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スペイン語の旅路

スペインのイスラム遺跡 編

堀田英夫

711年に、イスラム教徒が北アフリカからイベリア半島にやってきた。アラブ人が北アフリカのベルベル諸族を率いて征服しに来たのである。そしてラテン語を先祖に持つロマンス語が話されていたイベリア半島にアラビア語ももたらされた。

アラビア語起源のスペイン語語彙

現代スペイン語には、アラビア語から借用された語がかなりある。「今日のスペイン語の単語の8%ほどがアラビア語系のものだという研究者も」(三好.京大スペイン語ポータルサイト)いるそうである。よく使われる一般名詞でアラビア語起源の語を見てみると、イスラム教徒がどんな分野でイベリア半島の文化に貢献したかをうかがい知ることができ(1)

     
algodón 綿、コットン almohada 枕
azafrán サフラン jarra 壷、ジャー
naranja オレンジ guitarra ギター
limón レモン almacén 倉庫/デパート
arroz 米 aduana 税関
zanahoria ニンジン tarea 仕事/宿題
alcohol アルコール ahorrar 節約する

 アラビア語の定冠詞al-(lは後ろに続く子音によってはその音と同じになる)が付いたままスペイン語(など)に入り、al- や a- で始まる語が多い。これらの例からは、作物、道具、楽器、経済などの分野での貢献があったと考えられる。
 語尾がスペイン語に入って、地名から形容詞を派生する語尾となった: marroquí(モロッコの,モロッコ人)など。
 語や語形はラテン語からのものを使っていながら、意味的にアラビア語起源とされる表現や諺も多い:si Dios quiere(神の思し召しにかなえば)など(2)
 いくつかの地名もアラビア語起源とされている。ラ・マンチャ(La Mancha)のマンチャは、アラビア語 manǧa「高原」であるという説がある。グアダルキビル(Guadalquivir)は「大きな川」、グアダラハラ(Gudalajara)は「小石の川」で、wadi「川」の語が含まれているとされ(3)。ジブラルタル(Gibraltar)は、711年にこの地の近くに上陸したイスラム軍の指揮官ターリク・ブン・ジャード(Táriq ibn Ziyad)の名にちなんだ地名で「ターリクの山」(Ẏabal Tāriq)だそうである。

コルドバ Córdoba

アンダルシア州のコルドバ(Córdoba)は、イスラム教の大きなモスク(Mezquita)がある。ただその建物は、スペイン史の再征服(Reconquista)を象徴するように、内部にキリスト教の大聖堂が作られていてモスク・大聖堂(La Mezquita-Catedral)となっている。1984年12月に家族4人で訪れ(4)
 マドリードから列車で午後1時50分にコルドバに着き、予約してあったホテルに荷物を置かせてもらってから、近くのレストランで昼食、その後、モスクを訪れた。ホテルは、モスク北西の壁に沿った道路に面していて、入口まで近く、歩いていけるところにある。

モスク Mezquita-catedral de Córdoba

「許しの門」(la Puerta del Perdón)から入ると、そこはシュロとオレンジが並んで植えられた「オレンジの中庭」(Patio de los Naranjos)である。オレンジの木にはいくつか大きな実が成っている。人の歩く通路は石畳で舗装されていて、建物側以外の中庭を囲む壁は柱廊が立った回廊になっている。イスラム信者が礼拝前に禊をしていた泉/噴水(fuente)もある。建物の入口で入場料(当時1人100ペセータ peseta)を払い、中に入る。
 中は天井に明り取りがあるけれども外の明るさに比べれば暗い。多数の石柱が立ち並んでいる中を歩く。入口から南東の奥に進むとマクスーラ(macsura)というカリフ(califa イスラム教国の王)が礼拝する場所だった一画に至る。その先の壁にメッカ(Meca)の方向を示すミフラーブ(mihrab)がある。コルドバからメッカの方向は東南東のはずだが、ここはほぼ南東を向いているようだ。
 モスクは、南北180m、東西130mの敷地を持ち、北側3分の1が庭で、3分の2が礼拝堂とのこと。アラブ人は征服にあたり、降伏した町と契約しキリスト教会の半分を接収してモスクに使うという方針だったそうで、このコルドバでもモスクの敷地には、「殉教者聖ビセンテ教会堂」(La Basílica de San Vicente Mártir. 6世紀中頃)があったそうである。786年にモスクの建設が始められ、その後イスラム教徒の人口増加により、南への2回(9世紀前半と10世紀中頃)の拡張により、元のキリスト教会堂は吸収されてしまった。また10世紀後半の拡張は、南がグアダルキビル川岸につきあたるため東に拡張された。そのためミフラーブも南壁中央でなく西に寄った位置になった。

