ガラパゴスからは、行きと同じように、グアヤキルで着陸し、給油と乗客の入れ替わりの後、午後5時ごろキトの空港へ帰ってきた。帰国のための夜11時半出発の便に乗るまで、迎えの現地ガイド中里さんに頼んで、キト市旧市街へドライブに行ってもらった。空港と市内を結ぶ高速道路は、通勤の渋滞を避けるため、途中にあるトンネルが時間によって一方通行になるとのこと。今の時間は、空港から市内行き方面は使えないので一般道を進んだ。一車線で、かなり多くの車が行き来しているその道は、かつてインカ道であったとのことである。
インカ道は、インカ帝国が勢力範囲内の交通通信のために、インカ以前に作られていた道の拡張も含めて整備した広大な道路網である。「カパック・ニャンアンデスの道」(Qhapac Ñan - Sistema vial andino)の名称で南米6カ国(アルゼンチン Argentina、ボリビア Bolivia、チリ Chile、コロンビア Colombia、エクアドル Ecuador、ペルー Perú)の申請により2014年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。エクアドル外務省のサイトによると、アルゼンチン中西部とチリからコロンビアの南西部に至るアンデスの道は、全体では約3万km、エクアドル国内では109kmの長さであり、5カ国308ヵ所の考古学サイト、エクアドル国内で49ヵ所の考古学サイトがあるとのことである。ユネスコのサイトによると、世界遺産に登録されたのは、6カ国全体で、5000km以上の長さ、274の構成要素とのこと。自動車が行き交う現代の道となっている我々が通った部分は、世界遺産の構成要素とはなっていないはずではあるが、ペルーのクスコからかなり離れたエクアドルのキトも、かつてはインカ帝国の一部であったことを想い起こさせた。
夕暮れ時の旧市街の町並みは、坂道の両側に鉄柵のバルコニーを備えた植民地時代の様式の住居が並び、街路灯に照らされて美しかった。三角コーンに入ったアイスクリーム一つを手に持って歩道上で立っている女性が一人、二人見られた。最近の流行で、アイスクリーム店の店員が店の外に立って、通過する車の乗客やドライバーに売っているとのこと。新市街の方では、町中の道の脇に並ぶ屋台で夕食を食べている人達が見られた。屋台の中には、menudo(臓物の煮込み)という看板もあった。
夕暮れのキト市 車のナンバープレートは、車を購入して後に申請するシステムなので、写真の黄色いタクシーのように、交付されるまでかなりの期間プレートなしの車が多いとのこと。
道の脇に並ぶ屋台
光で照らされたサント・ドミンゴ教会(Iglesia de Santo Domingo)などを見て、独立広場の周りも車で回った。7つの教会があり、教会の外に十字架が立っているため、7つの十字架通り(Calle de las siete cruces)と呼ばれる通り(正式名; La calle García Moreno: 大統領を務めたエクアドルの政治家(1859–1875)の名から)は初日の午後に訪れてはいるが、この夕方にも再訪した。
その後、夕食のため、空港の近くにある昔のアシエンダ(hacienda)を改造したホテルのレストランに向かった。アシエンダとは、メキシコ、中米、アンデス諸国において、スペインの植民地時代の16世紀末から、独立後の20世紀までも存在していた伝統的な大農園のことである。広大な土地を所有する地主(terrateniente)は、外国や別の土地(都市)に住み、一族の誰かが年に何ヶ月かアシエンダの屋敷に住んで監理し、管理人・監督(mayordomo)を通じてインディオ(indio)すなわち農民(peón)を、農園で働かせていた(1)。エクアドルでは、農民にワシプンゴ(huasipungo)といわれる狭い土地を貸し与え、その代償として労働力を提供させていた。ワシプンゴを貸し与えられた農民(huasipunguero)はそこで小屋を建てて住み自分達が食べるための耕作をした。その代わりに、監督や人夫頭の指図の元で、地主の耕作地の畑仕事、家畜の世話、土木工事、屋敷の家事などに従事させられた。インディへニスモ文学(la literatura indigenista)の代表作の一つ(2)、エクアドルの作家ホルヘ・イカサ(Jorge Icaza)による『ワシプンゴ』(Huasipungo) (1934)(和訳:伊藤武好訳、朝日新聞社刊、1974年)には、アシエンダの所有者である白人の地主が、アメリカ人と資産家の伯父に唆され、神父と村役人と手を組み、チョロ(cholo 混血)の監督や人夫頭を使い、チョロの村人やインディオ農民を酷使し虐待する様が描かれている。現代では、メキシコやペルーでも、昔のアシエンダの土地や建物をリフォームして、リゾートホテルやレストランなどに利用しているものがいくつかある。
