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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

スペイン(1) バルセローナ 編

堀田英夫

2003年7月31日にバルセローナ(Barcelona)からスペインに入って、バルセローナ3泊、アリカンテ3泊、ブルゴス4泊、ヒホン2泊、マドリード2泊と各都市に滞在し、いろいろなところを見学した。これら宿泊地のヒホン以外のホテルと、バルセローナからアリカンテ、アリカンテからマドリードの国内線を日本からネットで予約しておいた。この頃はまだネット予約がはしりの頃だったためか、それぞれプロモーションによる特別な格安料金だったと思う。バルセローナのホテルは、街中を出歩くのに便利な立地の4星で1部屋1泊150ユーロ(+税7%)だった。
 今回、バルセローナでは、グエル邸、サン・パウ病院などを見た。他の都市に回るためあまり日数がなかったので、1984-85年にマドリードで一年間滞在した際のバルセローナ旅行で見学した所は、今回は省略した。
 バルセローナは、スペイン第2の大都市であり、カタルーニャ(Cataluña, Catalunya)自治州の州都である。そして、自治憲章(1)で「カタルーニャ固有の言語はカタルーニャ語(catalán, català)である」と宣言し、公用語(lengua oficial)はカタルーニャ語であるとしている。その次にスペイン語(カスティリャ語 castellano, castellà)も公用語であると規定し、両言語が完全に同等になるよう必要な手段を講じるものとするとある。そのため、バルセローナの町中の表示は、カタルーニャ語が主になっている。
 カタルーニャ語とスペイン語は、共にラテン語から派生した言語で、文法や語彙が似ている。しかし、発音が異なるところがあり、固有名詞をカタカナ表記すると、両言語でまったく異なって見えるものがある。ここでは、日本のガイドブックなどに良く見られる表記を主に使い、カタロニア語(イタリック)とそのカタカナ表記も随時添えることとする。

グエル邸 Palacio Güell, グエイ邸 Palau Güell

バルセローナ到着2日目、朝ホテルから歩いてサンツ駅(Barcelona Sants)へ行き、T-diaという、市バスと地下鉄の1日乗車券を購入した。1人4.4ユーロ(euro)(当時我々の両替レートで1ユーロ144.4円なので、約635円)だった。10時頃、グエル邸(Palacio Güell, グエイ邸 Palau Güell)に着いた。道路に面して屋敷がならんでいる1軒の屋敷である。ドーム型の入り口が二つ並んでいる。10時半のスペイン語ガイドツアーの申し込みができたので、近くの銀行で両替をするなどして時間をつぶした。1人3ユーロ(約433円)を払ってグエル邸に入り、十数人だったかの見学客を1人のガイドさんが案内してくれるガイドツアーが始まった。
 地下(sótano)、1階(planta baja)、2階(planta noble 貴賓階)、3階(planta dormitorios 寝室階)、屋上(azotea)の4階建てで、さらに1階と2階、それに2階と3階の間に中2階(entresuelo)がある。そのためか、外側の窓の並びは5階建てのように見える。1886年から1890年に立てられたこのグエル邸は、どの階でも窓や天井などいたるところにカタルーニャのモデルニス(2)(Modernismo catalán, ムダルニズマ Modernisme català)の建築様式や装飾が見られる。
 興味深かったのは、建築様式とは関係ないかもしれないが、道路から馬車が入ってくることができ、斜面で地下に降り、そこに馬車の保管所と馬小屋などがあるということだった。自家用乗用車の普及は20世紀になってからであるが、その以前の19世紀の資産家達は既に馬車を使ったり保管したりする伝統を持っていたということを実感した。馬車を入れたり、保管したりするところにそのまま自家用自動車を入れたりすることができるのだと思う。
 屋上には、モザイク画や透かし彫り模様の装飾のあるキノコ型の20本の煙突が立っている。中央には15mの高さの塔がある。

 実業家・政治家であり建築家アントニ・ガウディ・イ・クルネット(Antoni Gaudí i Cornet. 1852–1926)の援護者として知られるアウゼービ・グエイ(Eusebio Güell 1846-1918)の私邸として建てられた屋敷である。ガウディの初期の作品とのことであ(3)

