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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

ペルー(1) ナスカ地上絵編

堀田英夫

2008年1月にペルー6泊6日の旅に夫婦で行った。移動と日付変更線で3日かかり、全部で9日間の日程である。日本からアメリカ合衆国ヒューストンで乗り継いで、リマ市のホルヘ・チャベス国際空港(Aeropuerto Internacional Jorge Chávez)に深夜到着し、日付がかわり午前1時過ぎにリマ市(Lima)のホテルに入った。チャベスという名前は、ベネズエラの前大統領、故ウゴ・チャベス(Hugo Rafael Chávez Frías 1954 - 2013)で日本にも知られているけれど、この空港の名前となっているのは、別の人物ホルヘ・チャベス(Jorge Chávez Dartnell 1887 – 1910)である。初期の航空史上に名を残した1人で、フランスでペルー人両親のもとに生まれ、1910年に世界で最初に単葉機(主翼が1枚の飛行機)でアルプス越えをした人だそうである。

ナスカ地上絵 Líneas y Geoglifos de Nasca y Palpa

リマ市内のホテルでほとんど寝る間もなく、朝5時のモーニングコールで起こされた。再び空港に連れていってもらい、比較的小さな双発のプロペラ旅客機でイカ市(Ica)へ飛んだ。砂漠地帯の中にあるイカのラス・ドゥナス飛行場(Aerodromo las Dunas 砂丘)に着陸した。飛行機から出て、待ったり、何人かのいろいろな国からの観光客と混じって室内でビデオ映像を見せられたり、説明を受けたりした。説明は、スペイン語、英語、また日本人観光客へのおもてなし用に丸暗記したと思われる日本語であった。ペルー文化庁イカ地方局(Instituto Nacional de Cultura - Región Ica)発行の地上絵上空を飛ぶための入場券の裏にも、スペイン語、英語が活字で、さらに手書きで書かれた日本語が印刷されてい(1)。日本人がよく訪れているからなのか、あるいは、山形大学などの日本によるナスカ研究への貢献に敬意を表しているからなのかと思った。
 しばらく待った後、セスナ機に案内され乗り込んだ。我々2人の他に若い白人のカップル計4人が乗客である。白人男性はなぜか連れの女性に配慮することなく、ちゃっかりと1人で助手席に座った。我々はパイロットと男性の後ろの2列目座席に座ったので、女性は3列目、一番後ろの席だった。パイロットとその右の助手席の間には、活字でスペイン語:“Las propinas son bienvenidas”(チップ歓迎)、英語、イタリア語、ドイツ語で同じ内容が書かれていた。そして外国人が書いたと思われる手書のひらがならしき字で「ちっぷありがとうございます」とかろうじて読める紙が掲示してあった。9時40分にようやく動き出す。このイカの飛行場と地上絵のあるところとは、かなり離れているようで、30分ぐらい砂漠地帯の上空を飛行した後、地上絵のあるところの上空へ来た。パイロットは英語で話すがセスナ機のエンジン音を防ぐためヘッドフォンを通しての説明で聞き取りにくかった。
 地上絵のあるところの上空では、セスナ機の窓を通して、細長い三角形、宇宙飛行士(astronauta)とも言われている人物像、ハチドリ(colibrí)、猿(mono)、蜘蛛(araña)、鯨(ballena)など、窓を下に向けていくつかの図形を見せてくれた。かなり下に展望台やバスが小さく見えるのと比べると、地上絵がとてつもなく大きく描かれていることがわかる。千数百年から2000年以上も前の人たちがどんな思いでこのような絵を描いたのだろうか。しかし、左右の座席の乗客のために左右それぞれの窓を下に向けるため、何度も左に右にと揺らしてくれ、とても快適な飛行とは言えず、じきに気分が悪くなった。妻は酔い止めの薬を事前に飲んでいたにもかかわらず気分が悪くなったと言っていた。パイロットが「見学を終わり飛行場に帰る」と言った時には、正直ほっとした。

