キューバ到着の5日目にハバナ市の美術館やオビスポ通り界隈を散策した。また6日目には、革命広場へ行き、ホセ・マルティ記念館などを見学した。
キューバ芸術館(Arte cubano)と、世界の芸術館(Arte universal)の2つがある。両館共通入場券で1人8クック(CUC 兌換ペソ)である。キューバ芸術館の方は、現代的な建物で、1954年の建築とのこと。展示はキューバの作家による17世紀からの美術品が展示してある。植民地時代18世紀の絵画などはスペインのものとの違いはないように思われる。革命後の現代美術も世界的な芸術潮流との乖離も感じられない。世界的に活躍しているキューバ芸術家もいるとのことであるが、当方その知識がなく、残念である。1階のピロティでは、ワークショップなのか、子供たちが踊りや音楽のパフォーマンスをしていて、それを座った親達が見学していた。
キューバ芸術館1階での子供たちによるパフォーマンス。この日は日曜日だった。
世界の芸術館は、もとはアストゥリアス・センター(Centro Asturiano)の会館として、1927年にバロックとプラテレスク(1)の混合様式で建てられた建物とのこと。宮殿のような建物である。アストゥリアス・センターとは、スペイン・アストゥリアス地方出身でキューバ在住者達の相互扶助や親睦のための組織、言わば「アストゥリアス県人会」というところ。1886年設立の団体で、キューバにおいて非常に重要な組織の一つで、キューバ全土に学校を作って運営したり、病院を建てたりしたそうで、財力もあったと想像できる。展示品は、エジプト、ギリシャ、ローマの古代のものから、ヨーロッパと、南北アメリカの美術品があった。
世界の芸術館:アストゥリアス・センター会館内部。天井の灯り窓がステンドグラスになっている
美術館を見た後、歩いてハバナ市街を散策した。中華街(Barrio Chino)と地図にあったところは、レストランが何軒か並んでいるだけであった。
町中で。
洗濯物が干されていて、古い建物が住居になっていることがわかる。
別の町並み
1519年にハバナ市最初の市会とミサが開かれたという場所を記念して建てられた小廟(El Templete)
近くには、市を取り囲む城壁(17世紀末から18世紀末)の残った部分があり、説明板もあった。また、アメリカ合衆国の支援を受けて1961年4月にヒロン海岸へ侵攻してきた反革命武装勢力に反撃した自走砲(戦車)の展示もあった。
日曜日だったためか、プエルト通り(Avenida de Puerto 港通り)にある遊園地(Parque infantil)は、現地の家族連れで賑わっていた。ホテルに帰るシャトルバス乗り場に向かう途中、ボヤ騒ぎを目撃した。
ボヤ騒ぎがあって、消防自動車が来ていた。なぜか下水の臭いがあたりに充満していた。
キューバ到着6日目(最終日)は、タクシーで、新市街ベダード地区(Vedado)の革命広場へ行った。メキシコ市のソカロ(中央広場)も相当広いが、ハバナのこの広場はそれ以上に広い。巨大なゲバラの顔の線画がある建物が内務省(Ministerio del Interior)、カミーロ・シエンフエゴス(Camilo Cienfuegos Gorriarán 1932 - 1959)の顔があるのが情報通信省(Ministerio de la Informática y las Comunicaciones)の建物とのこと。シエンフエゴスもキューバ革命の英雄の1人で、1956年キューバ上陸のグランマ号に乗り組んだ1人である。ゲバラの像には、“Hasta la victoria siempre”(勝利まで絶えず)、シエンフエゴスの像には、“Vas bien, Fidel”(フィデル、その方向で良いよ)と書かれている。
広場の南西に109mの高さにそびえる塔がある。断面が星形をしているようで、周りに突き出た薄い壁で支えられたような塔である。この中は、ホセ・マルティ(José Martí 1853-1895)の生涯や業績を展示した博物館になっている。土台のところに登るのに、敷地の入場料として1人1クック、計2クックを払い、さらに建物の中に入り、博物館と展望台の入場料として1人5クック、計10クックを払った。
