ブルゴスからバスでヒホン(Gijón)へ着いた。23時近くだったにもかかわらず、友人MCの友人Jさん一家が迎えに来てくれていた。Jさんが手配してくれていたバスターミナル近くのホテルに入った。初対面だったJさん一家には、ご主人の車での移動も含め大変お世話になった。息子さんと娘さんにも、お母さんとの時間をとってしまい、我々の送り迎えにも動員され、だいぶ迷惑をかけたことと思う。Jさんは学校の先生とのことで、各地の案内も歴史を含めとても詳しくしてくれた。スペイン全体の原点でもあるアストゥリアスやヒホンへの郷土愛にもあふれている話しぶりであった。
しかし、ホテルは、バスターミナル近くのビジネスホテルという感じで、星なしのホテルでポーターがいず、エレベーターなしで、Jさんの息子さんが重いスーツケースを我々の客室のある3階(segundo piso)に運び上げてくれた。エアコンなし、シャワーの湯は生ぬるく、狭く、汚く、湿気が多い部屋だった。おまけにトイレの排水の調子が悪く、なだめすかして使っていたのだが、2日目の真夜中にトイレの水が止まらなくなり、どうやっても止まらなかったのでそのままにしていたら、明け方、見知らぬ上半身裸の下着姿の男が激しくノックしてきて、部屋に入ってきてトイレの水を止めて出て行った。(たぶん隣室の)彼も水音で眠れなく、たまらずの行動だったと思う。
料金も1泊54.1ユーロ+IVA7%と、アリカンテの4つ星ホテル(特別料金だったせいではあるが)より高かった。ヒホンで3泊を予定していたが1泊しただけで根を上げ耐えられなかったため、2泊にした。日本からネット予約してあった次の滞在地マドリードのホテルに翌朝電話して、1泊を予約してあったのを1日早くから2泊することにしてもらった。
ヒホン到着の翌日、Jさんとバスでオビエド(Oviedo)へ行った。オビエドは、アストゥリアス自治州(Principado de Asturias)の州都である(1)。アストゥリアス王国(Reino de Asturias 791-910)の首都でもあった。オビエドとその近郊にある数軒の歴史的建造物が「オビエドとアストゥリアス王国の歴史的建造物群」(Monumentos de Oviedo y del reino de Asturias)の名でユネスコ世界遺産に登録されている。
ユネスコ世界遺産登録の建築群は、次のように説明されている。イベリア半島の大部分がイスラム教徒に占領されていた9世紀に、イベリア半島北部の小国アストゥリアス王国はキリスト教国として存続していた。そしてその領土に、前期ロマネスク様式の革新的な建築様式が生まれ、それらは、後にイベリア半島中の宗教建築の発展に重要な役割を果たすことになった。フォンカラーダ(La Foncalada)と呼ばれる当時の利水・排水技術も遺産に含まれる。
そして5つの建物があげてある。Jさんの案内で、そのうち4つを見学することができた。聖フリアン・デ・ロス・プラードス教会(San Julián de los Prados)、聖サルバドール大聖堂(Catedral de San Salvador)の中の「聖なる部屋」(Cámara Santa)、聖マリア・デル・ナランコ教会(Santa María del Naranco)、聖ミゲル・デ・リリョ教会(2)(San Miguel de Lillo)である。他に聖ティルソ教会(San Tirso)も見た。
教会は、どれも前期ロマネスク様式で、重厚な切石が積まれて建てられていて、それほど大きくなく、外観も派手さはないが素朴な美しさである。
聖フリアン・デ・ロス・プラードス教会、聖ティルソ教会、「聖なる部屋」が、アルフォンソ2世の時代(791-842)に建設されたもの。聖マリア・デル・ナランコ教会(当初は宮殿として建設された)と聖ミゲル・デ・リリョ教会は、ラミーロ1世(842-850)・オルドーニョ1世(850-866)の時代に建設されたものだそうである。
聖マリア・デル・ナランコ教会
聖ミゲル・デ・リリョ教会
聖フランシスコ公園(Parque de San Francisco)の中で休憩した。この公園は、かつて聖フランシスコ修道院(Convento de San Francisco)だった所で、19世紀に公園にされたとのこと。また大聖堂の前には、ラ・レヘンタ(La Regenta(3))の彫像が立っていた。クラリンことレオポルド・アラス(Leopoldo Alas “Clarín”)の小説『ラ・レヘンタ』(1884, 1885 La Regenta)の主人公である。この小説は、ベトゥスタ(Vetusta 古臭い(市))という名の町、実はオビエドが舞台となっている。歴史の流れから取り残されたこの町の上流階級の生活が、愛に恵まれない美人のラ・レヘンタを中心に描かれた長編小説である。
オビエドの見学の後、ご主人のPさんが車で迎えに来てくれて、車でヒホンへ向かう。その前に、ナランコ山(Monte Naranco)の頂上でオビエドの町を眺望し、頂上にあるキリスト像(monumento al Sagrado Corazón de Jesús イエスの聖心)を見た。1950年に建てられたもので、オビエドの町に向かい両腕を広げたキリスト像である。
ヒホンへ行く途中、フランコ時代に立てられた職業訓練校を見た。寄宿舎になっていて全国から子供を集めて職業訓練をした学校だそうである。現在は廃校になっていて、建物も使われていない。フランコの政策は、子供達に手に職を付けさせるというような良い面もあったとご主人は言っていた。
フランコ時代に立てられた職業訓練校
オビエドからヒホンへ帰ってきて翌日、ホテルをチェックアウト後、朝10時頃からJさんの案内で、マヨール広場(Plaza Mayor)やマルケス広場(Plaza del Marqués 侯爵)を見て、カンタブリア海に突き出た岬の地区、シマデビリャ(Cimadevilla)地区を散策した。この地区は、ヒホンで最も歴史ある地区とのことである。ホベリャーノス(4)広場(Plaza Jovellanos)、「海の飾り壁」(El Retablo del Mar. Sebastián Miranda作 1933)、そして、岬の北側、高台(La Atalaya)になっている広い丘(Cerro Santa Catalina)では、「水平線礼賛」(Elogio del Horizonte. Eduardo Chillida作 1990)というモニュメントなども見た。
マルケス広場に立つペラヨの像(Monumento a Pelayo)。ペラヨは、722年コバドンガ(Covadonga)の戦いでイスラム軍に勝利し、初代アストゥリアス王( -737)に選ばれる。その向こうは、18世紀に建てられた屋敷でレビリャヒヘド宮殿(Palacio de Revillagigedo)。後姿は、Jさんと妻。
オビエドとヒホンの旅では、この地方特有の(高床式)穀物倉(hórreo)も見ることができ、Jさんからおみやげにそのミニチュアもいただいた。おみやげには、アストゥリアス地方にある前期ロマネスク様式の教会群を写真付きで解説した本、Guía del Arte Prerrománico asturianoもいただいた。妻と筆者は、ヒホンのホテルであまり眠れなかったのと、今までの旅の疲れが出て、オビエドとヒホンでの主に徒歩での見学はきつかった。筆者は体調が悪くなり、薬局で薬を買って飲んだり、Jさんと妻が見学している間、休憩して待っていたりした。
ヒホン市内散策の後、カフェテリアで昼食をとっている間に、Jさん達がホテルに預けてあった我々の荷物を持ってきてくれて、バスターミナルからJさん一家の見送りの中、午後2時発のバスでマドリードへ向かった。