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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

ペルー(3) オリャンタイタンボ編

堀田英夫

ペルー到着3日目の夕刻、車でウルバンバ(Urubamba)の高原リゾート・ホテル(Casa Andina)へ入った。わりと広い敷地内に芝生が広がり、ピンクや紫、黄色など色々な花が咲いている植物がところどころ植えてある。フロントのある建物、レストランの建物、それに2階建ての客室のある建物が点在している。建物はすべて、赤い瓦屋根で、下の部分は石積みのアンデス地方伝統的な建築方法のようである。
 翌朝も早朝から動き出し、山からもやが降りてくる中、出発し、車で少し行ったところにあるオリャンタイタンボ遺跡 (Ollantaytambo) を見学した。

オリャンタイタンボ遺跡

赤い瓦屋根の家々があるオリャンタイタンボの集落の中の道は、石が敷き詰めてある。家々の間を進んでいくと、前方の山の斜面に遺跡が見える。かなり高い山のように見えるが、高いところまで広範囲に石積みが見える。山の麓近くの石畳の広場で止まった。広場には、木製の台に茅葺(かやぶき)の屋根だけの小屋が何軒か立っている。土産物屋の屋台のようだが、今は朝早いせいか、商品もなく売り子もいない。車から降りて、遺跡の石の階段を登っていく。斜面は、一段がかなり高くて広い段々畑(andenes)の形になっている。

(C) 2008 Setsuko H. オリャンタイタンボの遺跡
我々が登った山の近くの別の山の中腹にも建物や段々畑の跡がある。画面前方の山の麓から続く右の手前の方までは現代の集落。


(C) 2008 Setsuko H. オリャンタイタンボの遺跡
登っていく途中


近くの別の山の中腹にも、石積みの壁で、対面の2面の上が三角になっていて、屋根があったことを思わせる連なった建物の跡が見られる。さらに登っていくと、6枚の巨大な石が並んでいる壁が立っている。どのような技術で磨き上げたのか、表面は極めてなめらかである。太陽の神殿(Templo del Sol)の壁の一部が残っているとのこと。巨大な石を組んで作ってある頑丈な壁なので、略奪者や偶像破壊者にも壊されないで残ったのだそうである。

(C) 2008 Setsuko H. 登った上の方にある太陽神殿の残った壁


遺跡の上の方から見下ろすと赤瓦の屋根の家々が立ち並ぶ村が見える。周りはトウモロコシ畑が広がっていて、畑と畑の間に緑の木々が立っている。

(C) 2008 Setsuko H. オリャンタイタンボ遺跡の石積みの一部


インカ帝国の急激な拡大がはじまった15世紀中ごろ、この地方もインカ・パチャクテクによって征服され、インカの支配のもと、行政・宗教上のセンターとされた。主にトウモロコシ生産によってインカの軍隊、技術・官僚機構の維持、賦役や富の分配に寄与した。オリャンタイタンボ渓谷の一部は、パチャクテクの所領であった。
 歴史上、オリャンタイタンボが次に出てくるのは、1536年マンコ・インカがスペイン人達に対して蜂起した時の話の中でである。マンコ・インカは、クスコ包囲戦の中でサクサイワマンの戦いで敗れ、ここオリャンタイタンボ渓谷まで退却し、ここに要塞を築いて立てこもった。しばらく後、ここも放棄し、ビルカバンバへ退却し再起を図った。
 ケチュア文学に、この地に関わる「オリャンタイ」(Ollantay)というタイトルの演劇があ(1) 。クスコのサント・ドミンゴ修道院に保管されている1776年頃の写本が最も古いテキストで、1461年から1471年頃の歴史上の人物が登場する作者不明の演劇である。スペイン人征服者が来る前からの作品であるのか、あるいはヨーロッパの影響を受けてからの作品であるのかの論争があるそうである。

