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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

キューバ(1) ハバナ旧市街 編

堀田英夫

2012年8月にキューバのハバナ市(La Habana)に5泊した。成田からのチャーター便は、メキシコ市を経由してハバナのホセ・マルティ国際空港(1)(Aeropuerto Internacional José Martí)に夜11:10に到着した。チャーター便から降りた客は指定されたバスに乗った。パッケージツアーの客が乗った他のバスがすぐにつぎつぎと出ていってしまったが、我々フリースティの客が乗ったFと表示してあるバスは、最後の一台になってからさらにかなりたっても出発しようとしない。乗客がまだ揃っていないと誤解しているのではないかと疑った。だいぶたって二人連れがやってきてようやく空港から出発したのは、時計が既に真夜中を過ぎ翌日午前0時20分だった。0時45分にホテルに着いてもロビーに集められ、鍵をもらって部屋に入れたのは午前1時を過ぎていた。
 ホテルは、新市街のミラマール地区(Miramar)にあった。見て回るべき旧市街との往復にはシャトルバスのサービスがある。見学初日は、ビュッフェではあるものの内容は貧弱な朝食をしっかり食べた後、ホテル前10:45発予定のバスで10:50に出発した。バスは東へ海岸沿いの通り、マレコン通り(Malecón 堤防. Avenida Antonio Maceo アントニオ・マセオ通り)を走り、旧市街に入った。最初に停まる「民芸品宮殿」(Palacio de Artesanía)前で降りた。要塞の一つ、プンタ要塞(Castillo de San Salvador de la Punta 岬の聖救世主城)を見学するために北西へ歩いて向かった。

 (C) 2012 Setsuko H. プンタ要塞を望む


カリブの太陽の下、日差しは強いがこの時は強烈な暑さではない。広い道路を横断し、ロータリーの中の緑地もある広い歩道を行った。入口まで行ったのだが、修復工事のためか閉鎖中で入れなかった。せめて周りからだけでも見ようとうろうろしていたら、Bicitaxi(三輪自転車タクシー)の若者が、乗らないかと声をかけてきた。旧市街を一周するとのこと。値段を聞いたらそれほど高くなかったので頼むことにした。
 三輪自転車タクシーは、2輪の上に二人用座席があり、その前に前輪だけの自転車が付いている。屋根の幌でできる日陰に座りながら、ゆっくりと町を移動することができた。スペイン植民地時代を髣髴させる重厚な建物が並んでいる。2階あるいは3階建てで大きな窓には鉄格子が付き、上の階にはバルコニーが付いている。ところどころ停車して何の建物かを言ってくれる。ヘミングウエイが通ったというボデギータ(La Bodeguita del Medio 途中の小さな酒場 bodega(酒場) + -ita(示小辞) medio(途中))の前を通って、昔の大砲が3本道路に突き立ててあって車両が入れないようにしてあるところで降りた。その先にハバナ大聖堂(Catedral de la Habana)とカテドラル広場(Plaza de La Catedral)があるとのこと。

 (C) 2012 Setsuko H. 昔の大砲を再利用した車止め その向こう側左に三輪自転車


 (C) 2012 Setsuko H. 町中の1コマ


カテドラル広場

カテドラル広場に入って左側に大聖堂(カテドラル)がある。18世紀のキューバ・バロック様式の代表的な建築物である。十字架が立っている中央の一番高いところと同じぐらい左右に広がっていて、さらにその両側に中央より高い塔が立っている。1777年頃に完成した建物で、その10年後に大聖堂としての地位が与えられたとのこと。内部は太い柱に支えられ、天井が高い荘厳な雰囲気である。カテドラル広場は、周囲を大きなお屋敷が囲っている。伯爵や侯爵といった称号を持っていた一族がかつて所有していた18世紀の建物である。古くなった建物を修復したことを示す修復前と後の写真を並べて示した看板がいくつかの建物の前に設置してある。1階部分がレストランやカフェテリアになっている。大聖堂から出て右側の飲食店は、パラソルで日陰を作った下にテーブルがいくつも広場にはみだしている。白装束の女性も一人座っている。観光客相手に占いをする人のようである。