(C)1984 Setsuko H. 許しの塔. モスク敷地に入る許しの門がある 1984年12月


(C)1984 Setsuko H. モスク外観 1984年12月


(C)1984 Setsuko H. モスクの内部.メッカ(Meca)の方向を示すミフラーブ(mihrab). 1984年12月


(C)1984 Setsuko H. モスク東側外壁にあるコンセプシオン・アンティグア門(Puerta de la Concepción Antigua 旧御宿りの門.御宿りの聖母という名の礼拝堂があったことによる名前とのこと).1913年に修復されたもの 1984年12月


 コルドバを首都とする西方イスラム世界の最盛期は10世紀中頃だそうである。そのイスラム時代には、モスクの西にかなり大きな敷地を占めるカリフの宮殿があった。現在はその宮殿は無くなっている。
 1236年にキリスト教徒がコルドバを再征服した。そのためモスク内の東西の壁沿いにいくつか礼拝堂(capilla)が作られキリスト教の教会堂として使われた。300年後の16世紀前半に、中央部分にキリスト教の大きな教会堂が作られた。その結果、モスクの広い礼拝堂の中央にキリスト教の大聖堂がはめ込まれたようになっている不思議な光景が見られる。
 モスクを訪れた翌日は、ユネスコ世界遺産に登録(1984年-1994年)されている「コルドバ歴史地区」(Centro histórico de Córdoba)を中心に見学をし(5)

メディーナ・アサーラ Medina Azahara

コルドバで2泊してからレンタカーでグラナダへ向かった。その前にメディーナ・アサーラ(Medina Azahara)に寄った。コルドバから真西、やや北に寄ったところ約7km離れた高台にある。訪れた当時は、まだあまり綺麗に整備されている風ではなく、廃墟、あるいは遺跡という感じだった。2018年に「メディーナ・アサーラ・カリフの都市」(Ciudad Califal de Medina Azahara)としてユネスコ世界遺産に登録された。 (C)1984 Setsuko H. 1984年12月


(C)1984 Setsuko H. 1984年12月


 「マディーナ・アッ・ザフラー」(咲き匂う花の都市)という名で、アブドル・ラフマーン3世の命により、936年に着工、大工事が王の死後も続けられ、計約35年かかって建設されたとのこと。山の中腹で、南方のグアダルキビル川が眺望できる広い敷地の斜面を三段に造成し、上段にカリフの宮殿と宮廷人の住居を建て、中層に庭園、下段に大礼拝堂と一般市民の住宅を造った。宮殿や大礼拝堂は、世界各地から運んだ大理石や金銀などをふんだんに使い豪華に建てられたそうである。80年ほどの繁栄を誇った後、11世紀始めの後継者争いによる戦いで略奪、破壊を受け、その後1000年ほど忘れ去られた存在だったそうである

グラナダ Granada

1492年1月2日にイスラム教徒最後の拠点グラナダが、カトリック両王(los Reyes Católicos)に明け渡されたことにより、711年からのイスラム教徒によるイベリア半島支配が終わった。アルハンブラ宮殿(Alhambra)やヘネラリフェ離宮(Generalife)などのイスラム遺跡がある。「グラナダのアルハンブラ宮殿、ヘネラリーフェ離宮、アルバイシン地区」(Alhambra, Generalife y Albaicín de Granada)の名でユネスコ世界遺産に登録(1984年)されている。
 1984年12月31日夕方、グラナダのパラドール・サン・フランシスコ(Palador Nacional San Francisco 国営観光ホテル)(6)にチェックインして、グラナダで1985年の新年を迎え、1月2日に発つまで、アルハンブラ宮殿やヘネラリーフェ離宮、アルバイシン地区を見学した。同学のT氏夫妻と一部ご一緒した。