平民出身で、武功を立て将軍になったオリャンタ(Ollanta)が王女クシ・クイリュル(Kusi Quyllur)と恋仲になった。王女の父、インカ王パチャクテクに結婚の許しを求めたが、平民出身であるがゆえに認められなかった。王女は幽閉され、やがて女の子を産んだ。王女に会わせてもらえなかったため、殺されたと思ったオリャンタ将軍は、クスコを去り反乱を起こし、オリャンタイタンボに立てこもる。パチャクテク王は、ルミ・ニャウイ(Rumi Ñahui)将軍に指揮させた軍隊を送るも10年間鎮圧されることなく、持ちこたえた。
 パチャクテク王の死後、その息子のトゥパク・ユパンキ(Túpac Yupanqui)がインカ王になって、またルミ・ニャウイ将軍が派兵される。ルミ・ニャウイ将軍は、今度は自らの身体に傷を付け、オリャンタ将軍の前に進み、新王にこのような仕打ちを受けたと話し信用させる。夜の宴会の際、密かに城門を開けて自軍の兵士を招きいれ、オリャンタを捕まえてしまった。トゥパク・ユパンキ王の前に連れてこられたオリャンタに対し、ルミ・ニャウイ将軍などが処刑を進言するも、オリャンタとその部下達は許され、インカ軍で地位を授かった。
 オリャンタ将軍と王女の間に生まれた女の子イマ・スマク(Ima Sumaq)は、親のことを知らされずアクリャ・ワシ(選ばれた処女の館)で育てられていた。母親のことを偶然知ったイマ・スマクは、トゥパク・ユパンキ王に母の許しを願ったことで、王は幽閉されているクシ・クイリュル王女に会い、自分の姉妹であることを知り、王女を解放し、オリャンタとの結婚を許した。

インカ帝国の征服は、必ずしも武力や軍事力によるものだけではなく、外交的手段や策略も駆使して、服従させたようである。オリャンタイタンボがパチャクテク王によって征服されインカ帝国に組み入れられたということと、演劇オリャンタイの筋は似かよりがある。オリャンタイタンボのタンボ(tambo)とは、インカ時代、道沿いに置かれた宿駅のこと。タンボ(宿駅)では、移動中の軍隊が食糧・物資の補給を得ることができ、巡察に行く役人が便宜をえることができた。また、広大なインカ帝国領域内で情報を伝達したチャスキ(chasqui 継飛脚)も常駐していたそうであ(2)

オリャンタイタンボ遺跡の見学を終え、マチュピチュへ向かうために鉄道(PeruRail)の駅へ歩いて行った。足早に歩き、朝8時発の列車に乗り込むことができた。列車の窓は大きく、窓の上の屋根もガラスになった展望車(VISTADOME)で、山々も含め、景色をよく見ることができた。
 9時30分にマチュピチュへの玄関口、アグアス・カリエンテス(Aguas Calientes)に着いた。

(C) 2008 Setsuko H. マチュピチュへの列車の旅。
左は、ウルバンバ川



<注>
2008年1月に旅行し、見聞したことと旅行前後に調べたことを書いた。 Diccionario Quechua - Español - Quechua, Academía Mayor de la Lengua Quechua, Gobierno Regional Cusco, Cusco 2005:Segunda edición.などを参照した。

(1) 演劇「オリャンタイ」については、 https://es.wikipedia.org/wiki/Ollantay
インカ帝国の征服、歴代インカ王については、落合一泰&稲村哲也『マヤ文明・インカ文明の謎』光文社、1988.
などを参照した。

(2) tamboは、ケチュア語tanpuからスペイン語化した語。
横山玲子「インカ道」『失われた文明 インカ・マヤ・アステカ展』2007, NHK, pp.179-180.
tanpuには、「軍隊の野営地」(campamento militar)との語義説明もある。また、インカ起源の伝承では、最初の王マンコ・カパックと王妃ママ・オクリョ・ワコが、パカリク・タンプPaqariq Tanpuという洞窟から出てきたという話しがある。パカリク・タンプは、「夜明けの宿場」あるいは「出現する宿」と訳されている。インカにとっては、単なる「宿駅」のみではなく、皇帝の権力の出先機関が置かれた重要な拠点のようである。


※写真はいずれも2008年1月ペルーにて撮影 [©️2008 Setsuko H.]
2018/5/5. - 2020/4/25.

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