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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

キューバ(3) ハバナ市要塞群 編

堀田英夫

キューバ到着から4日目に、要塞などを見学した。ユネスコの文化遺産登録の名称が「ハバナ旧市街とその要塞群」(Ciudad vieja de La Habana y su sistema de Fortificaciones)とあり、要塞群(要塞システム)もハバナ市観光の目玉である。
 ハバナ市域の真ん中あたりに北の海岸から、狭い入口を経て、南西に伸びる形でハバナ湾が入り込んでいる。4つの主な要塞が、海から来る外敵からこのハバナ湾を守るために狭い入口の両側に作られている。外海から、北側にモロ要塞(Castillo de los Tres Reyes del Morro)、南側にプンタ要塞(Castillo de San Salvador de la Punta)、少し湾の方向へ入って、北にカバーニャ要塞(Fortaleza de San Carlos de la Cabaña)、南にフエルサ要塞(Castillo de la Real Fuerza)が位置している。
 見学できたのは、この日に見学した順で、フエルサ要塞、カバーニャ要塞、モロ要塞の3つである。プンタ要塞は前述のとおり、閉鎖中で見学できなかった。

カリブ海の中のキューバ(赤丸がハバナ)
d-maps.com(http://d-maps.com/carte.php?num_car=1388&lang=es)のサイトからの地図を一部改変


ホテルのシャトルバスで9:25に出て旧市街に向かった。
 まずハバナ市博物館(Museo de la ciudad de la Habana)を見学した。この博物館が入っている建物は、18世紀に建てられたキューバ・バロック様式の建築である。スペイン植民地統治の要である総監(Capitán General)の公邸であった。1898年にはキューバを統治したアメリカ合衆国の軍政長官(Gobernador Militar)が本拠とした。1902年にキューバが共和国として独立してからは、大統領府となった(大統領府は、1920年に現在の革命博物館に移転)。そして1968年にハバナ市博物館とされ、現在に至っている。
 一人3クック(CUC 兌換ペソ)、計6クックを払って入場する。緑の樹木がある大きな中庭に、孔雀が歩いていた。植民地時代の豪華な家具調度が、当時使われていたように展示してある。当時の馬車、数々の彫刻などの展示もある。建物やこれらの展示品は、ヨーロッパのどこかの屋敷と言われても区別できないほど立派なものが並んでいる。銅製の鍋や壷が並んでいる部屋もある。
 市の博物館を出てから、アルマス広場(Plaza de Armas)に出た。書棚を並べ本を売っている。キューバのスペイン語についての本がないか探してみたが見当たらなかった。

 (C) 2012 Setsuko H. 中庭の孔雀


 (C) 2012 Setsuko H. ハバナ市博物館の室内


フエルサ要塞(Castillo de la Real Fuerza)

1555年にフランスの私掠船により破壊された砦の跡地に、石造りの要塞として1558年から1577年に建設されたものである。南北アメリカで現在も立っている要塞の中で最も古いとのこと。西側の塔の上にヒラルディーヤ(La Giraldilla)のブロンズ像が置かれている。下から見ると小さくしか見えない。現在、オリジナルはハバナ市博物館に展示されていて、塔の上にあるのはレプリカである。要塞の展示部分にもレプリカが一つあった。Giraldilla(ヒラルディーヤ)とは、giralda(風向計)に示小辞(-illa)の付いた語形である。17世紀に塔が建設された時に頂上に設置されたもので、現在はハバナ市のシンボルともされている。作者はGerónimo Martínez Pinzónというハバナ出身者で、キューバ人による最初の彫刻とされている。スペイン国セビリャ市のヒラルダの塔の上にある風向計・ヒラルダ(giralda)をモデルに作られたとのこと、ただセビリャのものは風を受ける比較的大きな板が付いているが、ハバナのには風を受けるような部分が取れてしまったのか見当たらない。
 フエルサ要塞は、中心の正方形の中庭を囲む建物が、これも正方形をなし、その4つの角に三角形の砦が付いている。さらにその外を堀が取り囲んでいる。ハバナ湾(Bahía de la Habana)に面する岸にあり、海上からの攻撃を防ぎ、アルマス広場や、大聖堂の広場の建物群を守る位置にある。
 入場料は、1人3クックだった。要塞建物内は博物館になっている。100分の1の縮尺での要塞の模型が展示してあり、要塞の形がよくわかる。要塞内から発掘された16世紀から18世紀の遺物、海中考古学の成果、帆船の模型や航海の道具などが展示されていた。
 いくつかの部屋は、その部屋へ向かう入口にベルトが貼ってあって、入れない。どうやら係員がチップをもらって通すようにしているらしい。スペイン語でそちらへ行けないのかを尋ねたところ、係員がベルトをはずして通してくれた。スペイン語が通じるからと思ったのか、日本の100円硬貨を見せて、いくらの価値かを聞いてきた。日本人観光客がチップ代わりに渡したらしい。1クックと交換して欲しいと頼まれたので、100円と交換した。

