成田空港からアメリカ合衆国のアトランタで乗り継ぎ、エクアドル(Ecuador 赤道)の首都キト市(Quito)の空港に、22時30分頃到着した。2017年6月のことである。空港は、エクアドルなど南米のいくつかの国の独立戦争に功績をあげた軍人アントニオ・ホセ・デ・スクレ(Antonio José de Sucre)にちなんで、「スクレ元帥国際空港」(Aeropuerto Internacional Mariscal Sucre)という名が付けられている(1)。以前は、キト市内にあった同名の空港を2013年に現在の、市街から車で約1時間のタバベラ(Tababela)という地区に移転したとのことである。
翌日午前中は、ホテルがあるラ・マリスカル地区(La (Parroquia) Mariscal (Sucre) スクレ元帥区)を散策した。この地区は、ビルが立ち並び、文化省、外務省などの公的機関やホテル、レストラン、喫茶店、商店、劇場などがある。キト市で一番賑やかなアマゾン川通り(Avenida Río Amazonas)も通っている。この通りから1ブロック入ったところに、民芸品の小さな店が並んでいるちょっと大きな建物の手工芸品市場(Mercado Artesanal)もある。この地区の南西に隣接する別の地区にあるエル・エヒード公園(Parque El Ejido)の中の道にも、水曜日だったけれど民芸品を売る屋台が並んでいた。こちらは、朝のせいか、お客はほとんどいなく、商品はならべてあるのに売る人がいない屋台もあった。公園の北からの入り口には凱旋門を小型にしたような門(Puerta de La Circasiana)がある。公園内は、緑の芝の間に小道があり、緑の木々が立ちモニュメントが置かれている。図書館もあった。ただ西の部分は地下鉄工事のため囲われていて入れなくなっていた。
エヒード(ejido)とは、村で共有される牧草地や山林のことである。この公園は、スペイン人によるキト市の設立時に、共有の牧草地・エヒード(ejido)として市の端に設けられた土地の一つで、当時は市の北の境界にあったとのことである。ここよりさらに南西に進むと旧市街、歴史地区(Centro histórico)がある。
エル・エヒード公園の中からPuerta de La Circasianaとアマゾン川通りの方を見る
午後は、現地ガイドのヒメーナ(Ximena)さんの運転と案内で、まず、大きな聖母像(Virgen de El Panecillo)があるパネシーヨの丘(Colina de El Panecillo, Cerro del Panecillo)に登り、キト市を眺望した。この丘は、その形から、スペイン人達が「小さなパン」(pan に示小辞 -cillo が付いた形 panecillo)と名付けたとのこと。遺跡などは残っていないけれど、スペイン人が来る前には先住民により頂上で祭祀が行われていたとのことである。
聖母像は、1975年に完成したもので、11mの基壇の上に30mの高さでそびえていて、キト市の多くの所から見ることができる。翼を広げて地球儀の上に立ち、足元に押さえつけているヘビが繋がれた鎖を左手に持っている。右手は肩ぐらいに上げている。オリジナルの形は18世紀にキトで教会の彫刻や絵画を作成していたベルナルド・デ・レガルダ(Bernardo de Legarda)によって作成されサン・フランシスコ教会に安置されている高さ30cmの木製の聖母像「キトの聖母」(Virgen de Quito)とのことである。スペインによる植民地時代、この作者レガルダなどの教会の彫刻や絵画を作成するキトの芸術家達は、ヨーロッパの伝統と時々の潮流に土着の先住民文化を取り入れたすぐれた作品を生み出し、本国スペイン王室にもその見事さが伝わっていたほどとのことで、キト派(Escuela quiteña)と呼ばれている。
パネシーヨの丘に立つ聖母像
パネシーヨの丘を下り、市立博物館の駐車場で車を降りてから、旧市街を歩いて観光した。市立博物館(Museo de la Ciudad)は、1565年から1974年まで病院(Hospital San Juan de Dios)として使われていた建物にあり、その内部の中庭や教会(礼拝堂)も見学した。教会の祭壇は金で豪華に飾られていた。
