2013年2月に、グアテマラに旅行した。成田からメキシコ市の空港で乗り換え、グアテマラ市ラ・アウロラ国際空港(Aeropuerto Internacional La Aurora)に夕方着陸し、その日は、グアテマラ市内のホテルに泊まった。
グアテマラ到着2日目が、イシムチェ(Iximche)遺跡、国立考古学民族学博物館(Museo Nacional de Arqueología y Etnología)、3日目にキリグア(Quiriguá)遺跡、4日目にティカル(Tikal)遺跡、5日目にグアテマラ市(Ciudad de Guatemala)とアンティグア市(Ciudad de Antigua)を見学した。
数多くあるマヤ遺跡の位置を示す地図を見ると、一部ベリーズとエル・サルバドルを含みメキシコ・ユカタン半島とグアテマラ全体に散らばって分布していることがわかる(1)。イシムチェ遺跡(Parque Arqueológico Iximche)は、その中で、グアテマラの南部地域のほぼ中央にあり、海抜2,260mの高地に位置している。グアテマラ市から西へ90kmちょっとのところである。渋滞があったりして車で2時間15分かかった。
駐車場で車を降りて、南東の方向へ遺跡へ入っていく。入り口を入ったところで現地ガイドの青年が話しかけてきた。スペイン語で案内をお願いした。後古典期後期(Postclásica Tardío 1250-1524)の、カクチケル人(Kaqchiquel, Cakchiquel, Cachquel)の遺跡である(2)。防御のため、三方は崖になった高台に位置しているとのことであるが、回りには樹木が生い茂っていて、そのようには見えない。北西すなわち入り口側は崖になっておらず、防御用に深い掘りが作られ、出入りのために橋がかけられていて、扉があったそうだが、現在は橋も掘りも見えない。全体では、約16km2の敷地に170以上の構造物があるとのことである。
広場Aの「神殿2」(Templo 2)
入り口を入ってすぐは、広場A(Plaza A)と名付けられていて、周囲の建物が一番多いとのこと。奥に進むとアルファベットでB、C、Dというように名付けられた広場が連なっている。神殿なども番号で名前が付けられている。カクチケル人が宗教と政治上のセンターとして使っていた時代には、もちろん独自の名前で呼ばれていたと推測されるが、今ではそれがわからない。それぞれの広場の周りに建造物があり、広場中央あたりには、石で縁取りをした太い十字架状の形が中にある四角形や、石組みの丸い低い壇がある。宗教儀式をした舞台らしい。各広場の西と東にピラミッド状の基壇がある。上部に神殿が建てられていたが、火事や地震で失われているので、壁や柱は日干し煉瓦(adobe)で、屋根は木など燃える建材で建てられていたと考えられている。神殿の内側の壁に彩色された壁画があったが今は消えてしまっているとのこと、単色でスケッチしたものが残っている。広場の南側には、球技場もある。他の建物では、王や貴族などの住まいもある。その床の地中から赤やこげ茶色の実用的な陶磁器の鉢や薄皿が出土している。石製三本足のトウモロコシひき臼、黒曜石製のナイフや矢じりなども発見されているとのことである。
「神殿2」内壁画(左上)の説明板:メキシコ・オアハカのミシュテコ人 による絵画(右やや下)との類似性が指摘されている。
奥の方は、建造物が再建されていない
カクチケルは、神話で始まる自分たちの歴史を、ローマ字で綴ったカクチケル語で16世紀末から17世紀に書き留めた『カクチケル年代記』(Anales de los Cakchiqueles)という文書を残していることで知られている。
この文書から、カクチケル人やこのイシムチェの町の歴史を知ることができる。
カクチケル人は、キチェ人と同盟関係にあって同じ町に居たものの、1463年に同盟が破れ、キチェ人と離れ、1470年にイシムチェに町を築いた。それ以降、両者は慢性的に戦いあっていた。1524年にカクチケル人の王たちはスペイン人征服者アルバラド(Alvarado)一行をこのイシムチェに平和裏に迎え入れ、スペイン人と同盟関係を結んだ。アルバラドは配下のスペイン人兵士らと、使徒サンティアゴ(Apóstol Santiago)の祝祭の日、7月25日にサンティアゴに捧げるミサを行った後、ここをサンティアゴと命名しグアテマラでスペイン人による最初の町を建設しようとした。しかしすぐにこの同盟は決裂し、カクチケル人達は反乱を起こし山岳地帯へ逃げた。1526年には、アルバラドによってこのイシムチェが焼かれたとされている。その後1690年に訪れたスペイン人による遺跡の記録も残されている。
イシムチェの遺跡からグアテマラ市に帰り、ステーキレストランでの昼食後、国立考古学民族学博物館(Museo Nacional de Arqueología y Etnología)を訪れた。グアテマラ市の南部にあり、フィンカ・ラ・アウロラ(Finca La Aurora 夜明け農場)と呼ばれる郊外の広い地区の一角にある。この地区には、動物園、野外音楽堂、競馬場などがあり、さらに南にはラ・アウロラ国際空港もある。1885年から1892年まで大統領だったマヌエル・リサンドロ・バリヤス将軍(Manuel Lisandro Barillas)の所有であったものを1892年に大統領に就いたホセ・マリア・レイナ・バリオス(José María Reyna Barrios)が、グアテマラ市の開発・改革の一貫としてのレクリエーション施設整備のため、土地の大部分を取り上げたものだそうである(3)。
博物館は、19世紀からの政府系組織による資料収集と展示を経て、1931年に別の場所で発足し、1947年に現在のフィンカ・ラ・アウロラに移されたとのことである(4)。外観は、テラコッタのような薄い褐色の壁面に白い枠の塗装がしてある宮殿風の建物である。
国立考古学民族学博物館の外観 ジャカランダが咲いている。
この博物館は、グアテマラ各地の考古学・民族学上の文物を収集、研究、保存、修復、展示、広報をしている。それで当然ながらマヤ文明の石碑・発掘品を中心に多数収蔵し展示している。先古典期(形成期)室(Sala período Preclásico)、古典期室(Sala período Clásico)、後古典期室(Sala período Postclásico)の時代区分別の部屋の他、ティカル室(Sala Tikal)、翡翠(ひすい)室(Sala Jades)などテーマによる区分、それに現代の織物を展示してある民族学室(Sala de Etnología)がある。円形の中庭があり、周囲の柱廊にも石碑がぐるりと展示してあった。
カミナルフユ(Kaminaljuyu)遺跡(5)出土の香炉。形成期(先古典期)
カミナルフユ遺跡の石碑
ペテン(Petén)県のナアチトゥン遺跡(Naachtún)出土の鉢。古典期
博物館の中庭
民族学室の「鹿踊り」(Danza del Venado)
形成期 / 先古典期 | 前期 | 紀元前2000年~前900年 |
中期 | 前900年~前300年 | |
後期 | 前300年~紀元後250年 | |
古典期 | 前期 | 250年~600年 |
後期 | 600年~900年 | |
後古典期 | 前期 | 900年~1200年 |
後期 | 1200年~1500年 |