(C) 2008 Setsuko H. 展望台(mirador)とその周りの地上絵が見える。展望台の向こうにはバスが停まっている。


(C) 2008 Setsuko H. 地上絵ハチドリ


ナスカの地上絵は、「ナスカとフマナ平原の地上絵」(Líneas y geoglifos de Nasca y Pampas de Jumana)という名称で1994年にユネスコの世界遺産として登録されている。2016年にペルー政府の申請で、「ナスカとパルパの地上絵」(Líneas y Geoglifos de Nasca y Palpa)と改称された。ナスカ郡(Provincia de Nasca)だけでなく、隣接するパルパ郡(Provincia de Palpa)にも地上絵が集まっている所があるからとのことである。
 地上絵は、海岸近くの乾燥した平原のグランデ川(Río Grande)流域中央部の約500km2の広さのキャンパスに描かれている。暗赤褐色の岩で覆われている平原で、岩を部分的に取り除くことで、明るい色の下の層を露出させることによって線を描くことができる。また雨がほとんど降らない地域のため、描かれた線が何百年も消えずに残ったのである。
 図形には、様々な動物、鳥、昆虫や、花や木などの植物を図式的に描いたものと、直線の三角形や長方形、渦巻きや波線などがある。パラカス文化(Paracas)が栄えた紀元前600年から同100年頃に始まり、次のナスカ文化の時代、紀元前100年から紀元後750年頃に最も見事な地上絵が描かれたと、現地でもらったペルー文化庁イカ地方局(Instituto Nacional de Cultura - Región Ica)のパンフレットには書いてあった。何の目的でこのような巨大な地上絵が描かれたのかについては、天文学に関連しているとか、雨乞いの儀式のためとか、今までいくつかの説が出されているけれども、まだ謎のままのようである。

ウアカチナ・オアシス El oasis de Huacachina

セスナ機から降りてから色々な国籍のグループ客と一緒に、バスに乗って、イカ市のツアーに行った。10分ほどでウアカチナというオアシスへ着いた。周りは砂漠あるいは砂丘地帯なのだが、ヤシの木などの緑が生い茂った一角が見える。そちらへ進むと樹木の中に湖があり、その周りには土産物店などの建物が建っている。水辺に沿った散歩道もきれいに整備されている。水は鶯色の茶色系統を濃くしたような色で、それほど美しくはない。案内をしてくれた人から、かつてと比べて水質が悪くなってきたとの話しを聞いた。舟遊びをしているらしい小船が何艘か浮かんでいる。湖畔から外側を見ると木々の間から砂丘が見える。砂丘の方へ行くと何台かのサンド・バギーを並べているレンタル業者もいた。

(C) 2008 Setsuko H. 地上絵を見に行ったセスナ機から見えた砂漠地帯の中のウアカチナ・オアシス


(C) 2008 Setsuko H. ウアカチナ・オアシス


湖のまわりの遊歩道の一角に、ペルーの詩人ホセ・サントス・チョカーノ(José Santos Chocano 1875–1934)の作とあるウアカチナ(Huacca China)と題した詩が掲げられてい(2)。詩は全文大文字で書かれていて句読点がよくわからないけれど、概ね次のような意味である。

歌を歌うと誰もが泣いてしまう1人の金髪の王女がいた。皆がウアカチナと呼んだ。(ケチュア語で)「泣かせる女性」(“la que hace llorar”)と名付けたのである。ある時、砂に穴が開き、きれいな水で満たされた。王女は裸になり水浴びをした。シーツだけをまとい出てきて手鏡を見ていると、1人の狩人が後から見ていることが鏡でわかって、彼女はあわてて茂みを飛び越えて逃げた。手にした鏡が落ちて割れ、湖になり、はだけて飛んだシーツが砂丘になった。また王女は人魚になり、月夜に出てきて昔の歌を歌う。

 最初に砂の上に泉がわいたと述べつつも、後の方で湖と砂丘の誕生伝説となっている。ウアカチナという地名と、砂漠の中のオアシスの不思議さとを結びつけた詩と思われる。湖畔には等身大の人魚像もあった。

イカ地方博物館 Museo Regional de Ica

オアシスを後にして、博物館を見学した。Museo Regional de Ica Adolfo Bermúdez Jenkinsという名前で、アドルフォ・ベルムデス・ヘンキンス(あるいは、ジェンキンスか)という人は、この博物館の創設に尽力し初代館長を務めた人のようである。パラカス(Paracas)、ナスカ(Nasca)、ワリ(Wari)、インカ(Inca)の各文化の出土品を展示する考古学室(Arqueología)と、埋葬習慣、人工頭蓋変形、頭蓋骨穿孔術、人骨などを展示する生物人類学室(Bioantropología)がある。先インカ期のパラカスやナスカで、頭蓋変形や頭蓋穿孔術が行われていたそうである。土器の文様には、地上絵と似たような図形があり、両者とも同じ文化の担い手が作成したのだろうと想像し(3)
 博物館見学後、午後1時近くに、ラス・ドゥナス・ホテル(Hotel las Dunas)で昼食となった。ペルー料理も含むビュッフェであった。席は屋外にもあったが、我々は、タバコの煙の心配の無い屋内の席に座った。

(C) 2008 Setsuko H. ラス・ドゥナス・ホテルの昼食


昼食をとったホテルは、緑の芝が広がる広大な敷地を有していて、プールはもちろんのこと、テニスコートやサッカー場などがあった。乗馬用の馬を飼っている馬場もあった。食事後、広い敷地内をしばらく散策した。同じく散策するアルパカ(alpaca)やニワトリの親子などに遭遇した。

