グアテマラ到着2日目、国立考古学民族学博物館の見学後、国の南の方にあるグアテマラ市から東の方にあるキリグア(Quiriguá)遺跡に車で向う。2時間30分ちょっとのかなり飛ばしたドライブで、リオ・オンド(Río Hondo 深い川)という町のホテルで宿泊した。グアテマラ市とカリブ海を結ぶ街道の中間点にあり、旅行客がよく泊まる町のようで、プールなどの施設はあるものの、シャワーが水であったり両隣の部屋の音が筒抜けだったりと、モーテルという感じのホテルであった。ホテルの人がドアを開けっ放しで部屋に荷物を運び込む間に無数の蚊が入り込み、蚊に好かれる妻は一晩中悩まされた(蚊と戦っていた)。
翌朝また同じ街道を東北東へさらに走る。途中、左右にバナナ園が広がっている中を真っ直ぐ伸びる道路を走る。突然、車が停まった。前を見ると、金属製の枠組みが高さ2mぐらいのところで道路を遮り、その枠組みから下がった荷台に人が乗って左から右へ動いている。バナナ運搬用のリフトとのこと。開閉式になっていて、リフトが道路部分から通り過ぎると、道路を遮っていた枠組みは道路わきに回されて、車が走り出した。かなりな時間、バナナ園の中を走った。19世紀末頃から、アメリカのユナイテッド・フルーツ社がグアテマラで大規模なバナナ生産と輸出を独占的に行い、この企業がグアテマラの政治・経済や社会へ大きな影響をもたらしていたことを思い出した。ノーベル賞作家ミゲル・アンヘル・アストゥリアス(Miguel Ángel Asturias 1899-1974)の小説『緑の法王』(El Papa verde 1954)も思い浮かべた。この小説は、アメリカ資本のバナナの独占企業が、グアテマラ政府や軍隊を動かし、悪辣な手段で、土地、鉄道、港湾を取得して巨大な企業になる様子を描いている。
キリグアへ向かう途中の道路で
枠組みを道路わきに収納したところ
さらに10分ぐらい走り、キリグア遺跡(Parque arqueológico Quirigua)に着いた(1)。リオ・オンドから1時間30分ぐらいのドライブである。車を降りて、南の方へ歩き、遺跡の敷地内に入る。敷地内は、緑の芝生が広がっていて、歩くための通路も整備されている。周りには熱帯の林が立ち並んでいる(2)。地面の芝の緑と、周りの林の濃い緑、そして空の青色のコントラストが美しい。映画などの熱帯ジャングルの場面で聞かれるような鳥の鳴き声が、周りの木々の間から聞こえる。最初の広い緑地は、大広場(Gran Plaza)と呼ばれていて、南北300m、東西150mほどの長く伸びた広場である。あちこちに、草葺きの屋根が木組みの柱の上に乗っているだけの小屋があり、その中に背の高い石碑(estela)や彫刻された岩が鎮座している。現地のガイドさんが、石碑の部分を指し示すための細く長い棒を持って、敷地内に同行して説明をしてくれた。
「石碑C」は、2012年12月に人類滅亡を迎えるという予言が記されているとして、この日の何年か前から世間を騒がせて有名になった(3)。「石碑D」は、グアテマラの 10 センターボ(10 centavos)硬貨に Monolito de Quirigua(キリグアの石碑)という文字と共に刻印されている(4)。
石碑H(Estela H): キリグアの石碑中で最古の日付751年が書かれている。キリグアに言及した最古の日付は別の場所の石で426年とのこと。
キリグアの王がコパンの王を738年に打ち負かしたことを刻んだ石碑J(Estela J) (建立は756年)
途中いくつかの石碑と獣形神(zoomorfo < zoo- 動物 + morfo 形態)と呼ばれる大きな岩のような石像を見て、さらに南に進むと、前に階段があり、一段と高くなったところがある。右手に球技場広場(Plaza del Juego de Pelota)と書いた説明板がある。ただ球技場は、芝で被われた溝という形で残っているだけである。階段を登る手前にも獣形神と、平べったい石像の祭壇(altar)がある。階段を登ったところが、アクロポリス(Acrópolis)と呼ばれる広場で、周囲には、さらに階段を登ったところに宮殿であったと推測されている建物がいくつかある。ここの東と南にも建物群があるとのことだが、密林の中に隠れている。
アクロポリス階段下にある獣形神P(南側)。高さ2m×横3m×奥行2.5mほどの岩で全面に彫刻がある。祭壇とペアになっている。
キリグアの石碑で最後の日付、805年を刻んだ石碑K(Estela K)(遺跡に残る最後の日付は建物1B-1の810年)
アクロポリスへ至る階段上から北の方を眺める。下に見えるのは、獣形神Oと祭壇Oを保護する屋根。