夕食をとったホテル、サン・ホセ・デ・プエンボ(San José de Puembo)は、市街地からは離れていて隠れ家的なホテルである。かつてはお屋敷のパティオ(patio 中庭)だったところに屋根が付けられたレストランで夕食を食べた。エクアドルのレストランはどこでもそうであるが、全面禁煙なので、受動喫煙を心配することなく食事できる。2003年第56回世界保健総会において採択され、40か国が批准し、2005年に発効した「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約」(El Convenio Marco de la OMS para el Control del Tabaco)に基づき(3)、エクアドルでは、2011年に「タバコ統制規制基本法」(la Ley Orgánica para la Regulación y Control del Tabaco)が国会で可決された。それ以来、喫煙とタバコ販売が厳しく規制されている(4)。この法律(21条)では、タバコの煙から100%解放された空間として、職場や一般の人の立ち入る場所のすべての閉鎖空間(los espacios cerrados)での禁煙が定められていて、違反の場合(31条)、罰金や施設の一時的閉鎖が定められている。施行法(Reglamento a la ley, 2条、11条)に「閉鎖空間」とは、天井があり周囲30%以上が壁で囲まれている空間で、天井や壁の材質は問わず、換気装置のあるなしに関わらず、恒常的あるいは一時的な施設と説明されている。病院や教育機関では、敷地内の屋外も禁煙とされている(法21条c)。わずかに、高等教育機関の屋外全体の5%以内の屋外、宿泊施設の全体の部屋のうち10%以内の部屋の中のみが、他と明確に区分し、表示することで喫煙を認めることができるとされている(法21条c、施行法13条、14条)。空港を含め、公共機関や一般の人の立ち入る場所に喫煙室を設置することも禁止されているとの議会保健委員会委員長カルロス・ベラスコ(presidente de la Comisión de Salud de la Asamblea, Carlos Velasco)の見解の報道もエクアドルの新聞エル・ウニベルソ(El Universo)にある(5)。
法律とは別に、タバコ税を上げたりしてタバコ代が値上がりしたため、喫煙者を減らすことができているとのことである。日本で、医療費全体の抑制を言うのであれば、職場や公共の場を全面禁煙とし、タバコ税を値上げすべきである。健康保険を使って禁煙治療ができるのであるから、健康保険財政へタバコ税から回すことも不合理ではないと思う。喫煙室を設けることで、喫煙者と非喫煙者の両方に対応していると言う施設があるが、喫煙者が出入りする喫煙室は、タバコの煙を完全に封じ込めることは不可能である。だから喫煙室のある建物は、タバコの煙から100%解放された空間とは言えない。
食事後少し建物内を見学させてもらった。古いシャンデリアがあり、昔の家具調度が置かれ、アシエンダの雰囲気を醸し出している。ホテルのホームページやもらったパンフレットによると、庭園、サッカー場2面、バレーボール場、子供用遊具の他、コンベンションのためのホールや設備、プール、スパ、ジムなどもあるとのこと。またパンフレットには33種の鳥の写真と名前が載っていて、これらのバードウオッチングがここでできるとのこと。警備が厳重で、ここで政府要人などが時々食事や会合をするとのこと、空港から近いことから、コロンビアの政府側と反政府武装組織との間の和平交渉もここで行われたとのことである。
ホテル、サン・ホセ・デ・プエンボの内部