アルカラ・デ・エナレスから列車でマドリード・アトーチャ駅へ帰って、その足で、駅の近くにあり、ホテルへ向かう途中のソフィア王妃芸術センター国立美術館(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía)へ歩いて行った。
4階建ての大きな建物で、ガラス張りのエレベーターが2本外に張り出している。(エレベーターは3本あるが、1本は奥にあるので正面からは見えない。)
16世紀に病院が建てられていた敷地に、18世紀に新たに建設され、1788年から1965年まで病院として機能していた。その建物が改築され、1988年に美術館とすることが決められた。所蔵作品は、大学都市(Ciudad Universitaria)にあったスペイン現代美術館(Museo Español de Arte Contemporáneo)から移した作品を元にしているとのことである。
入場料は1人3.01ユーロ(euro)だった。ピカソ(Pablo Picasso)の「ゲルニカ」(“Guernica” 1937)をはじめ、ミロ(Joao Miró)やダリ(Salvador Dalí)などの有名な画家の作品は、2階に展示されている。2階が19世紀末から第2次世界大戦後までの絵画の常設展で、1940年代末から現代までの作家の作品の常設展示は4階である。期間限定のいくつかの企画展が主に3階の展示室にある。展示作品は絵画だけでなく、彫刻や写真もある。
縦3m50cm、横7m80cmの壁一面の大きな「ゲルニカ」の絵は、目の前に立つと圧倒される。白黒と灰色で描かれているようで、鮮やかな色はないけれども、地味ではない。描かれているものや人物を見ると、安全であるはずの室内で、動かない子供を抱き上を仰ぎ絶望する女性、折れた刀を握ったまま横たわる人、棒が刺さったのか苦しむ馬、両手を挙げて嘆き悲しむ女性など、兵士でない人々の戦争による苦しみ・悲しみを抽象的に描いているようで、心に訴えかけてくる。
ピカソの「ゲルニカ」を見るのは2度目である。1984-5年のマドリード滞在時、当時は、プラード美術館別館としてのカソン・デル・ブエン・レティーロ(Casón del Buen Retiro)に防弾ガラスで覆われて展示してあった。入るときも荷物検査があり、厳重な警戒態勢にあった。「ゲルニカ」の他には、製作の際のデッサンが多数展示してあった。
2003年の旅行では訪れる機会はなかったけれども、ゲルニカは1984年に訪れた。その時のことをここに書くことにする。
ゲルニカの町は、隣接するルノ(Luno)を1882年に併合し、それ以来、ゲルニカ・イ・ルノ(Guernica y Luno)として1つの町となっている。バスク自治州(País Vasco バスク国)のビスカヤ県(Vizcaya)にある町で、かつてビスカヤ領の首都であった。ビスカヤ自治の象徴の「ゲルニカの木」(Árbol de Guernica)として知られるオークの木(roble)と、各町の代表者が集まった議事堂(Casa de Juntas)、現ビスカヤ県議会議場(Juntas Generales de Vizcaya)が置かれた町である。
ラス・ウエルガス修道院&アタプエルカ遺跡編に書いたように、1984年6月の家族4人の北部への旅行の最終日、ゲルニカ・イ・ルノの町に行って1泊した。筆者がレンタカーを運転して行ったのだが、恥ずかしながら、行くまでは、ゲルニカの町の名が正式にはゲルニカ・イ・ルノであることを知らなかった。頼りにしていた地図帳のGuernicaのuの下にある町を示す丸印を目指していてゲルニカにたどり着けなかった。Guernica y Lunoの最後のoの右下の丸印が、ゲルニカの町と気づくことでようやくたどり着くことができた。夕方に入った町中でも当時あった唯一のホテル(1つ星)を探すのに手間取り苦労した。
翌朝、町の中心部にある議事堂とゲルニカの木を見た。木は、キオスコ風の建造物の中に鎮座する幹だけの古いものと、茂っている新しいものとがあった。当時、東洋人の親子は珍しいらしく、ジロジロと見られた。見学に来ていた子供達のグループが、黄色くないとか、目を釣りあげる仕草をしながら、そうでもないとか、言ったりしているのが聞こえてきた。
