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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

プエルトリコ(1) サンフアン編

堀田英夫

プエルトリコ(Puerto Rico 豊かな港)の首都サンフアン市(San Juan)にあるイスラ・ベルデ(Isla Verde 緑の島)地区のビーチ沿いのホテルに5泊し、オールド・サンフアン(旧市街 Viejo San Juan / Old San Juan)へ妻と二人で通って観光をした。

プエルトリコ(ピンク色) アメリカ合衆国本土との間には、キューバ、ハイチ、ドミニカ共和国などがある。 d-maps.comのサイトからの地図を一部改変


2016年5月のことで土曜と月曜、火曜は路線バスを往復使った。片道40~50分の道のりである。始めの頃は大人一人75セント分の料金を料金箱に入れていた。通貨は合衆国本土と同じドル(dólar)とセント(centavo)である。だが月曜にフェリー乗り場で入手したバスのパンフに60歳から74歳までは35セントとあり、その後はこの料金で乗った。しかし丁度のこの料金を硬貨で用意するのは難しかったので余分に払ったこともある。路線バスは、紙幣を受けつけず、両替もできず、さらにお釣りもくれないので、きっかりの硬貨を毎回用意しなければならない。バス停に貼ってあった張り紙には “tres pesetas”(3ペセータ)を用意するようにとあった。ペセータ(peseta)とはスペインが2001年にユーロを導入するまで使っていた貨幣単位である。この語がプエルトリコでは、25セント硬貨を意味するようであ(1)

日曜にもホテルの最寄りのバス停で待っていたのだが、いつまでたってもバスが1台も来ない。通りかかりの年配男性が日曜はバスが休みだと教えてくれた。日曜にバス通勤する人はいないのだろうかと疑問に思いつつも、ニュージャージー州から来たという二人の女の子と話がついてタクシーに相乗りし、オールド・サンフアンまで20ドルのところ我々二人は10ドルで行くことができた。彼女らの少なくとも一人はきれいなスペイン語を話した。オールド・サンフアンの中は、無料で利用できるトロリーバス(Trolley)が3路線走っていて、観光スポットを見て回ることができる。トロリーバスは日曜日も運行していた。Trolleyという語はスペイン語の中でもこのまま使われている: “Rutas del Trolley / Trolley routes”(路線図のタイトル), “Trolleys utilizan misma ruta de flujo vehicular de Viejo San Juan.(2)”(トローリーバスはオールド・サンフアンの(他の自動車と)同じ車道を使っている)。ただしこのTrolleyは頭上に架線がなく、ポールで電力供給を受けて走るバスではない。

周囲を城壁で囲まれていたオールド・サンフアンは、「サンフアン小島」(Isleta de San Juan)の西北西へ海に突き出た端に位置し、空港などがあるイスラ・ベルデ地区などとは橋でつながっている。そこのエル・モロ要塞(Castillo San Felipe del Morro 突き出た断崖の聖フェリーペ城)とサン・クリストバル要塞(Castillo de San Cristóbal 聖クリストバル城)は、それぞれかなり大きな要塞で、現在は知事公邸になっているラ・フォルタレサ(La Fortaleza 砦)などとともに、16世紀以来約300年間、サンフアン湾と町を守っていたとのことである。エル・モロ要塞に入場した時にもらったスペイン語と英語の二言語表記のパンフレットに、スペインが1508年から1898年までプエルトリコを支配し、要塞を築いてきた理由として次のようなことが書かれている。大西洋上の貿易風がヨーロッパからこのサンフアンへ吹いていること、ヨーロッパや西アフリカから新大陸へ来る船が水や食料などを調達できる最初の大きな島であること、サンフアン湾の水深が深く、かつ防衛しやすい良港であること、メキシコや中南米の金銀などの数えきれないほどの財宝への扉であることなどである。これらの要塞は、「ラ・フォルタレサとサン・ファン国定史跡」(Fortaleza y sitio histórico nacional de San Juan de Puerto Rico)の名でユネスコの世界文化遺産に登録されている。

エル・モロ要塞(El Morro)   画面右大西洋から左のサンフアン湾へ入る船舶を見張り、必要あれば砲撃できた。


エル・モロ要塞の内側


街中にはスペイン植民地時代を思わせる家々や建物が並んでいる。清潔なきれいな町並みで、ところどころにカフェやレストラン、それに土産物屋などがあった。他には、ラス・アメリカス博物館(Museo de las Américas)、大聖堂(Catedral de San Juan)、本の家(展示場)(Casa del Libro)、観光公社(展示場)(Compañía de Turismo)などを見学し、街路や広場の散策をして、サンフアン門(Puerta de San Juan)、ポンセ・デ・レオン像(Estatua de Juan Ponce de León)、連祷の記念像(La Rogativa)なども見た。ラ・フォルタレサ(La Fortaleza o el Palacio de Santa Catalina)は時間が合わず、サン・ホセ教会(Iglesia de San José)は修復中のため、博物館カサ・ブランカ(Museo Casa Blanca)は門の外に開館と書いてあった曜日にも閉まっているなどして、いくつかは見学できなかった。3日目には、フェリー(lancha)に乗って、サンフアン湾(Bahía de San Juan)を渡り、対岸のカターニョ(Cataño)に行き、そこから路線バスに乗って街中のサンフアンとは違う郊外の車窓見学をした。乗った2路線のうちの1路線は、ガイドブックや旅行パンフに必ずといってもいいくらい載っているバカルディ・ラム工場(Destilería Bacardí)の入り口前を通った。外国人とわかる我々はここで降りるはずと思った乗り合わせた乗客が心配して降車の合図のベルを押そうとしてくれた。別の路線の終点では、サンフアン都市圏の都市鉄道(tren urbano)のマルティネス・ナダル駅(Estación Martínez Nadal)を見ることができた。