キト市は、旧市街(Centro histórico de Quito)を含めて、ユネスコの世界遺産第1号の一つとして1978年に登録されている(2)。アンデス山脈の標高2850mの高地にあり、インカの都市が破壊された土地の上に1534年に建設された町である。1917年の地震にも関わらず、ラテンアメリカ中で歴史的姿を最も良く保持している歴史地区があり、豪華に飾られた内部を持つサン・フランシスコ、サント・ドミンゴ、イエズス会の教会などの宗教建築が、スペイン、イタリア、ムデハル、それに先住民の様式を融合させたキトのバロック派の素晴らしい出来栄えの芸術作品となっている、とユネスコのウエブ頁にある。
フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)が率いるスペイン人征服者達がインカ帝国の地にやって来た時、エクアドルで死去した第11代皇帝ワイナ・カパク(Huayna Cápac)の子で、エクアドルに居たアタワルパ(Atahualpa)と、同じくワイナ・カパクの子で、クスコを拠点にしていたワスカル(Huáscar)が次期インカ帝国皇帝の地位をめぐって対立していた。アタワルパがピサロに処刑された後、アタワルパの有力な部将の一人ルミニャウイ(Rumiñahui)がスペイン人達の侵攻を前に、焦土作戦としてキトを破壊したとのことである。
キト市歴史地区中心の独立広場(Plaza de la Independencia, Plaza Grande)にある大統領府・カロンデレ宮(Palacio de Carondelet)の土台が、インカ時代の石組みを残しているという説がある。大統領府は、植民地時代、王立アウディエンシア(Real Audiencia)が置かれた建物である。ただクスコに残っているインカの石組みと比べるとかなり見劣りがする。
大統領府・カロンデレ宮(Palacio de Carondelet)
下の部分は石組みで、石組みの中をくり抜いたように何軒かの店がある。
その土台の石組みの一部
博物館としては、旧市街にあるアラバドの家・先コロンビア美術館(Museo de Arte Precolombino Casa del Alabado)を訪れた。ここの展示品は、3人の個人が収集したコレクションで、芸術的な価値があるものが集められている。展示も、年代順・地理別ではなく、テーマごとで、インカ以前のものも含め先住民のいくつかの文化の芸術的到達度の高さを示す展示となっている。先住民の世界観に基づいて、先祖の世界・地界・精神界の3つの展示室に分け、それぞれの中をまた小分けしている。
日本の国宝となっているような縄文時代の土偶に負けないような造形美を持った像もあり、現代アートとして展示してあっても違和感のないものもあった。展示室も美的に整えられていて、また建物自体も植民地時代の古い屋敷を改装したものである。博物館のウエブ頁によると、何度か修築が行われ、最も古い改修年の記録が石の玄関に次のように刻まれている:
この博物館の名前「アラバドの家」はこの碑文の最初の語alabado(alabar「賞賛する」の過去分詞)から付けられたようである。
アラバドの家
アラバドの家の中庭
独立広場の周りには、大統領府の他に、大聖堂(Catedral Metropolitano)、市庁舎(Palacio Municipal)などがある。広場中央には、独立記念碑(Monumento a la Independencia)があり、ライオンやコンドルなどが象徴するものの説明を受けた。
内部が改装されレストランや喫茶店、ブティックなどが並ぶ商業施設になっている「大司教館」(Palacio Arzobispal)の中では、年配の修道僧の居住区は外の光が入る明るい構造になっているが、新米の修道士の居住区は、修行のためあまり光が入らない構造になっているといったことを聞いた。
大聖堂、サン・フランシスコ教会(Iglesia de San Francisco)、イエズス会教会(Iglesia de La Compañía)などの内部では豪華な金の装飾を見た。「首都文化センター」(Centro Cultural Metropolitano)は、イエズス会の土地だったところで、同会が1622年に設置した大学が置かれたという歴史を持った建物にあり、図書館や美術・博物館がある。「大司教宮」も同様であるが、歴史ある建物を保存しつつ、見学するだけの建物としてではなく、改修して現代の機能を持った建物として生かしている点に感心した。
独立広場、前方左は大統領府
大統領府の前では、政治集会が行われていた。バルコニーでの独立戦争当時の服装の衛兵交代式がちらりと見られた。
「大司教館」(Palacio Arzobispal)の内部