ゲルニカの木と右に議事堂建物が少し見える
1937年4月26日、フランコが指揮する反乱軍を支援するためナチス・ドイツが派遣したコンドル軍団43機の爆撃機と戦闘機が、ブルゴス(Burgos)の基地とビトリア(Vitoria)の基地、両方から爆弾、榴散弾、焼夷弾計45トンを積んで飛び立ち、ゲルニカ・イ・ルノの町中を空爆し、機銃掃射した。中心街300家屋の建物の70%が破壊され、約7000人の住民のいた町で、爆撃と機銃掃射によって、女子供・老人を含むおよそ1700人が死亡し、1000人ほどが負傷したそうである。ゲルニカの惨劇は、史上初の都市無差別爆撃であり、その後の第2次大戦から今日に至るまでも各地で繰り返されてきている非戦闘員大量殺戮の最初といわれている。
ピカソは、ゲルニカのニュースを知った直後の5月初旬から描き始め、6月3日か4日に「ゲルニカ」を完成させている(1)。
2003年8月のスペイン滞在最終日、朝8時前に朝食のためホテルを出て、筆者はチューロ(churro)、妻はトースト(tostado)を、カフェオレ(café con leche)と一緒に、スペイン式朝食をとった。帰国への便は、マドリード・バラハス空港16:20発なので、それまでの時間を利用して、ホテル近くのティッセン・ボルネミッサ美術館と王立植物園へ行って見学することにした。一度ホテルの部屋に戻った後、まず美術館へ出かけた。
ティッセン・ボルネミッサ美術館(2)(Museo Thyssen Bornemisza)の入口のところで、10時の開館までしばらく待った。1人4.8ユーロを払って入った。
順路は、3階(planta segunda)からで、部屋番号に従って見て行くと、ルネッサンス以前(Primitivo)からルネッサンス(Renacimiento)、古典主義(Clasicismo)などヨーロッパの作品が時代順に展示されている。2階(planta primera)には17世紀から20世紀までのオランダ写実主義(Realismo)の作品から印象派(Impresionista)、後期印象派(Postimpresionista)、それに19世紀の北米とドイツ表現主義(Expresionismo)の作品が見られる。1階(planta baja)では、キュービズム(Cubismo)からポップアート(Pop Art)までの20世紀の絵画がある。ヨーロッパの絵画史を実物で見ることができる一大コレクションである。
これらの美術品は、実業家でもあるティッセン・ボルネミッサ男爵家が2代に渡って収集したものを、1993年にスペイン政府が買い取ったものだそうである。そのうち約800の作品がここの美術館で展示され、残りの美術品は、バルセローナのペドラルベス修道院(Monasterio de Pedralbes)で展示されているとのこと。
美術館の建物も立派なもので、18世紀末から19世紀初めに建設されたマドリードの新古典主義様式で、王家に繋がるビリャエルモサ公爵家(los duques de Villahermosa)の宮殿(Palacio de Villahermosa)だったものを改装したものである。
美術館からホテルに戻り、ひとまずチェックアウトしてから、荷物を預かってもらい、王立植物園へ向かった。
マドリードで宿泊したホテルから南東にソフィア王妃芸術センターが、北東にティッセン・ボルネミッサ美術館、真東に王立植物園が、どこも15分ぐらい歩いて行ける距離にある。プラド美術館(Museo del Prado)も王立植物園のすぐ北側にあるけれど、マドリードに家族で1年間(1984-85)滞在していた時に何度も訪れているのと、一度入ると時間がかかり過ぎるので、今回は省略した。