アルハンブラ宮殿 Alhambra

アルハンブラ宮殿(Alhambra)(7)は、イスラムのナスル朝(la dinastía nazarí o nasrí)歴代の王の宮殿であった。13世紀から建築が始まり、14世紀まで増築が続いた。16世紀には内部にカルロス5世による宮殿が建てられたり、18世紀には管理されず荒廃したりした。小高い丘が城壁で囲まれ、その中にいくつかの宮殿や庭園がある。
 ライオンの中庭(Patio de los Leones)、天人花の中庭(Patio de Arrayanes)、コマーレスの塔(Torre de Comares)の部屋(Sala)、アベンセラーヘの間(Sala de Abencerrajes)、2人姉妹の間(Sala de las dos hermanas)、浴室(Baño)などを見た。キリスト教徒による再征服後の16世紀に建てられたカルロス5世宮(Palacio de Carlos V)も見た。イスラム建築とはまったく異なる雰囲気の建物である。アルハンブラ宮殿から少し歩いて、ヘネラリフェ離宮(Generalife)にも行った。こちらも中庭の噴水や植栽が綺麗である。
 我々が見学した時は、日本の正月休みと重なっていたため、日本からの何組かのグループも見かけた。その中の男性ガイドさんの1人が、アラブ人は、日本人と同じく床に座って生活していたので、アルハンブラの室内を観るのに、床に座って眺め、当時の人たちの目線から見るほうが良いと話していて、なるほどと思ったのを覚えてい(8)

(C)1984 Setsuko H. 1984年12月


エルチェの椰子園 Palmeral de Elche

エルチェの椰子園もその灌漑施設と共に、イスラム教徒がもたらしたものである。このサイトの「スペイン(4) エルチェ編」で触れた。

(C) 2003 Setsuko H.遊覧列車から見た椰子林


カセレスの地下貯水槽 aljibe

1984年10月のエストレマドゥラ(Extremadura)旅行でカセレス(Cáceres)を訪れ、カセレス博物館(Museo de Cáceres)になっているベレタス屋敷(La Casa/el Palacio de las Veletas 風見鶏の家)を見学した。イスラム遺跡の地下貯水槽(aljibe)も見た。建物は、イスラム時代に砦だったところに当時の地下貯水槽を残して再征服後に建て替えられた。イスラム教徒が、11から12世紀に、建物を立てる時にその基礎の部分の自然の岩を掘り下げて貯水槽を作ったとのこと。10m×15mほどの水槽で、2列のアーチとなっている12本の柱で天井をささえている。上の中庭に降る雨水を貯める。カトリック両王の時代までこの水がカセレス住民に利用されていたそうであ(9)

<注>
「スペイン語の旅路」の何ページかは、2018(平成30)年7月1日に愛知県立大学サテライトキャンパスで「スペイン語の旅路への旅行き」と題して筆者が話した内容の増補改訂版である。2018(平成30)年度愛知県立大学公開講座「県大アゲイン」の第2回として開催されたもの。
前嶋信次『生活の世界歴史7 イスラムの蔭に』河出書房新社,1975.
堀田善衛『スペイン断章』岩波新書, 1979.
Rafael Lapesa Historia de la lengua española, Ed.Gredos, 1980.(V. pp.131-158)
http://whc.unesco.org/en/list/
[三好準之助 スペイン語の多様性-単語の出自から-(2)] https://esp-kyoto-u.com/index.php?action=pages_view_main&active_action=journal_view_main_detail&post_id=19&comment_flag=1&block_id=111#_111
https://mezquita-catedraldecordoba.es/
https://es.wikipedia.org/
などを参照した。

