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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

ペルー(2) クスコ編

堀田英夫

ナスカ地上絵見学の翌日、この日も早朝に起き、リマ(Lima)から国内線で1時間半ほどのフライトでクスコ(Cusco)へ来た。高度が約3500m(クスコ市は3399m)で空気が薄い。クスコ空港で現地ガイドのサイディ(Saydí)さんに会い、この日以降5日間彼女に案内してもらった。日本語でのガイドができる方であるが、妻と2人だけだったため、こちらから頼んですべてスペイン語で案内してもらった。

サクサイワマン遺跡

空港はクスコ市の南東にあり、そこから車で30分弱でクスコ市北西近郊にあるサクサイワマン遺跡(Sacsayhuamán)へ行く。車を停めた道路からなだらかな斜面を登って、わりと広い平地に立つ。前方に巨大な石を組んだ壁が続いている。下の方は大きさの多少異なる石と石を削ってぴったりと積んだ壁になっているものの、上の方はでこぼこになっている。比較的小さい石を積み上げて補正してある部分もところどころある。壁は、まっすぐ横に続いているのではなく、ジグザクになっていて、丘の上の方へ3重の壁となっている。さらに丘の頂上には、石組みの建物の残りらしきものが見える。壁の途中に門がある。上に一枚岩の梁が渡されている門で、そこをくぐって上の方へ上がっていく石を積んだ階段がある。上の方も壁があるぐらいで、昔日の建物の面影はない。
 ペドロ・サンチョによって1534年に書かれた記録にサクサイワマンについて、次のような記述(1)がある。

市に面した側は絶壁で、一重の壁であるが、反対側は、坂がそれほど険しくなく、手前から奥へ段々高くなる三重の壁がある。壁は巨大な石で出来ていて、高さ約6.5mもの大岩もある。大きさはいろいろだが、小さいものでも荷車では運べないほどである。石造りの高い壁の間には土の部分があって、3台の荷車が並んで通れるぐらい広い。まんなかの円筒形の大きな塔の他、多数の塔が立っている。内部にはたくさんの部屋があり、砦全体が多数の武器や兵士の衣類を収納する倉庫であり、5000人が入れるほどの大きさである。

サクサイワマン(Saqsaywaman)は、ケチュア語でsaqsa「ゆがめられた」、uma「頭」、waman「鷹(タカ)」で、「鷹のゆがめられた頭」という意味だそうである。14世紀末から15世紀の始めにかけて、第9代インカ・パチャクテク(Pachakuteq)の指示により、数々の宗教儀式を行う施設として建設された。アンデスの世界観に基づく、太陽、光、稲妻、雷鳴、水、蛇、死者、人類の起源などに捧げられた神殿とのことである。しかしクスコ市北の丘の上(高度3700m)に位置していて、強固な石の壁で囲まれているためスペイン人征服者や年代記作者は城砦として見ていた。実際、1536年にマンコ・インカが蜂起し、クスコに立てこもるスペイン人を包囲した際、インカ軍は、このサクサイワマン砦を陣地とした。
 マンコ・インカによるクスコ包囲戦がスペイン人達により鎮圧されると、サクサイワマン砦は破壊され、砦の石がクスコの建物を作るのに石材として利用された。それにもかかわらず今も大きな石積みの壁がかなり残っているのに驚かされる。毎年6月24日(冬至)には、インティ・ライミ(Inti Raymi)すなわち太陽の祭が、ここサクサイワマンを舞台として行われるそうである。

(C) 2008 Setsuko H. サクサイワマン遺跡


(C) 2008 Setsuko H. サクサイワマンの石組み


(C) 2008 Setsuko H. サクサイワマン遺跡で咲いていた野の花


ケンコ遺跡

サクサイワマンから少し行ったところのケンコ遺跡(Qenko)を見(2)。ちょっとした半円形広場の円形部分のまわりに石組みがあり、直線部分の真ん中で岩の壁を背に、舞台あるいは祭壇であるかのように、腰より少し低い二段組で四角の形の石で囲まれたそれほど広くない舞台がある。囲いの中央にはわりと高い岩が立っている。別のごつごつとした岩の間を進み、地下の部屋に入ることができる。天井は斜めでそれほど高くない。岩をなめらかに削ってベッド、あるいはテーブルであるかのようにしたスペースがいくつかある。何らかの宗教儀式が行われた場所のようである。クスコ市より高い丘の上(高度3580m)にある。遺跡の名q'enqoはケチュア語「蛇行」あるいは「ジグザク」という意味で、この神殿は、石製の男根像で示される生殖、出産、婚姻に対する信仰に捧げられていたそうである。男根像なり、ジグザグに走る溝・水路を掘った石は、私たちは見ることはできなかった。舞台らしき中央の高い岩がそうであったのかとも思われるが、現在の形からはまったく想像できなかった。