サン・パウ病院 Hospital de la Santa Cruz y San Pablo, Hospital de la Santa Creu i Sant Pau

地下鉄でサン・パウ病院へ行った。正式には、サンタ・クレウとサン・パウ病院(Hospital de la Santa Cruz y San Pablo, Hospital de la Santa Creu i Sant Pau 聖十字架と聖パブロの病院)という名前であるが、ガイドブックなどには、サン・パウ病院とある。敷地は、東西南北に角が来る四辺形で、南の角に、入り口と管理棟がある。ここから南にガウディ通り(Av. Gaudí)をまっすぐ行くと聖家族教会(サグラダ・ファミリア)がある。バルセローナの通りは、海岸線に沿った道路とそれに直角に交わる道路が走っていて、ブロック(街区)は、東西南北に角が来る四辺形となるのが普通である。ガウディ通りなど南北に走る道路は、他の道路と45度の角度で交わる。

(C) 2003 Setsuko H.サン・パウ病院 管理棟


 入り口すぐにある管理棟の建物も中央に高い塔があり、両翼に拡がる立派な建物である。ガイドツアーは土日のみとのことで、我々だけで建物の外観を眺めつつ中を散策した。日本のほぼ真っ白な無機質の病院建物から比べると、これが病院?と思うような、建物が並んでいる。赤茶のレンガ色の壁に多くの大きな窓が穿っている。窓枠や屋根、ベランダには、装飾がほどこしてあり、モデルニスモ様式の建物である。「バルセローナのカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院」(Palau de la Música Catalana y hospital de Sant Pau en Barcelona)の名称で世界文化遺産に登録されている。
 もらったパンフレットによると、この病院の歴史は、バルセローナにあった6つの病院が統合され、教会とバルセローナ市が共同で運営するサンタ・クレウ病院(Hospital de la Santa Creu)が発足した1401年にさかのぼるとのことである。医学の発展や時代により対処すべき病気が変わってきたため、フランスのパリ在住の銀行家パウ・ジル(Pau Gil)の資金援助で現在の建物の建築が1902年に始まった。建築家リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネー(Lluís Doménech i Montaner 1850-1923)が設計し、3×3のブロック(街区)に相当する四辺形の敷地の中に48の建物が中央を囲むように設計された。ドゥメナクは、美に治療効果があるとし、病気からの回復を早める幸福と美を患者達に感じてもらうことができるようにすることが肝要であると考えていた。風通しや日光も考え、また院内感染を防ぐため建物と建物の間を空け、同時に手術後の患者が屋外を移動しなくても良いように、中央の外科棟からまわりのすべての病棟へ地下道で繋いで、患者第一に考えて設計した。生前12の建物を完成させ、その後、息子のペラ・ドゥメナク(Pere Domènech i Roura)が残りの建物を完成させたそうである。
 病院の名も、資金提供者に敬意を表して、サン・パウ(Sant Pau)が付け加えられ、この名によって、アルフォンソ13世スペイン国王により1930年に正式に開業したそうである。
 訪問当時(2003年)、救急車が2,3台停まっている建物もあり、病院として機能していたようである。ただ建物群が古くなったため、2000年からすぐ北側に新しい建物が建設され、2009年にそちらが開業したそうである。元の建物群は、歴史的建造物として、また世界遺産として公開されている。

カタルーニャ音楽堂 Palacio de la Música Catalana, Palau de la Música Catalana

地下鉄でカタルーニャ広場へ行き、カタルーニャ音楽堂へ行った。これもドゥメナクによるモデルニスモ様式の建物で、サン・パウ病院と共に世界遺産に登録されている。我々が行った時には、あいにく8月末まで修復工事のためガイドツアーをやってなく内部を見学することができなかった。売店が開いていたので、娘へのおみやげに音楽堂のモチーフがデザインされたTシャツを特別価格の3ユーロで1枚購入した。

 妻は、この年の1月に旅行に来た際、このカタルーニャ音楽堂の内部をスペイン語のガイドツアーで見学している。過剰なまでの装飾とステンドグラスがすばらしかったとのこと、それで筆者と一緒に見たかったのだがと言っていた。
 その後、一日乗車券を使って、港など市内を散策した。

