表紙 > 旅行記目次 > ブルゴス大聖堂編

スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

スペイン(5)   ブルゴス大聖堂 編

堀田英夫

アリカンテに3泊した後、アリカンテから国内便でマドリードへ飛んだ。10:25発で、11:45にはマドリードの空港を出た。長年のペンフレンド(1)MCさんのお姉さんが空港に迎えに来てくれていた。重い荷物を引きずりながら、地下鉄で一度乗り換えし、お姉さんのマドリード市内高級マンションの自宅に行った。昼食をご馳走になり、娘さんと息子さんへの浴衣など皆におみやげを渡し、着付けを教えたりした後、しばらく待ってから、ご主人に車でバスターミナルへ送ってもらった。17時発のバスでブルゴスへ20時少し前に着いた。バスターミナル近くのネットで予約してあった4つ星ホテル(Hotel Fernán González)(2)へ歩いて行ってチェックインした。荷物がある時は、タクシーを使うのが原則なのだが、近すぎてタクシーを使うのははばかられた。

ブルゴス(Burgos)は、カスティーリャ・イ・レオン自治州(La Comunidad de Castilla y León)ブルゴス県(Provincia de Burgos)の県都である。10世紀にはカスティーリャ伯爵領(Condado de Castilla)の首都、やがてカスティーリャ王国(Reino de Castilla)とレオン王国(Reino de León)の首都となった。サンティアーゴ巡礼路(Camino de Santiago)の交差する町で、巡礼者をもてなす施設が作られた。カスティーリャの中心として、また、北ヨーロッパとの交易の拠点、特にカスティーリャ地方で生産される羊毛(lana)の交易の拠点として繁栄した。商取引上の訴訟を扱う商取引裁判所(Consulado del Mar)も設置された。カトリック両王(los Reyes Católicos)およびカルロス1世(Carlos I)の治世の15世紀、16世紀がブルゴスの最盛期だそうである。

歴史上11世紀に実在していた人物を主人公とした、13世紀の叙事詩「わがシッドの歌」(Cantar de Mio Cid)(3)には、ブルゴスとその近郊の地名がいくつか出てくる。主人公エル・シッド(El Cid)こと勇者ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar el Campeador)の出身地はブルゴスから北約10kmのビバール(Vivar)である。カスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI)から追放の命を受けたエル・シッドが、カスティーリャを出る前にブルゴスの町中に宿を取ろうとして、王命が出ていたため拒まれてしまう。ブルゴスを出る前に聖マリア大聖堂(Santa María)で祈りをささげる。ブルゴス近郊のサン・ペドロ・デ・カルデーニャ修道院(Monasterio de San Pedro de Cardeña)に妻と2人の娘を預け、エル・シッド達は、カスティーリャの領土を出る。このようにブルゴスはエル・シッドのゆかりの地であり、騎馬像(Estatua del Cid)などが町中に置かれている
 マドリードに1年滞在していた時、1984年6月にレンタカーでスペインの北部を旅行した際、ブルゴスに3泊しているので、2度目の訪問である。