(C) 2008 Setsuko H. ケンコ遺跡


(C) 2008 Setsuko H. ケンコ遺跡地下 凹形で、明るく見える部分が岩をなめらかに削った台


二つの遺跡見学の後、クスコ市内へ向かった。高台から降りる坂道の途中、車を停めて道端からクスコ市を眺望することができた。観光客が展望するスポットのようで、客寄せのアルパカがいて織物を織る民族衣装の女性もいた。山々で囲まれた盆地に位置するクスコ市の町並みは、ところどころ石造りの教会の塔が見られるもののほぼ同じ高さの家屋が一面に並んでいる。中庭を持つ四角の建物もある。建物や家々の壁の白さと赤茶色の瓦屋根が全体に広がっていて美しい。「クスコ市街」(Ciudad del Cusco)は、インカ帝国の首都だった町に、スペイン人征服者達が教会や歴史的建造物を建てた町として、1983年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。

(C) 2008 Setsuko H.


クスコ市の眺望 アルマス広場が中央に見える。

12角の石

ペルー料理のチュペ・デ・カマロネス(Chupe de Camarones 小エビのスープ)、メインにアルパカ肉のソテーなどの昼食をすませてから、クスコ市内観光をした。チュぺはケチュア語chupi起源の語で、肉、ジャガイモ、野菜、チューニョ(chuño 冷凍乾燥ジャガイモ)などのスープである。市内の道は石畳で舗装されている。12角の石が組み込まれているインカの石組みのある小道(Hatunrumiyoq)には多くの観光客や地元の通行人がいた。観光客用写真を撮らすためと思われるインカ皇帝らしき扮装をした人もいる。大きな石がきれいに積まれている石壁はインカのもので、それより小さな石があまりきれいには積まれていない壁はスペイン人によるものと話しかけてきた少年がいた。鉄器や重機がなかった時代に大きな石を隙間なく積んでいるのには驚かされる。12角の石がある壁の建物(3)、現在、宗教芸術博物館(Museo de Arte Religioso)で、以前は大司教館(Palacio Arzobispal)であった。第6代インカ・ロカ(Inka Roq'a 14世紀後半)の屋敷があったところで、12角の石の壁は、その当時のものとのこと。1438年に第9代インカ・パチャクテク(Pachakuteq)によって行われたクスコ市の再建にもかかわらず残った数少ない建造物の1つとのことである。小道の名前ハトゥンルミヨクHatunrumiyoq(hatun「大きい」、rumiyoq「石製の」 Lugar de piedras grandes 大きな石の所)は、インカ・ロカの屋敷の名前だった。

(C) 2008 Setsuko H. ペルー料理のチュペ・デ・カマロネス


(C) 2008 Setsuko H. ハトゥンルミヨク小道の壁にある12角の石


(C) 2008 Setsuko H. ハトゥンルミヨク小道


アルマス広場

12角の石の小道を見た後、アルマス広場(Plaza de Armas)を散策した。大聖堂(Catedral)、サン・フランシスコ教会(Iglesia de la Compañía de Jesús)、それに飲食店などがまわりにあり、植民地時代の雰囲気を醸し出している。ここはインカ時代も宗教・政治の中心のハウカイパタ(Hawqaypata)あるいはワカイパタ(Huacaypata, Waqaypata)と呼ばれた広場で、宗教的な大きな祝祭が開催された場所だっ(4)。周りに王族の屋敷などが並び、フランシスコ・ピサロとその部下達がクスコ入城後、それらの屋敷に泊まった。植民地時代、以前のハウカイパタ広場の南西部に建物が建てられ、広さが北東の半分ほどになったとのこと。インカ時代のこの広場は、さらにずっと広かったのである。今は、見渡す限りでは、インカ時代を思わせるような建造物が見えない。

(C) 2008 Setsuko H.