(1) スペイン語でなじみのある語を少しあげた。それぞれの語の語源を王立学士院の辞書[http://www.rae.es/]から、イスパニアでのアラビア語(árabe hispánico)と古典アラビア語(árabe clásico)の語源記載のみ引用する。引用中の“ár. hisp.”は、古典(文章)アラビア語(árabe clásico)と異なるイベリア半島での方言形を意味する。
●algodón 綿: Del ár. hisp. alquṭún, y este del ár. clás. quṭn.
●azafrán サフラン: Del ár. hisp. azza‘farán, y este del ár. clás. za‘farān.
●naranja オレンジ: Del ár. hisp. naranǧa, este del ár. nāranǧ.
●limón レモン: Del ár. hisp. la[y]mún, este del ár. laymūn.
●arroz 米: Del ár. hisp. arráwz, este del ár. clás. āruz[z] o aruz[z].
●zanahoria ニンジン: Del ár. hisp. *safunnárya.
●alcohol アルコール: Del ár. hisp. kuḥúl, y este del ár. clás. kuḥl.
●ahorrar 節約する: De horro. Del ár. hisp. ḥúrr, y este del ár. clás. ḥurr 'libre'.
●almohada 枕: Del ár. hisp. almuẖádda, y este del ár. clás. miẖaddah.
●jarra 壷: Del ár. hisp. ǧárra, y este del ár. clás. ǧarrah.
●guitarra ギター: Del ár. qīṯārah.
●almacén 倉庫: Del ár. hisp. almaẖzán, y este del ár. clás. maẖzan.
●aduana 税関: Del ár. hisp. addiwán, este del ár. clás. dīwān.
●tarea 仕事: Del ár. ṭaríḥa, y este de la raíz del ár. clás. {ṭrḥ} 'echar'.

(2) 田中四郎『アラビアあらべすく』(読売新聞社,1969, pp.140-152)で説明されているアラビア語の「イン・シャーアッラー」(もしアッラーが望みたもうたなら)(p.147)という表現が起源と思われる。未来のことを言うのに「自分の意志以外の多くの原因の積み重ねによって」物事がうまくいったりいかなかったりすることを知っている者が発する言葉で、時に自己の責任のがれや言い訳のために使われることがある。「相手を許し、寛大に処するためにのみ使いたい」(p.152)
 間投詞のojalá(どうぞ~でありますように)にもアラー(Alá)の神の名が入っている。王立学士院辞書の語源説明は、アラビア語の意味を‘si Dios quiere’としている:(Del ár. hisp. law šá lláh 'si Dios quiere')。

(3) 前嶋(1975) p.205にグアダルキビルとは「ワーディー・ル・カビール(大河)のやや訛った形だといわれている。ワーディー(川床)ではなく、川を意味するガディールではないかとも思われる」とある。

(4)  妻の当時のメモによると12月27日土曜日、マドリード・アトーチャ(Madrid-Atocha)駅を8時50分(時刻表は8時45分)発、コルドバ(Córdoba)駅13時50分(時刻表は13時41分)着のタルゴ特急(Talgo. Tren Articulado Ligero Goicoechea-Oriol)114号でコルドバに行った。ホテルは当時使っていたCampsaの地図(Guía CAMPSA España. Campsaはスペイン石油専売公社Compañía Arrendataria del Monopolio del Petróleo, S.A.)に書かれたランクで2星のMarisa、昼食は、同じCampsaの地図のランクで「ガソリン給油機の記号」3つ(3段階の最上)Máxima calidad en la cocina y servicio, Buena bodega(最上級の料理とサービス.良い飲食店)およびフォーク4本(5段階の上から2つ目)Restaurante lujo(豪華レストラン)のレストランEl Caballo Rojo(赤い馬)で食べた。

(5) ユネスコのサイトの説明文では、次のように説明してある。

 8世紀のイスラム教徒の征服によりコルドバの栄光の時代が始まり、300ものモスクや宮殿、公共の建物が建てられ、当時のコンスタンチノープル(Constantinopla)、ダマスカス(Damasco)やバグダッド(Bagdad)と競うまでになった。13世紀のフェルナンド3世(Fernando III el Santo)の時代に大モスクはキリスト教大聖堂に変えられ、「カラオーラ砦の塔」(la Torre Fortaleza de la Calahorra)や「キリスト教徒の王たちのアルカサル」(el Alcázar de los Reyes Cristianos)などの新らしい建物が建てられた。

