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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

ペルー(6) ピサックの市場編

堀田英夫

マチュピチュ見学の翌日の朝、クスコのホテルから車でピサック(Pisac)へ向かう。

道路わきには緑の畑や茂った木々が立っている。ところどころ赤茶色の屋根の家がある。同じ色の土壁で囲まれた家もある。
 しばらく行くと、道路わきで地元の人達二、三十人が道路沿い排水路?の補修のための共同作業をしているところを通った。女性も含まれている。向こうにサッカーゴールの枠らしきものが見えるので、村の運動場のための土木作業だろうか。インカ時代に人々が領主に労働力を提供して農作業や道の整備などの共同作業をしていたというミタ(mit'a)という制度を連想し(1)

(C) 2008 Setsuko H. クスコからピサックへ向かう道中にて


 しばらく走った後、谷間が見渡せる道端で景色を見るため停まった。かなり下の谷底には遠くから川が流れ、緑豊かである。トウモロコシと思われる畑も小さく見える。山々の高いところは草がある程度で、山によっては土色になっている。茶色の山々と緑の谷という景色である。車を停めた道端は、展望地点のようで、地面に土産物を並べている地元の女性や子供が数人いる。バスや車で寄る観光客相手である。
 ピサックの村(標高2970m)を一望する展望台でも停まり、村を眺望する。村の向こう側の山には段々畑(andenes)だろうか、遺跡が見える。村の中を見ると、白いテントが集まっているところがある。村に行ってからわかったのだが、白いテントは、民芸品や食料品を売る屋台である。中央広場を埋めつくし、広場の外の道路にも続いている。

(C) 2008 Setsuko H. ピサックの村を一望する。手前をウルバンバ(Urubamba)川が流れている。中央右の方に白くL字に見えているあたりを中心に市場がある。


市場 (mercado)

ウルバンバ川にかかる鉄橋を渡り、村に入る。車を降り、中央広場まで案内してもらう。日曜日のためか、かなり賑わっている。広場は石畳の上に、屋台や露店で食料品などの商品を並べ、歩く通路が狭くなっているところもある。いろいろな種類のジャガイモやトウモロコシ、マンゴーやリンゴなど多彩な種類の果物、野菜、米や塩などの食料品がある。珍しいところでは、色鮮やかな染料の粉を扱っている店がいくつかある。服、帽子、ベルトなど現地の人向けの衣料と観光客用の織物などの民芸品を売っている店が多い。商品を見て回っているのは、観光客だけでなく、買い物に来ている現地の人たちもかなりいる。広場の周りには、2階にテラス席のある英語の看板を掲げたカフェなどの店がある。

(C) 2008 Setsuko H.


(C) 2008 Setsuko H.


(C) 2008 Setsuko H. 巨大なサヤインゲンに似たのはパカイ(Pacay)という果物。さやの中に、白いフワフワした果肉で包まれた黒色の種がある。水気があって甘い白いフワフワした部分が食用。買ってホテルで食べてみたけれど、虫食いだったのと熟し加減がはずれだったのかあまりおいしくはなかった。


(C) 2008 Setsuko H.


民族衣装を着た女の子が子羊を抱いて運んでいる


(C) 2008 Setsuko H.


村の教会

ガイドのサイディさんにしばらく案内してもらった後、12時15分に教会前で会うということで我々2人だけで散策する。教会はそれほど大きくはない。ここの教会ではケチュア語によるミサも行われるとのこと。

(C) 2008 Setsuko H. 村の教会でミサが行われていた。現地の人でない参列者もいるようだった。


バラヨク(varayoc)の一団

市場の中を、晴れの舞台で着るようなカラフルな民族衣装を着た一団が歩いていくのに遭遇した。伝統的な刺繍のきれいなポンチョ(poncho)を着て、耳覆い付きニット帽・チューヨ(chullo)を被っている。男性は杖(vara)、子供たちはほら貝(caracol)と杖を手にしている。女性もいる。その一団は、村の中にある屋敷の中庭に、整列して集まっていた。左側に杖を持った男性陣、右側にほら貝と杖を持った子供たち、中央に民族衣装の女性と洋服の男性2人を含む人たちがいる。屋敷の入口の壁には、スペイン語の賛美歌が貼ってあったので、この屋敷は宗教関係施設のようである。
 民族衣装の一団は、毎日曜日、教会でのミサのために集まってくる集落の役職者達で、教会の前でも整列し、ほら貝をならすそうである。屋敷の中庭に整列していたのは、教会から帰ってからの行事のようである。杖(vara)は地位の象徴であり、杖を持つ各集落の長は、バラヨク(varayoc)と呼ばれる。varaはスペイン語で-yoqは所有を表すケチュア語であ(2)。ほら貝(pututu)は、インカ時代チャスキ(継飛脚)が近づいたことを知らせるのに用いられた。現在は村落での宗教行事などに用いられているそうである。

(C) 2008 Setsuko H.