(C) 2008 Setsuko H. 敷地内にいたアルパカ


午後3時近くに飛行場に戻り、空路リマに戻り、リマのホテルに連れて行ってもらってその日の日程を終えた。

(C) 2008 Setsuko H. 飛行場へ戻る途中



<注>
2008年1月に旅行し、見聞したことと旅行前後に調べたことを書いた。

(1) 入場券の裏の表記、スペイン語は、LOS FONDOS RECAUDADOS SERÁN DESTINADOS PARA LA CONSERVACIÓN Y RESERVACIÓN DE LA PAMPA DE NASCA Y EL PATRIMONIO CULTURAL DE LA REGIÓN DE ICA.(集められた資金は、ナスカ平原とイカ地方の文化遺産の保護保全のためです。)とある。英語もほぼ同じ内容であるが、手書をコピーした日本語は「集めたお金は、私たちの文化を知ってもらうために使われます。」とあり、「保護・保存」の意味が消えている。
 入場券には、1人11ソル(sol)と表記されている。実際に払わされたのはドルで、2人8ドルを払った。
 ちなみに国際線の出入国税各種は日本でまとまった金額を支払っていたが、国内線の空港および飛行場使用税は、現地で払う必要があった。この日は、リマからイカへのフライトで、リマ空港国内線出発空港税6.05×2人で12.1ドル、イカ飛行場利用料着陸で7×2人で14ドル、離陸で同額7×2人で14ドルの支払いである。これらの金額は、事前に聞いていた金額より値上がりしているのもあった。
 ナスカのスペイン語綴り字にはNascaとNazcaがある。クスコの綴り字もCuscoとCuzcoがある。クスコについて、Real Academia EspañolaのDiccionario panhispánico de dudas(2005)によるとペルーではCusco、それ以外のスペイン語圏ではCuzcoが使われるのが普通とのこと。インカ帝国の征服者Francisco Pizarro(1478 - 1541)も手紙の中でCuscoとCuzcoの両方の綴りを使っているようである。
 2013年11月12日のペルー国会で、1855年6月25日の政令に含まれるNascaの綴りを復活させることが決議されている。
 現代イベリア半島北部スペイン語で、Sは舌先音(apical)[s]、Z, Ce, Ciの子音は歯間音[θ]と区別される発音である。イベリア半島南部および南北アメリカではS, Z, Ce, Ciの子音を区別無く[s]と発音してる。16世紀にインカ帝国のスペイン人征服者らがこれらの文字をどのような発音と結び付けていたのかは、調べる必要がある。先住民のケチュア語に歯間音[θ]が無かったらしいので、歯間音[θ]を表すためにZを使ったわけではないはずである。Zが[s]、Sが[s]の発音の可能性があり、ケチュア語の[s]をZで表記した可能性もある。この例として、ケチュア語sapálluが語源とされるアンデス地域などのスペイン語zapallo(カボチャ)がある。
 歯擦音の歴史について、拙著『スペイン語圏の形成と多様性』朝日出版社, 2011の「アンダルシア方言とseseo(s音使用)」(pp.163-184)で扱っている。

(2) 意味解釈から次のように小文字にし、アクセント符号と句読点を付けてみた。“china”はケチュア語で「女性、娘、雌」といった意味である。

           Huacca China
La princesa rubia canta de manera
que no hay a quien no haga llorar su canción.
Conócenla todos por la “Huacca China”.
(le han puesto por nombre la que hace llorar)

Cierta vez el hueco que ha abierto en la arena
ante el algarrobo, de aguas limpias llena.
Y en ellas sumerge su blanca y serena
desnudez que pide firma de escultor.

Sale de su baño palpitante y fría,
se envuelve en la sábana, en que todavía
resaltan las curvas de su gallardía,
Y al verse en su espejo, descubre un espía,
ya que a espaldas de ella surge un cazador.

La sábana a poco quedose enredada
en un ágil brinco por sobre un zarzal.
La princesa en fuga siguió desolada
y mientras corría sin fijarse en nada
la sábana abierta se hizo un arenal.

La princesa huía con su espejo en alto.....
El zarzal cruzola.... Dar quizo ella un salto,
tropezó .... del puño, ya de fuerzas faltó.
Se escapó el espejo... ¡fue una conmoción!
Y el espejo roto se volvió laguna,
y al fin la princesa transformose en una
sirena que hoy sale las noches de luna,
a cantar a veces su antigua canción.
                      José Santos Chocano


(3) 『失われた文明 インカ・マヤ・アステカ展』2007, NHK, p.30の「アンデス文明略年表」によると、パラカス、ナスカは、地上絵のあるペルーの南海岸地域の文化で、前者が紀元前1500年から紀元前300年頃、後者がそれに続き、紀元後700年頃の文化としている。ワリは、中央高地と南高地地域で、紀元後500年から900年の文化である。インカは、紀元後1200年頃から南高地で起こり、1400年代の中ごろアンデス地域全体にひろがったインカ帝国の文化である。


※写真はいずれも2008年1月ペルーにて撮影 [©️2008 Setsuko H.]
2018/4/4 - 12/17.

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