アルマス広場。クスコの旗とペルー国旗が掲げられている。1978年に虹の7色の旗がクスコ市の旗と認められて以降、ペルーのみならずエクアドルやボリビアのアンデス地域先住民の象徴となっている。正面の噴水の向こうにサン・フランシスコ会教会(Iglesia de la Compañía de Jesús)、左端に大聖堂が見えている。

サント・ドミンゴ教会・修道院 / 太陽神殿

アルマス広場から500mぐらい歩いたところにサント・ドミンゴ教会・修道院(Iglesia y Convento de Santo Domingo)がある。これはインカ時代の太陽神殿、コリカンチャ(Qorikancha, Coricancha)の跡に1534年に建てられたもので、円筒形(外側からは半円しか見えない)の土台と内部に太陽神殿の壁を見ることができる。石を積んで壁が作ってある。12角の石があった壁は、石と石との継ぎ目の部分が窪んでいたのと異なり、こちらの石壁は、塗り壁と同じような平らな表面にしてある。コリカンチャとは、qoriが「金」で、kanchaが「囲い場」といった意味(5)で、「金囲い」である。金を囲うのか、金製の囲いかはわからない。

修道院の内部に2階建ての回廊が周りを囲っているかなり大きな中庭がある。スペインなどのカトリックの修道院そのものであるが、その回廊の1つの壁側に、四角の石をきれいに積んだ太陽の神殿の壁が残っている。聖なる像などを置いたと思われる台形のくぼみや窓もある。植民地時代には、おそらく太陽神殿の壁にはなんらかの覆いをかぶせるなどして、カトリックの修道院そのものの様相を示していたのではないかと思う。今は、ガラス窓で採光したりして、インカ時代のものを保存し展示するようにしてある。サント・ドミンゴ修道院の見学を終え、ペルー到着の3日目のクスコ見学も終了した。

(C) 2008 Setsuko H. 太陽神殿の丸みのある外壁とその上のサント・ドミンゴ教会


(C) 2008 Setsuko H. サント・ドミンゴ修道院内部 右はインカ時代の太陽の神殿 当時の床を保護しつつ見学できるようガラス張りにしてある


クスコ民俗芸術センター

2日間に渡りマチュピチュなどの見学をした後、5日目にまたクスコに戻ってきた。6日目午前中にピサックの市場を見学し、レストランInka Grillで昼食(カボチャスープ、細切牛肉煮込みなど)を食べ、昼食後は、半日の自由時間を利用して、我々だけでクスコ市内を歩いてあちこち散策した。夕方に、クスコ民俗芸術センター(Centro Qosqo de Arte Nativo Danzas Folkloricas)の公演を観に出かけた。サクサイワマン、ケンコ、オリャンタイタンボなどの入場との共通券で入場でき(6)
 公演は、午後7時過ぎに始まり、8時20分まで続いた。舞台手前の下で生演奏があり、舞台上で、お祭りの時の衣装を着、仮面を付けた踊りなどを見ることができた。このセンターは、民俗舞踏の保存育成のための施設で、演奏者には年配の男性も含まれていたが、踊り手は、大学などの若い男女学生が主であった。会場の別の部屋には、仮面や衣装、楽器など多数の展示があった。

(C) 2008 Setsuko H. クスコ民俗芸術センターの舞踊


(C) 2008 Setsuko H. 仮面の舞踊


クスコでの二泊(5日目、6日目)の宿泊は、アルマス広場からすぐ近くのホテル、ピコアガ・ホテル(Picoaga Hotel)である。入口を入って進むと中庭に出る。石畳で中央に噴水がある。鉢植えの植物がところどころ置いてあり、周りはアーチ形で天井を支える回廊が取り囲んでいる。植民地時代の貴族のお屋敷の雰囲気である。夕食を食べた4階のレストランの窓からは、クスコ市街の屋根が並ぶ景色を眺められた。高度が高いせいで食欲がなく、軽い前菜しか食べられなかった。洗練されたおいしい料理だったのでメインをパスせざるを得なかったのが残念である。

(C) 2008 Setsuko H. ピコアガ・ホテルのレストランからの眺め (朝食時に撮影)


 ホテルの壁にあった掲示板の説明によると、ピコアガとは、先祖がスペイン、ビスカヤ地方バスク系の家系で、18世紀に軍隊の将軍・侯爵として、スペイン国王の代理であるペルー副王に派遣されクスコにやって来た。19世紀には、近郊の農園(hacienda)とクスコ市内のこの屋敷を所有していて、その屋敷が現在のホテルになっているとのことである。