 (C) 2012 Setsuko H. フエルサ要塞の堀 対岸にはカバーニャ要塞が見える


 (C) 2012 Setsuko H. フエルサ要塞の上からみる町並み


別の要塞はハバナ湾の向こう側にあるので、フェリーで渡るため、乗り場へ行った。地元民のためと思われるが、料金は一人1キューバ・ペソ(CUP)で格安である。私たちが両替したレートで1クック(81.4円)が24キューバ・ペソだったから、約3.4円である。船に乗る前には手荷物検査があった。シー・ジャックしてアメリカのフロリダへ亡命する者を警戒しているのかと思った。船の中は、壁際にほんの少しの座席があるだけで、それに座れない我々を含む多くの乗客は、天井に伸びている鉄棒を掴むようになっている。じきにカサブランカ(Casa Blanca 白い家)という地名の対岸に着き上陸した。坂を上り、「ハバナのキリスト像」(Cristo de La Habana)のある丘と道を挟んで「チェ(・ゲバラ)の家」(Centro Cultral Casa del Che)があった。20mの高さがあるというキリスト像は修復中のようで足場で覆われていた。この像は、革命前1957年3月13日の大統領官邸襲撃事件にバティスタ大統領夫人が驚き、大統領が無事だったら、ハバナ市のどこからも見られるキリスト像を建立すると約束してお祈りをしたことにより建てられたものである。イタリアで製作され、分解して運ばれてここで組み立てられたとのこと。1958年12月25日の完成披露に参列したバティスタ大統領は、6日後にキューバから逃亡したのである。
 チェの家(Centro Cultral Casa del Che)は、独裁者バティスタ軍の連隊長(Roberto Fernández Miranda)所有の屋敷であった。連隊長は1959年1月1日に逃亡し、同月3日に、カバーニャ地区(La Cabaña 小屋)を支配するため進軍してきたゲバラが、この屋敷を占拠し司令部とした。 ゲバラは、3月末まで仕事場として使用した。当時の様子を再現した事務室には机、椅子、電話などが展示してある。「革命が勝利すると、どうしたら人々の生活水準の向上を図れるのかを考える必要があった。指導者たちには大きな目標、すなわち農業改革(reforma agraria)、関税改革(reforma arancelaria)、財政改革(reforma fiscal)があり、この場所でこれらについて熱心に議論された。」と説明文が掲示してあった。寝室にはベッド、鏡、タンスなどが展示してある。革命やボリビアでのゲリラ戦で使われていたものなどがガラスケースの中に展示してある。またボリビアからキューバにゲバラの遺骨を運ぶときに使われた小さな棺も展示してあった。キューバ国旗が上に掛けられ、木製の棺の手前には、「エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ」[Ernesto Guevara de la Serna]「チェ」[CHE]と、本名と通称のプレートが貼ってある。
 ゲバラらが別のところに移った後、別の用途で使われたり、閉鎖されていたりしていた。2006年に修復され「カバーニャ・文化センター・チェの家」として公開されたのである。

チェの家を出る前にトイレにいっておこうと、係員に場所を尋ねたが、無いと言われた。他の施設に比べて小さな屋敷なのに1人6クックも入場料を払った。それなのにトイレが無いと平然と言うだけですましている。
 チェの家を出て、歩いてカバーニャ要塞に向かった。このあたりは、チェの家や他の二つの要塞なども含めてモロ・カバーニャ軍事歴史公園(Parque Histórico Militar Morro-Cabaña)とされている区域である。道から少し離れたところに、古い大砲やミサイルが展示されているのが見える。

カバーニャ要塞(Fortaleza de San Carlos de la Cabaña)

カリブの太陽の下、日陰の無い道を歩いて暑かったので、途中にあった民家風レストランに入り、清涼飲料水を飲んで休憩した。その後カバーニャ要塞の前まで歩いた。大きな堀に架かった橋を渡り、立派な石の入口から要塞に入った。一人6クックで2人で12クックを払った。

イギリス軍が1762年にこのカバーニャの丘を利用してモロ要塞とハバナ市を攻撃した。このことからスペイン王カルロス3世(Carlos III)が要塞建築を命じ、1763年に建設が始められた。完成した1774年には、南北アメリカのスペインの要塞で最大だったとのこと。カルロス3世を讃えFortaleza San Carlos de la Cabaña(ラ・カバーニャのサン・カルロス要塞)という名前がついている。平面図を見ると、平べったい2等辺三角形をしている。長い底辺がハバナ湾に面していて、海に向けての防御となっている。陸地側2等辺のそれぞれ真ん中あたりに、堀で囲まれ外へ鋭角を向けた砦が築かれていて、陸地から来る敵を防ぐようになっている。19世紀後半には120から245もの大小の大砲が備えられていたそうである。
 要塞として機能しなくなった20世紀には、倉庫、兵営、監獄として使われた。革命後はゲバラが司令部としていた時期もある。1992年に修復された後、観光スポットの一つとして公開されている。あちこちの建物の中に、武器の展示室、ゲバラの司令部だった部屋、要塞の歴史を見せる展示があり、それぞれ見て回ることができた。武器展示室には、ローマ時代の大きな投石器や兜の展示もあった。広い敷地内を散策し、砦の高いところからはハバナ湾の向こう側の市街を見晴らすことができる。広い敷地なので、1時間半ぐらい中を歩き回っていた。