ミラヤス家別荘の門 La puerta de la Finca Miralles, Porta i tanca de la Finca Miralles

バルセローナ到着の4日目、短時間ではあるが、市内の散策をした。訪れた場所のひとつがガウディの1901年の作品「ミラヤス家別荘の門」(La puerta de la Finca Miralles / Portal Miralles, Porta i tanca de la Finca Miralles)である。現在は別荘はなくなり、門とそれに続く塀が少し残っているだけである。路上にあり、誰でもいつでも見学できる。門とそれに続く塀は、波打つような屋根が付けられている。門の開口部も曲線である。
 2000年にこの門の修復と同時に、ジョアキン・カンプス(Joaquim Camps)作のガウディの等身大像が置かれている。
 実業家アルマナフジルド・ミラヤス(Hermenegild Miralles)が、別荘の建築を機会にガウディに門の建設を依頼したものであ(4)

(C) 2003 Setsuko H.ガウディの「ミラヤス家別荘の門」


グエル別荘の建物 Los Pabellones de la Finca Güell, グエイ別荘の建物 Pavellons Güell

鉄柵の正門(puerta principla, porta principal)には口を大きくあけた竜(dragón, drac)の造形が睨みをきかせ目を引く。入り口は閉まっていたので、鉄柵製の竜がある門と、その外側から建物を見た。ガウディ設計の建物群である。現在残っているのは、正門、厩舎(caballeriza, cavallerissa)、馬の世話人の家(picadero, picador)、守衛室(portería, porteria)である。1884年から1887年にかけて建設された。この頃はガウディが東洋の芸術に影響を受けていたそうであ(5)

(C) 2003 Setsuko H.グエル別荘の門の装飾


パドラルバス王宮 Palacio Real de Pedralbes, Palau Reial de Pedralbes

グエル別荘(グエイ別荘)の隣にあるパドラルバス王宮(Palacio Real de Pedralbes, Palau Reial de Pedralbes)には、この当時、陶磁器博物館(Museo de Cerámica, Museu de Ceràmica)と装飾芸術博物館(Museo de las Artes Decorativas, Museu de les Arts Decoratives)が入っていたが、時間がなかったため、今回は中に入らなかった。建物の外観だけを見学した。
 ここの起源は、17世紀の農場にあり、グエル(グエイ)が1862年にこの辺の農場を購入し、広大なグエル別荘(グエイ別荘)(Finca Güell)とした。ガウディを含む何人かの建築家に建物の改築や庭園の設計を依頼している。
 王宮(Palacio Real, Palau Reial)という名は、1919年から1931年までスペイン王族がバルセローナに来た時の住居だったからである。共和制になった1931年にはバルセローナ市のものに戻った。市が1932年に装飾芸術博物館を開くも、フランコ時代にはフランコが滞在する屋敷となったが、その後1990年には陶磁器博物館を設置した。1997年のクリスティナ王女(Infanta Cristina)とイニャキ・ウルダンガリン(Don Iñaki Urdangarín)の結婚式に際しての昼食会がここで開催されたとのことであ(6)

1984年のバルセローナ

マドリードに1984年から85年にかけて家族4人で1年間滞在していたとき、1984年9月にマドリードでレンタカーを借り、バルセローナまでドライブした。バルセローナで3泊、モンセラット(Montserrat ムンサラット)で1泊の計4泊5日のドライブ旅行だった。途中ソリア県(Soria)のメディナセリ(Medinaceli)の町のバル(bar)とサラゴサ県(Zaragosa)のアテカ(Ateca)の町の公園で休憩し、高速道路を通り、バルセローナに着いた。バルセローナの観光案内所に行き、駐車場付きホテルを紹介してもらった。この日は、635kmのドライブだった。バルセローナは、一方通行の道が多く、ホテルを紹介してもらったものの車でたどり着くのに苦労した。旧市街は道が狭くさらに難しくなるため、2日目は車はホテルに置きタクシーで出かけた。ドライブ時のナビゲーターは妻で、常にしっかりしていて問題なく目的地にたどり着けるのだが、この時とゲルニカ・イ・レノのみ例外だった。