オールド・サンフアンの街


オールド・サンフアンからサンフアン湾をフェリーで渡った先のカターニョ(Cataño)の道路。選挙用などの看板はすべてスペイン語表記。


「連祷の記念像」(La Rogativa)


別の角度からの「連祷の記念像」  司祭と松明を掲げて進む3人の女性像。  イギリス軍に3ヶ月ほど包囲されていた1797年4月30日の夜、住民の女性たちが司祭らと一緒に松明やロウソクを掲げてサンフアン防衛を祈る行列をした。夜間の灯火の行列を見たイギリス軍はスペイン軍援軍と思い込み撤退した。結果サンフアンが占領されなかったという言い伝えを記念し1971年に建てられた。オールド・サンフアンの西岸近くにあ(2)


ホテル近くにあったファストフード・レストラン・ロス・ゴルディートス(Los Gorditos. gordo太った人 + -ito示小辞 + -s複数 = 太っちょ達)で、プエルトリコ(とドミニカ共和国)の地元料理のモフォンゴ(Mofongo)をテイク・アウトして食べた。モフォンゴとは、揚げた緑バナナ(plátano verde)を、スープ、ニンニク、オリーブオイル、肉などと一緒に叩き潰したもので、から揚げやスープなどと一緒にお皿に盛られる。注文したのは、チキンスープとモフォンゴ(Caldo de pollo y Mofongo)である。もう一つ緑モフォンゴ(Mofongo Verde)がサービスで付いて税込み4.45ドル(3.99+市税0.04+州税0.42)だった。料理は、まあまあおいしかった。

モフォンゴとチキンスープ


バス料金の小銭を入手するためにも何度かファストフード系の店やテイクアウトを利用した。
 ロス・ゴルディートスでは、注文すると名前を聞かれた。妻がスペイン語で苗字のHOTTAの綴りを言った。できあがると名前で読んでくれるシステムとなっている。料理ができあがって、名前を呼ぶ店員が発音できないようで、レシートを見てとまどっていたので声を掛けた。レシートにはちゃんとHOTTAと印字されていた。初めて見る名前だったのだろう。ちなみに他の店も含めてレシートの言語は、ほとんどがスペイン語ではあるが、いくつか英語が混じっている。

プエルトリコで話しをした相手はそれほど多くはないが、「本の家」(Casa del Libro)で話をした職員二人の内の一人を除いて、誰もがこちらのスペイン語を理解してくれて、スペイン語で話してくれた。ラス・アメリカス博物館の入場券売りの女性は、皆が英語で話してくるのにスペイン語で話せて嬉しいといったようなことを言っていた。無料でもらえる観光客用の地図に載っている飲食店やレンタカーなどの広告は当然英語で書かれているのだが、2種のうち1種は、地図の一部がスペイン語・英語の二言語である(例: Bus Terminal / Terminal de Guaguas, Plaza de la Rogativa / Plaza of Religious Procession)。博物館のパンフやレストランのメニューの多くの部分、フェリー・チケット(半券)(Válido solamente para esta fecha / Valid only for this date)も二言語表記であり、レシートは両言語混在させているものが多い。博物館/美術館の特別展のパンフは、展示内容に依存していたのかもしれないが、スペイン語のみの表記だった。


<注>
2016年5月に旅行し、見聞したことと旅行前後に調べたことを書いた。

(1) “peseta”の意味を示す別の例文:“25 centavos de dolar[sic] o "Cuarto" que es conocida en la isla como peseta” (ペセータとして(プエルトリコ)島で知られている25セントあるいは4分の1)
出典: http://www.numismatica.news/2011/02/segunda-moneda-conmemorativa-para.html
 アメリカ合衆国造幣局による各州・領土ごとのデザイン25セント硬貨シリーズの一つとして、海を背景にエル・モロ要塞の望楼、花 (flor de maga, Thespesia grandiflora) がデザインされ、Puerto Ricoと"Isla del Encanto"(魅惑の島)というスペイン語が刻まれた硬貨が2009年に発行されている。

(2) "trolley" の用例の出典:
http://sanjuanciudadpatria.com/barrios/viejo-san-juan/trolley-2/

(3) 「連祷の記念像」(La Rogativa)の言い伝えの出典:
https://www.cosasdelcaribe.es/la-rogativa-simbolo-de-san-juan-en-puerto-rico/
http://www.callejeandopr.com/callejea/plazuela-la-rogativa-viejo-san-juan



※写真はいずれも2016年5月プエルトリコにて撮影 [© 2016 Setsuko H.]
2017/6/07. - 2022/3/16.

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