 (C) 2012 Setsuko H. ゲバラの司令室


 (C) 2012 Setsuko H. カバーニャ要塞の上からハバナ湾の奥を望む


モロ要塞(Castillo de los Tres Reyes del Morro)

カバーニャ要塞からさらに歩いてモロ要塞に向かった。入口のカフェテリアでネスレ(Nestlé)のアイスクリーム(almendrado アーモンドミルク味)を食べてしばし休憩した。モロ要塞の正式名称は、Castillo de los Tres Reyes del Morro(岬の三博士の城)で、ベツレヘムで誕生したキリストを訪れた三博士(Tres Reyes)の名が付いた城であ(1)。入場料一人6クック、2人で12クックを払って中に入った。
 16世紀の初めからハバナ湾は、大西洋の向こうのスペインと植民地南北アメリカを結ぶ航路の要に位置していた。南北アメリカから黄金などの富を運んできてスペインに帰る航海のための水や食料を供給する重要な港であった。南北アメリカから集まってくる富を狙ってフランスやイギリスの許可を得た多くの海賊が何度も攻撃してきている。
 そのためこの要塞は、ハバナ市防衛のため16世紀末にハバナ湾入口の高台に建設された。敷地内の高いところに灯台が建てられ、そこから沖から来る外敵を見張ることができる。岩場の岬の上に建てられたもので、海に突き出ている。陸地側には深い堀が掘られている。ハバナ湾入口の対岸にもプンタ要塞(Castillo de San Salvador de la Punta)が建てられ、入口の両側の要塞によって、ハバナ湾の防御がなされた。1990年代に修復されて後は、観光用に公開され、また文化的な行事に使われている。
 当初の灯台は、17世紀までは焚き木、19世紀初めにガス、後に油を炊いていた。1844年に現在の灯台が建てられ、1944年に電化されたとのこと。灯台には1844という大きな数字が上の方に付けられている。入口の上に4つの窓が縦に並んでいて、さらにその上に灯りと展望台がある。石造りで高さ45m直径5mの円柱とのこと。展望台まで登れるのだが、別料金とのことなので、かなり歩いてきて疲れていることもありパスした。

 (C) 2012 Setsuko H. モロ要塞の灯台


 (C) 2012 Setsuko H. モロ要塞からハバナ湾を望む


モロ要塞の外で待っていた何台かのタクシーの1台に乗ってホテルのシャトルバスの乗り場へ向かった。ちょっと行ったところに、ハバナ湾の対岸へ行く自動車道のトンネル入口がある。そこから入って、対岸へ行き、プエルト通り(Avenida del Puerto. 港通り)にあるサン・ホセ倉庫・市場(Almacenes de San José. Centro Cultural Antiguos Almacenes de Depósito San José)(2)付近まで料金6クックで乗せてもらった。タクシーを降りてから、道端で売っていたとても大きなアボガド2個を5キューバ・ペソ(17円)で買った。今夜食べたいので食べごろのを選んで欲しいと妻が頼んだら真剣に選んでくれた。
 ホテルのシャトルバスの終点・起点がここのはずである。近くのパーラーで飲み物を飲みながら時間まで待つ。19時10分のはずのバスをひたすら待つが、来ない。Bicitaxi(三輪自転車タクシー)の若者が、バスは来ないから乗せてやると声をかけてきたけれど、バスを待った。近くのパーラーでの休憩も含めて2時間近く待った。結局あきらめて、タクシーをつかまえホテルに帰った。買ってきたアボガドを部屋で2人で食べた。ビニャーレス渓谷へのツアーのときもらって食べたのと同じく、これも非常においしかった。

<注>
2012年8月に旅行し、見聞したことと、旅行前後に調べたことを書いた。

(1) 17世紀初めに敷地内に完成した礼拝堂に「城の使命である東方三博士の礼拝の画」と祭壇に書かれていることから勅令によりこの名が付けられたとのこと。 https://www.ecured.cu/Castillo_de_los_Tres_Reyes_del_Morro

(2) サン・ホセ倉庫・市場は、ハバナ湾に面する海沿いに立っている。荷物の上げ下ろしのコストを節約するため、沿岸貿易用小型帆船が接岸することができ、船と直接荷物をやりとりできるような倉庫として19世紀中頃に建てられた建物である。砂糖、蒸留酒、米、衣料品、台所用品などの商品が保管され運搬されたとのこと。革命後の1959年からハバナ州政府のものとなり、現在は、絵画や土産物、飲食などの市場になっている。Centro Cultural Antiguos Almacenes de Depósito San José(旧サン・ホセ保税倉庫・文化センター)という名称にその歴史が示されている。かつては、ここと桟橋を鉄道で結ばれていたようで、建物の前には線路があり、その上に昔の蒸気機関車が展示してあった。 https://www.ecured.cu/Almacenes_de_San_Jos%C3%A9


※写真はいずれも2012年8月キューバにて撮影 [©️2012 Setsuko H.]

2018/2/19 - 2020/5/25.


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