 (C) 2012 Setsuko H. 旧市街の町並み 多くは住宅として使われているようである


 (C) 2012 Setsuko H. まだ修復されてない建物は壁の塗装がはがれたりしている。


大砲による車止めのところに戻り、ボデギータの中を覗いて出てくると三輪自転車の青年が戻ってきた。三輪自転車による散策の再開である。ESICUBAと表示してあるキューバ保険会社、1959年にゲバラがキューバ国立銀行総裁になったというプレートのある建物、サン・アグティン教会、ベルトラン・デ・サンタ・クルス・ホテルなどの前を通った。

 (C) 2012 Setsuko H. 町中にあった食料配給所


ビエハ広場

ビエハ広場(Plaza Vieja 古い広場)でまた三輪自転車を降り、しばらく散策した。かなり広く、中央に8角形の水受けのある噴水、シュロ?のモニュメントなどがある。「古い広場」の名は、別のところにキリスト広場(Plaza del Cristo)が新しい広場として出来てからとのことである。ここも周りには17世紀後半から18世紀に建てられた建物が、20世紀後半に修復が行われ、きれいな姿で並んでいる。建物の一つは、トランプ博物館(Museo de Naipes)の看板があった。
 ラム酒ハバナ・クラブ博物館(Museo del Ron de la fundación Havana Club)も覗いた。ガイドツアーで中を見学できるようだが、三輪自転車を待たせていたこともあり、参加しなかった。

 (C) 2012 Setsuko H. 町中で。San Pedro通りが終わり、Desamparados通りが始まる付近。


レストラン・ドス・エルマーノス(Restaurante Dos Hermanos)、パウラ教会(Iglesia de Paula)などの前を通り、旧国会議事堂・カピトリオ(Capitolio)の前で三輪自転車のツアーが終わった。カピトリオは、工事中で入ることができず、外から眺めることしかできなかった。最初に取り決めた 5クック(CUC 兌換ペソ)を払い、チップに1USドルを渡した。運転手の若者は米ドルにあまり良い顔をしなかったので、以後米ドルは一切使わなかった。ハバナ旧市街をぐるっと楽に回れたのは良かったけど、運転手の若者を待たせていると思うと、いつものようにじっくり時間をかけて建物内を見るという見学の仕方はできなかった。

 (C) 2012 Setsuko H. 旧国会議事堂・カピトリオ


2種類のお金

この部分の記述は、我々が旅行した当時のお金についてである。すなわち1994年から2020年まではキューバでは2種類の貨幣単位が使われていた。2021年1月からは、兌換ペソ(CUC)の流通が廃止され、1種類に統合された。

キューバには、2種類のお金があるあった。外国人用の兌換ペソ(CUC クック peso (cubano) convertible)と国民用のキューバ・ペソ(CUP peso cubano, moneda nacional)である。当時1クックが24キューバ・ペソのレートであった。日本円とのレートは、空港での両替で1クック81.4円だった。外国人観光客用のお金と国民用とを分けることで、国民が生活するのに必要な物の価格上昇を防ぐと同時に、しかるべく外貨を獲得するという政策のようである。ただ、クックを受け取れる外国人観光客相手の職業の人と、キューバ・ペソしか受け取れない職業の人とで、所得格差が生まれているのではないかと思う。

ハバナ大劇場

近くのハバナ大劇場(Gran Teatro de La Habana)の見学に入った。1人2クック計4クックを払った。見学用入口の部屋の壁にタコン大劇場1837年(Gran Teatro de Tacón año de 1837)の表示がある。この劇場の最初の名前と完成した年のようであ(2)。1985年以降は、劇場部分がガルシア・ロルカの間(Sala García Lorca)と名付けられ、大きなダンスホールなども含めて建物全体がハバナ大劇場の名となった。劇場は、土間席の両側に5階までの観客席がある大きなものである。見学した時は、森の中のシーンのような舞台背景が作られてい(3)。ガラス製の丸天井の下に交差する階段がある玄関ホールの向こう側にダンスホールがあった。玄関ホールや階段、ダンスホールも壁や天井は、スペインなどヨーロッパのルネッサンス様式やバロック様式で細かく装飾されている。