<注>
2008年1月に旅行し、見聞したことと旅行前後に調べたことを書いた。ケチュア語は、Diccionario Quechua - Español - Quechua, Academía Mayor de la Lengua Quechua, Gobierno Regional Cusco, Cusco 2005:Segunda edición.を参照した。
 ナスカ地上絵編の注1でも書いたが、クスコのスペイン語綴り字にはCuscoとCuzcoがある。Real Academia EspañolaのDiccionario panhispánico de dudas(2005)によるとペルーではCusco、それ以外のスペイン語圏ではCuzcoが使われるのが普通とのこと。インカ帝国の征服者Francisco Pizarro(1478 - 1541)は手紙の中でCuscoとCuzcoの両方の綴りを使っているようである。
 ここでは、ペルーでの使用に倣いCuscoの綴り字を使った。

(1) 増田義郎「征服者の目に映じたクスコ」『ペルー王国史』大航海時代叢書第2期16、岩波書店、補注4、pp.618-621. ペドロ・サンチョの文章の和訳(pp.619-620)の直接引用でなく、意味内容を記した。
他にサクサイワマンについて
ペドロ・ピサロ「ピルー王国の発見と征服」第19章、『ペルー王国史』大航海時代叢書第2期16、岩波書店、p,146-152
Diccionario Quechua,(2005) s.v.Saqsaywaman
などを参考にした。

(2) Diccionario Quechua,(2005) s.v.Q'enqo
http://www.perutoptours.com/index07cuqenko.html
https://www.cuscoperu.com/es/viajes/cusco/centros-arqueologicos/qenqo
などを参照した。この宗教施設で崇拝されたのは、水、太陽と天体などと文献により異なる。地下のテーブルは人や動物の犠牲のための台、あるいはミイラを作るためとか、ジグザクの溝は水や犠牲の血を流すためなどという説明があるものもある。

(3) Diccionario Quechua,(2005) s.v.Hatunrumiyoq

(4) Diccionario Quechua,(2005) s.v.Hawkaypata
PRIMERA PARTE DE LOS COMENTARIOS REALES DE LOS INCAS, escrita por GARCILASO INCA DE LA VEGA y publicada en 1609, en Lisboa. LIBRO SÉPTIMO. Capítulo X. p.358)
https://es.wikipedia.org/wiki/Plaza_de_Armas_del_Cuzco
などを参照した。

(5) Diccionario Quechua, (2005) s.v.Qorikancha, qori, kancha,
マチュピチュの太陽神殿も外側の一部が円筒形で丸い壁の建物である。現代の牧畜民の家畜繁殖儀礼が行われる円形の石囲いとの連続性が指摘されている。大平秀一「クスコ:インカ国家の首都」『失われた文明 インカ・マヤ・アステカ展』2007, NHK, pp.182-183.
カンチャというケチュア語は、現代の牧畜民も家畜の石囲いの意味で使っている。1979年からのフィールド・ワークに基づいた稲村哲也『リャマとアルパカ―アンデスの先住民社会と牧畜文化』1995、花伝社、pp.93,94に、夜などに家畜を入れておく丸い石囲いの名称として、ウィシャ(ヒツジ)・カンチャ、ルトゥーナ(毛刈)・カンチャ、パタ・カンチャ、チャウピ(中央)・カンチャとある。(パタはpata:「上」Parte alta de alguna cosa.Eminencia de un cerro, casa, etc. Diccionario Quechua,(2005) s.v.pata)

(6) 入場券(Boleto turístico del Cusco)は、70ソル(S/ 70 setenta nuevos soles)で、16箇所への入場ができる(Visita opcional a los 16 servicios)と記してある。すなわち、Museo de Arte y Monasterio de Santa Catalina, Museo Municipal de Arte Contempolaneo, Museo Histórico Regional, Museo de Sitio del Qoricancha, Museo de Artepopular, Centro Qosqo de Arte Nativo Danzas Folkloricas, Monumento Pachacteq, Saqsaywaman, Q'enqo, Pukapukara, Tambomachay, Chinchero, Pisaq, Ollantaytambo, Tipon, Pikillaktaである。これらのうち我々は4箇所(上記リストで斜字体の所)を見学することができたのみである。コリカンチャ現地博物館(Museo de Sitio del Qoricancha)は、ホテルからも歩いて行ける、サント・ドミンゴ教会下広場に、地下へ向かう入口があったのだが、我々が行った時は、何の掲示もなく閉まっていて、入れなかった。70ソルは、当時我々が両替したレート(1ソル=40,6円)で、2840円相当であった。


※写真はいずれも2008年1月ペルーにて撮影 [©️2008 Setsuko H.]
2018/4/25 - 2020/9/24.

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