ブルゴス大聖堂

ブルゴスに着いた翌日、朝9時ごろホテルを出て、我々2人で、歩いて聖マリアの城門(Arco de Santa María)を通り、ブルゴス大聖堂へ行った。聖マリアの城門は、中世において市壁で囲まれたブルゴス市へ入る12の城門のうちの一番大きな表門であった。16世紀に再建され、カルロス5世を中心とするブルゴス市とカスティーリャの歴史上重要な人物の彫像が掲げられている。お城であるかのような外観で、内部には、18世紀までブルゴス市議会(Concejo de Burgos)の会議場だった部屋などいくつか部屋があるらしい。
 大聖堂は、まだ切符売り場(taquilla)が開いていない。切符売り場が開く9時半までまって、10時15分からのガイドツアーを予約した。拝観料1人3ユーロ(euro)、ガイド料1人1.5ユーロである。ブルゴス聖マリア大聖堂(la Catedral de Santa María de Burgos)は、これ一つの建物で、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。フランス・パリで大きな大聖堂が建設されたのと同じ頃、13世紀に建築が始まり、15世紀も建築が続けられ、16世紀に完成したゴシック様式の壮大な教会である。
 4つある入り口の内、南側のサルメンタルの扉(Puerta del Sarmental, sacramental(秘跡の)からか?)が入り口になっている。「荘厳」「壮麗」ということばがぴったりの大きな教会である。入り口の扉の上にも、キリストや12使徒などの彫刻がぎっしりと飾られている。中は暗く寒い。まっすぐ行くと十字架形で縦と横が交差する中心である翼廊(crucero)に行く。床に、新しそうな表面に名前などが刻まれているロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールすなわち、エル・シッドとその妻ヒメナ(Doña Ximena)の墓がある。ドーム形の高い八角形の天井には明かりとりの役割を果たす窓がある。右手に主祭壇(capilla mayor)があり、その先に彫刻がびっしりの飾り壁(retablo)がある。主祭壇の後ろの飾り壁の裏にも彫刻があり、周步廊(girola)となっていて、いくつかの礼拝堂(capilla)につながっている。翼廊から十字架形の足のほうの身廊(nave principal)に、柵で囲まれた部屋があり、合唱の座席(sitiales del coro)がある。座席の上も浮き彫りがあり、上下2段になっていて下段が新約聖書、上段が旧約聖書の場面を表しているとのこと。宗教画があちこちに飾られていて、窓にはステンドグラスがはめられている。平面図を見ると側廊の外側などは多くの礼拝堂が取り囲み、南東には、中庭のある回廊(claustro)がありその東側にも礼拝堂が並んでいる。全体として非常に大きな建物である。

(C) 2003 Setsuko H.サルメンタルの扉の面


 宗教的、また芸術的な価値とは別に、観光客の興味を引くのは、パパモスカス(Papamoscas)と呼ばれる機械人形と、エル・シッドの櫃(ひつ)である。
 パパモスカスは、大聖堂の西の扉近く、身廊の上方15mの高さのところにある時計から上半身を出しているユーモラスな姿の人形で、毎時ちょうどに右手で鐘の舌を揺らして、時間の数だけ鐘を鳴らす。その時口を開けるので、昆虫を取るのに口を開けるマダラヒタキ(papamoscas cerrojillo Ficedula hypoleuca)という鳥の名からパパモスカスという名で呼ばれるとのことである。 時計は中世からこの大聖堂にあったという記録があるが、現在の機械人形は、それまであった16世紀のものを18世紀に取り替えたとのことである。
 エル・シッドの櫃は、南東にある回廊(claustro)に面した聖体祭礼拝堂(Capilla del Corpus Christi)の上方の壁に名札(“COFRE DE EL CID”)(叙事詩では“arca” 85行)と共に掲げてある。カスティーリャを追放されるエル・シッドが、ブルゴスのユダヤ人ラケルとビダス(Raquel y Vidas)から、お金を借りる際、担保として提供した櫃とのこと。砂で満たし、1年間櫃を開けて中を見てはいけないと言って、黄金で詰まった櫃と偽ったものである。『わがシッドの歌』には、ラケルとビダスが、利息(叙事詩綴: “ganançia” > 現代語綴: ganancia)はいいから元金(“cabdal” > caudal)だけでも返してくれるよう懇願する場面(1431-34行)は出てくるが、返済したとはどこにも書かれていない。不労所得者としての貸金業者への反感から返済しないことを良しとしていたのかもしれない。エル・シッドを英雄とするブルゴスの人たちの中には、返済したと信じている人もいる。
 10時15分からのガイドツアーは1時間半だった。


ブルゴスは、食品産業と自動車産業が盛んな土地だそうである。大聖堂の見学の後、友人MCが働いている大きなハム工場(Campofrío)へタクシーで行き、MCに会い、彼女が予約しておいてくれた工場見学に参加した。加熱処理したハム(jamón cocido)の工場である。かなり大勢のグループ(バレンシアの年金生活者グループとか)と一緒に見学者用白衣を着て、白い帽子を被り、建物内の高いところからガラス越しに作業しているところを見た。最後は、試食で、ワインもあり、十二分に試食できた。見学終了後は、会社のバスでMCの家まで帰った。その後、入院中のMCのお父さんを赤十字病院(Cruz Roja)に見舞った。また午後9時30分過ぎからMCの友人たち12人と一緒にバル・ハモン・ハモン(Bar Jamón Jamón)で夕食を食べ、かなり遅くまで付き合った。早寝早起きの我々夫婦の習慣は、スペイン人との付き合いでは、変えざるを得なかった。ホテルに帰れたのは日付が替わって午前1時近かった。