 (C) 2012 Setsuko H. 玄関ホールの階段


 (C) 2012 Setsuko H. ダンスホール


婚姻の宮殿

婚姻の宮殿(Palacio de los Matrimonios)にも入った。スペイン・カジノ(Casino Español)として1914年に建てられたネオルネッサンス様式の豪華な建物である。入口を入って、両側にギリシャ彫刻のような彫像がある赤い絨毯が敷かれた階段を登り、上の階の広いホールを見る。ホールにも壁や天井に描かれた絵画などの多くの装飾がある。カジノの面影となるような家具や道具はまったくないが、建物の華美なことで、革命前、ハバナがアメリカ人観光客相手の歓楽の町であった時のことを髣髴させる。
 階段の途中、入口から見て左側の事務所のようなところで、婚姻届の手続をしている新郎新婦と親族・友人がいるのが見られた。婚姻の宮殿の名前は、革命後の現在、婚姻届を提出する役所になっているからである。社会主義国のキューバでは、教会で結婚式をあげるよりも、法律上の結婚式すなわち婚姻届提出を重要視しているようである。提出するのは他の役所でも可能だが、この豪華な宮殿での提出を望むカップルが多いとのことである。ここを見学するのに必要だと言われた1人1クック、計2クックを払うために、10クック札を渡した。1人がその札を持って出て行ってしまった。どこかに両替に行ったらしく、だいぶ待ったものの、ちゃんとお釣りをくれた。

 (C) 2012 Setsuko H. 婚姻届を提出する


 (C) 2012 Setsuko H. 婚姻届提出に立ち会う人たち


革命博物館

革命博物館(Museo de la Revolución)は、立派な建物にある。ここも部分的な修復工事が行われているようで、見学者の入口左の外には足場が組まれていた。1人6クック、カメラ2クック、計2人で14クックを払う。手荷物を預けるようになっている。革命の展示は、写真や新聞の資料、銃などの武器などが展示してあった。フィデル・カストロの演説の一節もいくつか表示してあった。
 ここは、1913年から1920年にハバナ市城壁の堀の上に建設された建物で、大統領府(Palacio Presidencial)として使われた。長方形の中央中庭(Patio Central)を取り囲む4角形の建物で、当初は3階建てだったが、40年代に守備隊を配置するために4階部分が増築されたとのことである。バティスタ(Fulgencio Batista 1901-1973)が大統領だったのは、1940年から1944年と1952年から1959年までなので、守備隊配置の4階部分の増築は、バティスタの指示によるもののようである。カストロらの革命軍が優勢になって、バティスタは1959年末にキューバから逃亡した。革命政府が実権を握ってから、1965年までここを大統領府および内閣府として使用してい(4)。その後1974年に革命博物館とされ今日にいたっている。
 飲物を飲んで休憩しようと、見学者入口近くにあるカフェテリアに入った。そこの床に赤枠の中に白抜きの文字で、Evidencia del Asalto al Palacio Presidencial (13 de marzo de 1957)(大統領官邸襲撃の証拠 1957年3月13日)とスペイン語と英語で書いてあった。銃弾が当たった跡を示した丸もその文字の続きなどにある。この日付から、バティスタ独裁体制打倒のカストロらの戦いに呼応した動きの一つだったことがわかる。その頃は、カストロらがグランマ号でキューバに上陸(1956年12月2日)した後、政府軍の攻撃から生き残った者がシエラ・マエストラ(Sierra Maestra)に集結し、そこからゲリラ戦を戦っていた時である。
 Palacio Presidencial(大統領官邸)のPalacio(宮殿)の名に相応しく、豪華な作りである。北側の正面入口から入る中央玄関の間は、3階まで吹き抜けで、丸天井から光が入るようになっている。大きな窓で、壁や天井の縁に金色の装飾が施されている。2階は回廊になっていて、大きな鏡や装飾付きの照明などがあるホール(Salón de los Espejos 鏡の間)に続いている。閣僚が会議をする部屋には大きなテーブルとヨーロッパ風の椅子が置いてあった。その先に大統領執務室(despacho del presidente)がある。そこに入るのに1人1クック、計2クックをさらに払った。大きなデスクと国旗、デスクの後にはホセ・マルティの胸像、窓にはカーテンがかけてあり、大統領がいたであろう雰囲気を出している。
 建物の周りに庭園として整備された広場があり、見学者入口のある南側の広場には、グランマ号記念館(Memorial Granma)がある。カストロらがメキシコから乗ってきた船グランマ号は、保存のため壁がガラスの建物の中に展示してある。革命前後の戦闘に使われたジープ、飛行機、配達用トラック、改造して装甲車にしたトラクターなども木立の中に展示してある。小包の配達用トラックなどには銃弾の跡が多数ついていた。1962年のキューバ危機(Crisis de los misiles en Cuba キューバでは Crisis de Octubre 10月危機)の際に、打ち落とされたアメリカ合衆国の偵察機U-2の残骸の一部と、打ち落としたソ連の対空ミサイルも展示してある。