バルセローナのホテルに3泊し、1日目は聖家族教会(Templo Expiatorio de la Sagrada Familia, Temple Expiatori de la Sagrada Família)、2日目にピカソ美術館(Museo Picasso, Museu Picasso)、シウダデーラ公園(Parque de la Ciudadela, Parc de la Ciutadella)とそこの動物園(Parque Zoológico, parc zoològic)で白いゴリラ(Copito de Nieve, Floquet de Neu 雪の小さな塊)を見て、別料金でイルカのショーを見た。ゴシック地区(Barrio Gótico, Barri Gòtic)、大聖堂(Catedral)、王の広場(Plaza del Rey, Plaça del Rei)、歴史博物館(Museo de Historia, Museu d'Història)を訪れ、ロープウエイ(Teleférico de Montjuic, Telefèric de Montjuï)に乗った。3日目は海洋博物館(Museo Marítimo, Museu Marítim)、カタルーニャ芸術博物館(Museo Nacional de Arte de Cataluña, Museu Nacional d'Art de Catalunya)、ミロ財団(美術館)(Fundación Joan Miró, Fundació Joan Miró)を見学した。海洋博物館からミロ財団(美術館)へ行くのにモンジュイック(Montjuic / Montjuich. ムンジュイック, Montjuïc)の丘へ登るケーブルカー(Funicular de Montjuic, Funicular de Montjuïc)を往復利用している。その後、グエル公園(Parque Güell, Parc Güell / Park Güell)に行った。4日目にホテルをチェックアウトしてから、スペイン村(Pueblo Español, Poble Espanyol)(この日、マヨール広場でサルダーナ(sardana)大会が開催されていて見学することができた)、遊園地(Parque de Atracciones de Montjuic Parc d'atraccions)へ行った。

(C) 1984 Setsuko H.バルセローナ動物園の白いゴリラ(Copito de Nieve 雪の小さな塊)
他のゴリラと同じ檻の中にいたが、1頭ポツンと離れていて存在感があった。
1963年か64年生まれ、赤道ギニアで捕獲、1966年にこの動物園に連れてこられ、2003年11月に死去した。


(C) 1984 Setsuko H.


(C) 1984 Setsuko H.スペイン村(Pueblo Español)で見たサルダーナ大会


 遊園地で開園を待って大勢の現地の人たちの行列にいた時に、現地の人たちの話の中でこの日からサマータイム(horario de verano, horari d'estiu)が終わったことを知った。だから開園時間が実質1時間遅くなっていたのである。現地の人たちもこのことを知らないで行列を作っていたことに驚いた。サマータイムの弊害の一つを実感した。遊園地の後、港に行って、サンタマリア号(Santa María レプリカ)乗船、コロンブス像(Monumento a Colón, Monument a Colom)の外観などを見学し、レストラン・ロス・カラコレス(Los Caracoles カタツムリ)でカタツムリ料理(caracoles)の昼食を食べた。提供されたパンもカタツムリの形だった。有名店だけあって料理はとてもおいしかった。その後、モンセラートまで車を走らせた。

モンセラート修道院(Monasterio de Santa María de Montserrat, Monestir de Santa Maria de Montserrat)に着いた時は、既に時間が遅かったため、内部の見学はできず、外観だけを見て、山を降り、ふもとにあったホステル(hostal)に1泊した。
 マドリードに帰る途中、レリダ県の県都レリダ(イェイダ Lérida,, Lleida)市の旧大聖堂(Catedral de la Seo Antigua / Catedral vieja de Lérida, Seu Vella de Lleida)、サラゴサ県のカラタユ(Calatayud)市の聖アンドレス教会(Iglesia de San Andrés)に寄り、マドリードに帰ってからハイパーマーケット・プリカ(hipermercado PRYCA)で食料品の買出しの後、帰宅した。全部で1372kmのドライブであった。

(C) 1984 Setsuko H.