<注>
2003年8月に旅行し、見聞したことと、旅行前後に調べたことを書いた。 以下のパンフレットやサイトを参照した:
Ruta de Burgos y su alfoz, Patronato de Turismo de la Pronivia de Burgos, 2003.
Burgos, Ayuntamiento de Burgos. s/f.
https://whc.unesco.org/en/list/316
https://burgospedia1.wordpress.com/2010/04/28/el-cofre-del-cid/
など。

(1)  大学でスペイン語を勉強し始めた頃(1968年)、同級生の1人がブルゴスの地元新聞にスペイン語の勉強のために現地の人とスペイン語で文通をしたいと手紙を書いた。何通かの手紙が来て、全てに返事を書けないからと、その中の一通を筆者に渡された。それが長年のペンフレンドMCさんとのつきあいの初めだった。昔は手書きの手紙を航空便で送ると一週間から10日ぐらいで先方に着き、すぐに返事をくれてもこちらが書いてから約3週間は経っていた。インターネットのメールを使い出すと、返事がすぐ来ることもあって、律儀に返事をすることはなく、適当な間をおいて書くようにしている。
 彼女がパッケージ旅行で日本に来た時は、妻と赤ん坊だった上の子と共に京都へ会いに行った。1984年-85年にマドリードに1年間滞在した時には、ブルゴスとマドリードで何度か会った。この2003年の旅行でも、ブルゴス滞在中はいろいろ手配をしてくれていて、彼女が仕事を休める時は、行動を共にした。「愛・地球博」の見物のため2005年に来日した時は、我が家に19日間滞在し、その間妻がずっと付き添った。スペイン語しか話せないため、1人で行動したがらなかったためである。万博(3回)、バスツアーを利用し、京都、奈良、高遠の桜見物に行ったり、愛知、岐阜の見所へ連日のように案内した。

(2) ホテルの名前、フェルナン・ゴンサレス(Fernán González ? - 970)は、930年ごろ初代カスティーリャ伯となり、それまでレオン王国の支配下にあったカスティーリャを事実上独立させた人物である。
 ホテル料金は、日本からネット予約した特別価格で、2名ビュッフェ朝食付き、1泊1室で82.5ユーロ(euro)+IVA7%だった。(4泊でカード決済48441円であった)

(3) 和訳は『エル・シードの歌』長南実訳,岩波文庫,1998、『わがシッドの歌』牛島信明・福井千春訳,国書刊行会などがある。原文は、ラモン・メネンデス・ピダル(Ramón Menéndez Pidal)の版(1908-11)など長南訳の凡例(p.5)に数種があげられている。
 8世紀から1492年までイベリア半島で繰り広げられた再征服(reconquista)戦争で活躍したキリスト教徒の英雄を描いた叙事詩なので、基本的には、敵はモーロ人(moro)(イスラム教徒)ではあるが、物語でも史実でも、必ずしもすべての戦いでこの対立が描かれているわけではない。
 バルセローナ伯が保護国としていたモーロの王国へエル・シッドが侵入したことで、キリスト教徒である伯は、モーロ人とキリスト教徒からなる軍勢を率いてエル・シッド軍に戦いを挑み敗れてしまう(957-1009行)。
 モリーナ(Molina)の城主でモーロ人のアベンガルボーン(Avengalvón)はエル・シッドの忠実な同盟者として描かれている。バレンシアを征服したエル・シッドのもとへエル・シッドの妻と娘2人をブルゴスの修道院からバレンシアへ連れていくのに護衛を提供している。(1494-1559行)
 史実では、追放後、数年間はサラゴサのエミール(emir イスラム王国の首長)の下で、戦っていたそうである。
 宗教や民族の違いで敵味方を峻別するのは、普通の人を戦いに駆り立てる意図を持った者の計略である。そのような者にとって都合が良い時にのみ宗教や民族が利用されて敵対関係が作られてしまうのだと思う。


※写真は、2003年8月スペインにて撮影 [©️2003 Setsuko H.]
2018/9/11. - 2020/5/7.


© 2018 - 2020 HOTTA Hideo