博物館部分は、ゆったりとした空間の中に、ホセ・マルティを紹介する写真や文章のパネル、銃などが展示されていた。正面には、マルティの大きな胸像の後ろにヤシの木が立つ風景写真パネルがあり、その上に“Yo soy un hombre sincero ...“(私は正直な人間である)というマルティの詩の一節が大きく書かれている。さらにその後の壁には、
“Saber leer es saber andar. Saber escribir es saber ascender”(読むことができれば歩くことができる、書くことができれば向上することができる)、“Lo justo, a veces, por el modo de defenderlo, parece injusto”(公正であることは、時に、それを擁護する方法によって、不公正に見える)などのマルティのことばが金言風に掲示してある。
キューバ現行1976年憲法(5条)では、キューバ共産党が、社会と国家を導く最高の指導者であるとし、ホセ・マルティ主義(martiano)とマルクス・レーニン主義(marxista-leninista)の党と規定している。また前文で、憲法はマルティの熱望を先駆とするという意志を宣言して、彼の言葉を直接引用もしている:
“Yo quiero que la ley primera de nuestra República sea el culto de los cubanos a la dignidad plena del hombre”(我々の共和国の第一の法は人間の完全な尊厳へのキューバ人の尊崇であるように私は望む)(1891年11月26日アメリカ合衆国フロリダ州タンパで在住キューバ人への演説)
このようにホセ・マルティの思想は、キューバにとって重要な地位を占めている。この博物館もキューバの国民や子供たちにホセ・マルティの思想を教えるための重要な施設の一つなのだろうと思った。
展望台から四方を眺めると、高い建物は他に見当たらない。新旧のハバナ市街を下方に見渡すことができ、北西には遠くに海が見られる。床に世界のいくつかの都市の方角と直線距離がタイルで書かれた扇形のプレートがあった。北を示すプレートに、北北西の方に向いてTOKIO 12135(km)とある(4)。北微東を示すマイアミは365(km)とあり、アメリカ合衆国との近さを感じさせる。
展望台床のプレート
ホセ・マルティ記念館の展望台から革命宮殿(El Palacio de la Revolución)を眺める。キューバ政府の中枢である国家評議会(Consejo de Estado)と内閣(Consejo de Ministros)が置かれている建物である。
展望台から革命宮殿とは反対側の革命広場を眺める。前方は海。
革命広場に出て、なかなかこない空のタクシーをようやくひろい、ホテル近くのスーパーマーケットまで行った。地元のスーパーを見学がてら、残っていた手持ちのクックを活用するため持ち帰る食材やおみやげのラム酒なりを買おうと思ったからである。多くの車や人が来ている。賑わっていて他の資本主義の国々のスーパーと違いはわからなかった。クックを使う商店なので、外国人用ではあるが、客は観光客というより、地元の人たちが多かったように見受けられた。商品は、米、砂糖や飲物など基本的なものはキューバ製であったが、外国製品が多く並んでいた。国産品も輸入品もクックの値段表示で結構高い値段が付いていた。レジを終えて建物を出る際に、レシートと商品を照らし合わせてチェックする体制になっていた。売り場に入る前に大きなカバンなどを預けさせられるのは、いくつかの国で経験していたが、建物を出る時もチェックを受けるのは初めてだった。
スーパーから出て、ホテルに歩いて戻るとき、背広を着てネクタイをしている紳士に確認のためホテルへの方角をたずねた。教えてくれた後、自分は大学で歴史を教えている教授で、今日は自分の誕生日なのでお金が欲しいと言われた。道を案内してのチップならば理解できなくもないが、誕生日だからという言葉に、それに、人品卑しからぬ風情の紳士が発したことに驚いた。大学教授なら同業者なので、話をしようかと一瞬思ったけれど、言われたことがわからないふうに装い別れた。
1時過ぎにホテルに戻り、ホテルのプールに入ったり、部屋で休憩したりしてのんびりと過ごした。チャーター便で日本へ帰る客を乗せる指定のバスで午後7時40分にホテルを出て空港に向かう。11時50分に離陸してキューバを離れた。
※写真はいずれも2012年8月キューバにて撮影 [©️2012 Setsuko H.]