われている。
サン・ヘロニモ学院の中庭
アラメダ公園から大聖堂への途中の町並み
サンティアゴの歴史地区を眺めるに良い高台アラメダ(Alameda)公園に行った。公園の中のライオンの散歩道(Paseo de los Leones, Paseo dos Leóns)と言われるところにあるベンチに座っているバリェ・インクラン(Ramón María del Valle-Inclán 1866-1936)のブロンズ像を見て、その像の目線の先の、建物の屋根の向こうの大聖堂の塔を見た。バリェ・インクランは、ガリシア出身の詩人・劇作家・小説家である。
その後、また古い雰囲気の町並みを歩いて、土産物店などを見ながら、大聖堂まで戻った。一軒の土産物店のショーウインドウには、サンティアゴ大聖堂で有名な釣り香炉(botafumeiro)が飾ってある。
雨が激しくなり、大聖堂の中に入った。中は祭壇部分など照明はあるものの暗い。高い天井まで伸びる柱が並び壮大である。冬の雨降りの日で、巡礼者など参拝者は多くない。中央祭壇の横にある入り口から入り、参拝者が少ないおかげで、少し並んだだけで、金銀で作られたサンティアゴの像に後から抱きついた。800年前の古い像とのことで、敬虔な巡礼者が大聖堂に到達した喜びを表すために抱きつくのだそうである。旅の無事を祈り、妻と旅ができたことの感謝を込めて抱きついた。別の入り口から降りて、サンティアゴの棺を見た。こちらは行列を作ることなく入ることができた。入り口には、ラテン語で「聖ヤコブの栄光の墓」(SEPULCRUM SANCTI IACOBI GLORIOSUM)という銘がある。格子の中の部屋には、上に花が飾られている祭壇のような石棺がある。照明があてられていて、比較的新しいもののように見える。
正面玄関となっているバロック様式のオブラドイロの門を入ったところにある、昔の正面玄関であったロマネスク様式の栄光の門(Pórtico de la Gloria)が見所の一つとのことだが、現在は修復中のため、大聖堂の中から足組みが組まれた修復現場を見た。足組みの手前には写真入りのパネルで中に入れないようにしている。
サンティアゴ(Santiago)とは、キリストの十二使徒の一人、聖ヤコブ(Jacobo)のことである。ユダヤの地・エルサレムで、ヘロデ王(Herodes)により、44年頃処刑された。
中世の伝説によると、聖ヤコブは、ヒスパニア(Hispania. ローマ時代のイベリア半島)の地でキリスト教伝道をしていた(3)。ユダヤの地へ戻ったところ、処刑されてしまった。その遺体を弟子の二人が船に載せガリシアまで運んだという。エルサレムから地中海を横切り、イベリア半島の岸に沿って大西洋を北上し、ガリシアまで来たことになる。ガリシアの大西洋岸は、リアス式海岸(las rías)で港が多くある。伝説では、イリア(Iria)の港に上陸し、陸路を行き、現在のサンティアゴの地に埋葬したとされている。ラテン語で書かれた12世紀のサンティアゴ巡礼路案内書であるカリクストゥス写本(El Códice Calixtino)の第3書(聖ヤコブの移葬)によると、埋葬した土地は、ルパ(Lupa)という名の異教徒の女性所有地で、キリスト教以前の宗教で崇拝されていた大きな像と礼拝所があった。遺体にまつわる奇跡を知り、ルパもキリスト教に帰依し土地を提供した。遺体を運んできた弟子達は、異教の像を粉々に破壊し、そこを深く掘り、ヤコブを埋葬したとある(https://codexcalixtinus.es/ のサイトにある現代スペイン語訳を参照した)。もしこの記述が事実ならば、先住民の信仰対象を破壊し、その上にキリスト教の教会を建設した南北アメリカで行われたのと同じことがイベリア半島でも行われていたということになる。
9世紀初め、イリア・フラビア(Iria Flavia)の司教テオドミロ(Teodomiro)が、一人の隠遁者の、星が示したという話しによって調べたところ、使徒ヤコブ(el Apóstol Santiago)の墓であると確認したという。アストゥリアス(Asturias)王アルフォンソ2世(Alfonso II. 791-842)が墓の上に教会を建てるよう命じ、町が設立された(830年)。サンティアゴすなわち聖ヤコブの墓は、イベリア半島をはじめヨーロッパ中のキリスト教徒の信仰を集め、各地からの巡礼者により文化や富がこの町にもたらされた。その富を求めノルマン人が海から何度も襲い、イスラム教徒は、997年に町を徹底的に破壊した。だが聖ヤコブの墓は、破壊されなかったという。その後町は再建され、1075年にロマネスク様式の大聖堂の建設が始まった。イベリア半島南部がイスラム教徒に支配されていた当時、このサンティアゴへのキリスト教信仰が、アストゥリアス王国内部の結束を固め、イスラム教国に支配された南部を奪還する戦い、すなわち国土回復戦争(reconquista 再征服)の旗印になったのである。聖ヤコブは、イスラム勢力と戦うキリスト教徒の守護聖人とされ、11世紀以降の国土回復戦争でキリスト教国側の戦士は、¡Santiago!と叫んで敵に突撃したのである。
サンティアゴ・デ・コンポステラの旧市街と大聖堂は、「サンティアゴ・デ・コンポステラの旧市街」(Ciudad vieja de Santiago de Compostela)と「サンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼路:『フランス道』とスペイン北部の巡礼路群」(Caminos de Santiago de Compostela: Camino francés y Caminos del Norte de España)という名称で世界遺産に登録されている(4)。いつもは、というより気候の良い季節には、大聖堂とそのまわりの街路や広場は、たくさんの巡礼者がいるとのことである。我々が訪れたのは、寒い冬で雨がたくさん降っている日であり、多勢が集う雰囲気は味わえなかった。旧市街の他の地域もゆっくり散策することができなかった。できれば、いつの日か、もう一度ゆっくり訪れたいと思っている。