ここは「キリグアの考古学公園と遺跡群」(Parque arqueológico y ruinas de Quiriguá)の名前でユネスコ世界遺産に登録されている。マヤ文明古典期の都市(Ciudad Clásica)である。グアテマラ東部で、カリブ海岸とホンジュラスとの国境に比較的近い。すぐ南をモタグア川(el río Motagua)が流れていることで、当時貴重な交易品であった黒曜石(obsidiana)、ケツァル鳥の羽根(plumas de Quetzal)、玄武岩(basalto)などを手に入れることができ、硬玉(jadeíta)の産地や、グアテマラ高地(Tierras Altas)とカリブ海岸(Costa del Caribe)を結ぶ交易路に容易にアクセスできる戦略的な位置にある。
2世紀から人が住んでいたところで、カウアク・シエロ王(Cauac Cielo 723-784)(5)が治めていた時代、自立した国家の首都であった。8世紀の建造物とマヤ文明の歴史を知ることができる一連の石碑や石に刻まれた暦を保持しているとユネスコのサイトにある。グアテマラの文化・スポーツ省のサイトでは、王の名が、カック・ティリウ・チャン・ヨパアト(K'ak' Tiliw Chan Yopaat)となっている。石碑に刻まれたマヤ文字の研究が進展したためと思われる。このキリグア遺跡の歴史もかなり解明されているようである。キリグアに言及した最も古い記録は、426年の日付だそうである。300年間ほど、ここから南方の直線距離で50kmのところにあるコパン(Copán)(6)の支配下にあったものの、724年に即位したキリグアの王がコパンに反抗し、738年には打ち負かして、キリグアの繁栄の絶頂期を築いたという。建物1B-1の碑文に、第16代コパン王 Yax Pasaj とキリグアの王「空・翡翠」(Cielo Jade)の両者が参加してカトゥン(katún 7200日)の終わりを祝ったとあり、キリグアが再びコパンに従属することとなったことを示しているとされている。この後の日付が出てきてないことから、まもなくキリグアが滅亡したと推測される。
18世紀末にモタグア川沿いの土地を買ったJuan Payesという人が遺跡を発見し、19世紀から調査、発掘が行われてきた。ここの土地を含むバナナ園用の広大な土地所有者であったユナイテッド・フルーツ社が、1910年に遺跡とその周り34haを保護区とした。観光客が触ったり傷を付けないよう柵で囲ったりして石碑や祭壇の保護・整備が始まったのは20世紀下旬以降とのことである。
石碑9本、獣形神4体、祭壇2つが芝生の中の草葺の屋根の下にあった。これらの見学の後、入り口近くの博物館を見た。発掘された土器や石の道具、石碑が展示してあった。
キリグア遺跡の見学の後、次の目的地ティカル(Tikal)へ向かった。キリグアから北東のカリブ海岸へ向かう街道を途中で左折、北西へ向かう。比較的大きなイサバル湖(el lago de Izabal)と北東に繋がっているゴルフェテ湖(El Golfete)の繋がり部分に、水面よりかなり高いところにかかっている橋の上を街道が通っている。ゴルフェテ湖も北東に細長く、そのままドゥルセ川(Río Dulce 淡水の川)としてカリブ海のホンジュラス湾に注いでいる。橋の手前のゴルフェテ湖に面した湖上レストランで昼食をとった。桟橋のように板敷きで水上にテーブルと椅子が置いてある。棕櫚葺きの屋根で日陰になっているので暑くない。メイン料理は、この地域に住むガリフナ人(garífuna)(7)の伝統料理タパード(Tapado)である。タパードとは、guatemala.comのサイトによると、魚や貝、蟹や海老などの海産物とバナナ、キャッサバを煮て、ココナツミルク(leche de coco)を加え、さらに煮た具沢山の海鮮スープで、海産物のうま味とココナツミルクの味がマッチして大変おいしかった。我々が食べたときは、これに魚のフライとレモンが添えられていた。
ガリフナの伝統料理タパード
食事の後、車で、その日宿泊するフローレス市(Flores)近郊へ行くべく北西に向かった。ドライバー、フスト・カステリャノ(Sr. Justo Castellano)さんが、この日はきれいな日没が見られるはずだと、ペテン・イツァ湖(Lago Petén Itzá)まで間に合うよう車を走らせてくれて、湖畔への小道があるところで駐車してくれた。車を降りてしばしの時間、湖の向こうに沈む太陽とそれが湖面に映った美しい景色を見た。その後、車で10分走り、その日の宿、ホテル・カミノ・レアル・ティカル(Camino Real Tikal)にチェックインした。
夕日が沈むペテン・イツァ湖。現地の若者たちが水浴びをしていた。