サラゴサ県カラタユ市の聖アンドレス教会


<注>
2003年8月に旅行し、見聞したことと、旅行前後に調べたことを書いた。 1984年の旅行も概略を書いた。 以下の文献、サイトを参照した:
田尻陽一『エリアガイド海外32 スペイン』昭文社,2001.
立石博高・奥野良知『カタルーニャを知るための50章』明石書店, 2013
『スペイン・ポルトガルを知る事典』平凡社,1992
http://palauguell.cat/
https://whc.unesco.org/
など。
カタルーニャ語固有名詞のカタカナ表記は、長谷川信弥「カタルーニャ語の発音とカタカナ表記」(立石&奥野『カタルーニャを知るための50章』明石書店, 2013, pp.57-58)に従った(つもり)。
(1) ここでは1979年のカタルーニャ自治憲章(Estatuto de autonomía de 1979, Estatut d'Autonomia de Catalunya de 1979の3条を紹介した。
スペイン語(カスティーリャ語):
http://web.gencat.cat/es/generalitat/estatut/estatut1979/
カタルーニャ語:
http://web.gencat.cat/ca/generalitat/estatut/estatut1979/
2006年には改訂されていて、カタルーニャ語についてより一歩進んだ規定(6条, 第3章32条, 33条, 34条, 35条)になっている。
Estatuto de autonomía de Cataluña (2006)
http://web.gencat.cat/es/generalitat/estatut/estatut2006/
Estatut d'Autonomia de Catalunya de 2006
http://web.gencat.cat/ca/generalitat/estatut/estatut2006/
第3章は、言語の権利と義務(Capítulo III. Derechos y deberes lingüísticos)というタイトルで2つの公用語が平等に使用できるよう規定している。33条では、自治州の公的機関のみならず、スペイン国の出先機関でも2つの公用語を同等に扱うよう規定し、34条で消費者にとっての言語を扱い、35条で教育におけるカスティーリャ語より優位な形での使用を規定している。
ただし、スペイン国の憲法裁判所(Tribunal Constitucional)が2010年の判決で言語に関する条項を含む14の条項を違憲とし、26の条項の解釈変更している。
この判決を含むスペインの中央政権が進める中央集権化への反発からカタルーニャでは、市民の間から広範な抗議活動が沸き起こり、最近の独立をめぐる中央政権と自治政権と対立の元となった。
奥野良知「カタルーニャにおける独立志向の高まりとその要因」『愛知県立大学紀要.地域研究・国際学編』2015,47,129-166.
https://es.wikipedia.org/wiki/Sentencia_del_Tribunal_Constitucional_sobre_el_Estatuto_de_Autonom%C3%ADa_de_Catalu%C3%B1a_de_2006

(2) カタルーニャのモデルニスモとは、フランスのアール・ヌーボーなど19世紀から20世紀のヨーロッパの建築・芸術様式の一端を担いつつも、イスラム建築などの要素を取り入れたカタルーニャ独自の要素を含む様式である。

(3) バルセローナの観光スポットといえば、アントニ・ガウディによる建築や庭園などが必ず含まれる。現在7つの作品が「アントニ・ガウディの作品群」(Obras de Antoni Gaudí, Obres d'Antoni Gaudí)の名称でユネスコ世界遺産(1984, 2005)に登録されている。グエル公園(グエイ公園)、グエル邸(グエイ邸)、カサ・ミラ(Casa Milá, Casa Milà)の3つが1984年に登録、2005年にカサ・ビセンス(Casa Vicens)、聖家族教会のガウディ作生誕のファサードと地下聖堂(la fachada de la Natividad y la cripta, Façana de la Nativitat i cripta de la Sagrada Família)、カサ・バトリョ(Casa Batlló, Casa Batlló)、コロニア・グエル(Colonia Güell, コロニア・グエイColònia Güell)教会の地下聖堂(cripta)が追加登録された。

(4) https://es.wikipedia.org/wiki/Portal_Miralles
http://meet.barcelona.cat/es/descubre-barcelona/distritos/sarria-sant-gervasi/puerta-de-la-finca-miralles

(5) http://www.sitiosdebarcelona.net/2012/08/pabellones-guell
https://es.wikipedia.org/wiki/Pabellones_G%C3%BCell

(6) https://www.barcelona.com/es/directorio_de_barcelona/monumentos/palacio_de_pedralbes


※写真はいずれも2003年8月と1984年9月スペインにて撮影 [©1984 & 2003 Setsuko H.]
2018/8/22.- 2020/7/1.


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