支倉常長像

これらを見た後は、付近を散策し、ホテルに帰るためのシャトルバスの乗り場へ向かった。途中、支倉常長像(Estatua de Hazekura Tsunenaga)も見た。仙台育英学園の寄贈で2001年に建立されたとのこと。1614年にメキシコからスペインへ渡航する一行が乗った船が、ハバナに寄港したことにちなみ、日本とキューバの友好のために建立されたとのことである。当時、メキシコからスペインへ行くのにハバナが大西洋横断の前の寄港地であったことが思い出された。


<注>
2012年8月に旅行し、見聞したことと、旅行前後に調べたことを書いた。
以下のような文献やサイトを参照した。
『ラテン・アメリカを知る事典』平凡社, 1987.
加茂雄三編『ドキュメント現代史11 キューバ革命』平凡社,1973
堀田善衛『キューバ紀行』岩波新書,1966(3刷 1968)
Arquitectura Habana.org: http://www.arquitecturahabana.org/
Historiador de La Ciudad de La Habana: http://www.habananuestra.cu/
EcuRed: https://www.ecured.cu/Memorial_Granma
Martín Zequeira, María Elena et al. LA HABANA GUÍA DE ARQUITECTURA,La Habana-Sevilla, 1998. http://infodigital.opandalucia.es/bvial/handle/10326/1089
ユネスコ:http://whc.unesco.org/en/list/204
など。

(1) ホセ・マルティ(José Martí 1853-1895)は、「キューバ独立の父としてキューバ史に不朽の名をとどめている。」「作家、ジャーナリスト、詩人、思想家として多彩な活躍をしながら、キューバ革命党を結成して世紀末の独立闘争を指導した。」加茂雄三編『ドキュメント現代史11 キューバ革命』平凡社,1973, p.44.
ハバナのいくつかの建物でマルティの肖像画や胸像が飾ってあった。

(2) キューバ国立バレー団(Ballet Nacional de Cuba)のサイトにあるこの劇場の説明には、1938年2月にタコン大劇場の名でお披露目されたとある。1937年と1938年の違いは、建物完成とお披露目の違いであろうか。タコンとは、劇場建築を命じたキューバ総督(gobernador)ミゲル・タコン(Miguel Tacón y Rosique 1775-1855. 総督:1834-1852)の姓である。

(3) 「大きな水の伝説」(La leyenda del agua grande)の公演ポスターがあった。この舞台背景のようである。南米イグアスの滝(Las Cataratas del Iguazú)の起源伝説を舞台にしたと国立バレー団のサイトに説明があった。イグアスはグアラニ語で大きな水(agua grande)が語源とのこと:http://www.balletcuba.cult.cu/la-leyenda-del-agua-grande/

(4) 1965年からは、新市街の革命広場近くの革命宮殿(Palacio de la Revolución)にキューバ政府の中枢が移転した。https://www.ecured.cu/ の該当頁を参照した。


※写真はいずれも2012年8月キューバにて撮影 [©️2012 Setsuko H.]

2018/1/17 - 2021/1/26.


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