プラド美術館と王立植物園の間にあるムリリョ広場(Plaza de Murillo)に面して、植物園の入り口がある。すなわち北側から入る。入場料は1人1.5ユーロだった。1ヘクタール(hectárea)ぐらいの敷地の中は、南北に広い通路(paseo)が5本あり、それと交差する東西の道8本によってあちこちに散策できる。東側の花の区画は、いくつかの円を描いた道になっている。西洋式庭園の雰囲気の中、ところどころある小さな噴水を囲むように、様々な樹木が生い茂っている。
イベリア半島中から集めたり、ヨーロッパの他の植物園との交換で入手した2000以上の植物による王立植物園が、1755年に国王フェルナンド6世の命によって今とは別の場所に作られた。1781年にカルロス3世によって現在の位置に移転した。1939年からは、植物学の研究所として、科学研究高等審議会(CSIC. Consejo Superior Investigaciones Cientiíficas)の所属だそうである。
植物園を出た後、ファーストフード店で「シェフのサラダ」(ensalada de chef)、オレンジジュース(zumo de naraja)などで昼を食べてからホテルに戻り、預けてあった荷物を受け取って、タクシーで空港へ向かった。若い女性のドライバーだった。料金は14ユーロ+空港への料金4ユーロで計18ユーロだった。空港でターミナルやチェックイン・カウンターの場所が、長い行列を待って聞いた答が人によって異なって、別のターミナルや別のカウンターに行くことになって振り回されたりしたが、帰国便に乗ることができ、2003年のスペイン旅行は終わった。
筆者の研修のため1984-85年の一年間、家族(我々夫婦と子供2人)でマドリードに滞在した。一年間授業担当等を免除されたことはありがたかったけれども、所属先から支給された研修費は、飛行機代は筆者の分だけで(家族分は私費)、滞在費(部屋代)も予算が限られているとかで出ず(知人宅に無料で滞在すると書いた文書を提出させられた)、生活はぎりぎりだった。
土地勘もなく、頼ることができる人もいなかったので、滞在するところを探すのが大変だった。最初は日本から手紙で予約しておいたホテルで数日過ごし、1カ月弱をアパート式ホテル(apartotel. hotel apartamento)、その後、ようやく家具付きアパートを借りることができた。マドリード・コンプルテンセ大学(Universidad Complutense de Madrid)での聴講も予定していたので、アパートは、市の北西部にあり大学にもかろうじて歩いて行けるところを探した。市の中心部へもバス1本で行けるところで交通の便はよかった。ガラス窓が広く明るいのはいいが、寒いときは室内でも非常に寒かった。大陸性の気候で寒暖の差が激しいマドリードで、寒さは身にこたえた。引越し直後の5月もたまたま雨が続いたせいなのか、家の中でコートを着なければならないほど寒くなったこともあった。当然、冬の寒さは厳しく貧弱なヒーターしかない室内では、コート着用が必須だった。
アパート式ホテルは、空調もきいていて快適ではあったが、冷蔵庫と洗濯機がないのが不便だったので、家具付きアパートを探した。冷蔵庫と洗濯機があったので決めた部屋ではあったが、両方ともひどい中古で、故障続きだった。冷蔵庫の故障では、今度こそ大丈夫だろうと買ったアイスクリームや冷凍品を何度も駄目にした。大家と修理業者に連絡しても、修理に来ると言った日時にすっぽかされることがほとんど毎回であり、また、いいかげんな修理(冷蔵庫はフロンガスを充填するだけ)で、直ぐ故障した。おまけに修理業者は「子供が冷蔵庫の扉にぶらさがったのだろう」などと、こちらのせいで故障したようなことを言う。冷蔵庫と洗濯機の修理にずっと振り回されたマドリード滞在だった。
しかし、コンプルテンセ大学やOFINES(Oficina Internacional de Información y Observación del Español)の講座(トゥルヒーヨ編参照)の受講、国立図書館(Biblioteca Nacional)などでの資料調査は、筆者のその後の教育研究に大いに役立った。また、休日にはマドリードと近郊の主な見所を見聞することができた。連休や長期休暇を利用して各地に行くこともでき、スペイン理解を深めることができた。