左側に並ぶバラヨク(村の長)達。手に権威の象徴の杖を持っている。先頭から3人までの杖は花で飾られていて、6人までの杖は黒塗りで、チューヨの上に独特の帽子を被っている。手前のバラヨク達の杖は、着色されていない。

(C) 2008 Setsuko H.


この時は独特の帽子を脱いで手にしている。

(C) 2008 Setsuko H. 正面


(C) 2008 Setsuko H. 右側に並ぶ子供たち。ほら貝と杖を持っている。


(C) 2008 Setsuko H. 入口から見守る人たち。参列している子供たちの親だろうか。


ピサックは、クスコ県(Departamento del Cusco)カルカ郡(provincia de Calca)に属する行政区(distrito)で、インカの聖なる谷(el Valle Sagrado de los Incas)の中でも重要なインカの考古学遺跡がある。遺跡は、山の上や斜面にあり、村落は、スペイン植民地時代にすぐ下の谷の平地に築かれている。今回は遺跡を見学することはできなかった。

(C) 2008 Setsuko H. ピサック村はずれの道。村の中の道は石畳で敷いてある。日干しレンガ(adobe)を積み上げて作られている家が多かった。


 教会前でサイディさんに会ってから、駐車場で車に乗り込み、ピサックを出た。ピサックを出る鉄橋のところで一度警官に停められたけれども何事もなく帰路に着いた。


<注>
2008年1月に旅行し、見聞したことと旅行後に調べたことを書いた。
Diccionario Quechua - Español - Quechua, Academia Mayor de la Lengua Quechua, Gobierno Regional Cusco, Cusco 2005: Segunda edición.
『ラテン・アメリカを知る事典』平凡社、1987.
などを参照した。
他のページと同じく、スペイン語はブロック体で、スペイン語以外の言語(ここではケチュア語)はイタリック体で表記した。単行本・雑誌タイトルをイタリックとする慣習に従っている部分は言語による区別とは別。

(1) スペインによる植民地時代には、インカ時代のこの賦役制度をまねて、農園や鉱山で先住民を一定期間強制労働させるミタ(mita)制度が行われた。先住民の成人男子のほとんどがこの強制労働に駆り出され、先住民の人口減少、伝統文化の破壊などの多大な影響を受けたとされる。

(2) 衣装がとりわけきれいに見えた。毎年1月1日には、バラヨクの交代式・杖の受け渡し式(Entrega de varas)が行われるとのことなので、1月中旬のこの日には、まだ着任したばかりのバラヨクたちだったのではないだろうか。https://www.101viajes.com/peru/festivales-fiestas-peru
Beatriz Pérez Galán (2008),"Alcaldes y Kurakas. Origen y significado cultural de la fila de autoridades indígenas en Pisac (Calca, Cuzco)", Bulletin de l'Institut français d'études andines, 37 (1), pp.245-255.によると、バラヨクが祭りなどで並んだり行進したりする序列が決まっている。ペルーのアンデス地方南部の多くのところで、wachu(surco de la siembra 種まきの畝溝(うねみぞ))という語でこの序列を含む役職者の制度を呼んでいるとある。農業用語から順番とか序列を暗喩している。バラヨクの制度は、インカ時代におけるアイユ(ayllu 共同体)の長である世襲制のクラカ(curaca, kuraka)に起源を持つ。植民地時代にクラカは、スペイン人支配層と地域先住民の間に置かれ、税の取立てと先住民からの要望を伝える役を担った。虐げられた住民による支配者への蜂起が、住民と近いクラカにより率いられることがたびたび起きた。ここピサックでもベルナルド・タンボワクソ(Bernardo Tambohuacso 1756-1780)というクラカが3000人以上の先住民を集め蜂起した。1780年のトゥパック・アマルー(Túpac Amaru 1741-1781)の大規模なクスコ蜂起より数ヶ月前のことだそうである。そのため、植民地統治者は、世襲制のクラカを廃止し、徴税のための役人(alcalde)を任命するようになった。バラヨクが並んだり行進したりする序列は、各バラヨクの治める集落の19世紀の納税者数の多さの順とほぼ一致することが示されている。
 稲村哲也『リャマとアルパカ』花伝社1995、p.115-116 には、ペルー南部のアレキーパ県(departamento de Arequipa)ラ・ウニオン郡(provincia de La Unión)プイカ行政区(distrito Puyca)の例で「バラヨフ」と書かれている。バラヨフは、植民地時代の地方行政組織のなごりで、公式の役人組織とは別の組織とのこと。祭りの際に杖を持って聖行列に必ず参列したりするなど、儀礼的な名誉職的な役割が重要となっているそうである。


※写真はいずれも2008年1月ペルーにて撮影 [©️2008 Setsuko H.]
2018/5/19.- 2020/7/11.

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