 我々が見学した中でのイスラム遺跡は、その後の時代に改修されてはいるが、アルモドバル門(Puerta de Almodóvar)ぐらいである。馬車の上からの見学である。イスラム時代にコルドバを囲っていた城壁にあった7つの門の1つで、ここを出て西北西への街道を進むとバダホス(Badajoz)へ行くとのこと。イスラム時代にはジャウズ門(胡桃(の木)の門)という名だったそうである。「キリスト教徒の王たちのアルカサル」(Alcázar de los Reyes Cristianos)も見学したが、これはイスラム時代のカリフの宮殿敷地の一部だったところではないだろうかと思われる。カスティリャ王アルフォンソ11世(Alfonso XI)により1328年に作られた砦と庭園である。
 その他見学したところは、ポトロ広場(Plaza del Potro.子馬 この広場にある地方美術館(el Museo Provincial de Bellas Artes)とフリオ・ロメロ・デ・トレス美術館(el Museo Julio Romero de Torres)は、年末のためか、閉まっていた)、ローマ橋(Puente Romano)、ユダヤ人街(Judería 14世紀のシナゴーグsinagogaがあるが工事で閉鎖中だった)、市立闘牛博物館(Museo Municipal Taurino)。馬車からは、アルモドバル門の他、司教館(Palacio Episcopal)、「街灯のキリスト」(Cristo de Faroles)などを見た。子供達のために動物園(Zoo)も訪れた。

(6) 聖フランシスコ会の修道院だったところをホテルにしているので、この名が与えられている。グラナダがキリスト教徒に再征服されて後、アルハンブラ宮殿の南東の一角が聖フランシスコ会に与えられ修道院にされた。カトリック両王の遺体が、現在の大聖堂(Catedral アルハンブラ宮殿の北西へ少し行ったところ)の王室礼拝堂(la Capilla Real)に移葬されるまで、この修道院の礼拝堂に埋葬されていたそうである。イスラム時代の建物は解体されたけれど、中庭など一部は残っている。19世紀に修道院としては放棄されいくつかの用途に使われ、1954年に国営観光ホテルとして開業した。
 大晦日と新年をここで迎えたので、部屋にシャンパン小瓶2本と、ブドウの粒が入った袋が4つサービスで置いてあった。スペインでは年越しの時間に時計の音にあわせてブドウの粒を食べるのが習慣である。
 パラドールは、夏休みに行ったバレンシア(Valencia)郊外のエル・サレール(El Parador Nacional de El Saler “Luis Vives”)と、11月のガリシア旅行で行ったバイヨナ(Bayona)のもの(Palador Nacional “Conde de Gondomar”)、それにここグラナダのサン・フランシスコの3軒を同時に、マドリードにあるパラドールの事務所まで出かけて、早々と予約してあったため、泊まることができた。係員の女性が親切で、当時は3歳だった下の娘にはサービスの幼児用ベッド/ゆりかご(Cuna)を頼めば無料で泊まれるから良いと予約に入れておいてくれた。
 当時は、名称にNacional(国立の)という語が付いていた。その後はこの語が取れて Parador de Turismo となっている。1991年に株式会社(Paradores de Turismo de España, S.A.国が全株式を保有)の運営となったためかと思われる。

(7) アルハンブラは、アラビア語al-Qal'a al-hamra(赤い城)のal-Ḥamrāʼ(赤い)が語源とされている。

(8) 堀田善衛(1979, p.203)に「この宮殿を鑑賞し、かつての栄華を偲ぶには、どこでも、庭でも室内でも、東洋風に座ってみるのが一番よいのである。アラブの公達(きんだち)たちや王女、後宮の女性たちもすべて、せいぜいクッションを敷く程度で腰をおろして暮らしていたのである。」とある。田尻陽一『エアリアガイド海外32 スペイン』2001(第27版),p.234にもアルハンブラ宮殿は、床にはじゅうたんが敷かれ、クッションが置かれていたので「目の位置は足元」にあり「寝そべってみる建物」としている。

(9) Miguel Beltran Lloris Museo de Cáceres Sección de Arqueología, Ministerio de Cultura, 1982.pp.15-17.



※写真は1984, 1985, 2003年にスペインにて撮影 [©️1984, 1985, 2003 Setsuko H.]
2019/6/8.

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