帰国の前々日にオールド・サンフアンにあるバヤハ(旧)兵舎(Cuartel de Ballajá)の建物3階に本拠のあるプエルトリコ・スペイン語学士院(アカデミー)(Academia puertorriqueña de la Lengua Española)を訪問することができた。これは、プエルトリコの文化的歴史的観点からスペイン語の正しい使用、保持、研究を目的として1955年に設立され、スペイン語学文学に関する出版などこれまでも活発に活動してきている機関である。スペイン王立学士院(Real Academia Española. 1714年設立)に相当する組織であり、現在23の各国スペイン語学士院からなるスペイン語学士院連合(1)(Asociación de Academias de la Lengua Española)のメンバーの一つとなっている。この学士院連合に見られるように、スペイン語圏の視点からスペイン語の国を数える時は、国の一つとしてプエルトリコを含めるのが普通である。突然の訪問だったため、学士院会員と話をすることはできなかったものの、司書(bibliotecaria)の方と話をすることができ、翌日、役員の一人、事務(長)(secretaria)のMaría Inés Castro教授からメールをもらった。しかし我々の帰国のためお会いすることはできなかった。
バヤハ(旧)兵舎の中庭。ラス・アメリカス博物館やスペイン語学士院など文化施設が入っている。
スペイン語学士院入り口。中に書棚などが見える。
他に、同じくオールド・サンフアン地区にあるサンフアン博物館(Museo de San Juan)で開催されていたスペイン王立学士院の展示: “La lengua y la palabra: 300 años de la Real Academia Española”(言語とことば:スペイン王立学士院の300年)とセルバンテス協会(Instituto Cervantes)の展示: “Quijotes por el mundo”(世界のドン・キホーテ)を見ることができた。これらの展示は2016年3月15日から18日サンフアンで開催された第7回スペイン語国際大会(2)(El VII Congreso Internacional de la Lengua Española)の一貫として開かれていたものである。
王立学士院の展示では、1812年のカディス憲法、宣教のため1523年にメキシコに来たペドロ・デ・ガンテ師(Pedro de Gante)によるアステカの絵文字表記の伝統を利用した『公教要理』(Catecismo de la doctrina cristiana)などがガラスケースの中に展示されていたのが興味深かった。スペイン人による始めての憲法の条文やアステカ絵文字の伝統を利用したキリスト教に関するコミュニケーションもスペイン語の歴史という観点から注目すべきであることを改めて教えられた気がした。
ペドロ・デ・ガンテ師の『公教要理』。Credo(使徒信条)の一節で左頁1行目から右頁1行目、左頁2行目、右頁2行目...と読んでいく。
Creo en Dios uno sólo todo poderoso. | El segundo, creo en Dios Padre.
Tercero, creo en Dios Hijo. | Cuarto, creo en Dios
Espíritu santo. Quinto, creo en | un solo Dios el cual
hizo el cielo y | la tierra y todo
lo visible y | lo invisible. Sexto, creo en ...(3)
ドン・キホーテの展示では、El Quijote en mil lenguas(千/多数の言語におけるドン・キホーテ)のタイトルの中で日本語訳として「西班牙セルバンテス原著日本松居松葉抄訳 鈍機翁冒險譚」(1893)の写真(馬上のセルバンテスが槍を突き出すイラスト付きの色刷り。中扉か?)が示され、またいくつかの訳本のガラスケースの中での展示では、日本語訳(荻内勝之訳2004)全4巻、韓国語訳(朴哲Park Chul訳. 上巻2004)、エスペラント訳(Fernando de Diego訳1977か?)などがあった。
「西班牙セルバンテス原著日本松居松葉抄訳 鈍機翁冒險譚」(1893)の中扉か?
展示会場の外の廊下に「スペイン王立学士院に認められたプエルトリコ語法」(Puertorriqueñismos aceptados por la Real Academia Española)のタイトルでプエルトリコで使われ、学士院のスペイン語辞書に掲載された32の語句とその語義を書いたパネル展示があった。パネルにある語の内、カエル形民芸品・宝飾品広告でcoquí (コキ:プエルトリコ固有種の小さなカエル)、路上の飲物売りスタンドの表示でpiragua (かき氷)、レストランのメニューにあったyautía(根の部分が食用のサトイモ科植物)が別のところでも見られた。pesetaの語の25セントの語義は、パネルにはなく、学士院の辞書最新版(23版。2014年)にも掲載されていない。語形が異なるものは採集することが容易であるけれども同じ語形で語義が異なるものは取り上げることが難しいという例ではないかと思われる。
プエルトリコは、現在、スペイン語と英語両方が差別することなく公用語であり、公教育も両方、あるいは、いずれかの言語で行うと法律で規定されている(1993年法律1号)。スペインの植民地であったプエルトリコが米西戦争の結果1898年アメリカ合衆国軍に占領され、軍司令部の命令192号で政府が使う公用語は英語とされたものの、1902年から1991年まではスペイン語と英語両方が、1991年から1993年まではスペイン語のみを公用語とすると法律で規定されていた(4)。
しかし実際は両言語どちらも同じように使われるわけではないようである。アメリカ合衆国統計局(United States Census Bureau)による家庭で使用する言語についての2006年から2008年のサンプル調査結果では、英語のみを使うとの回答は、4.7%、スペイン語を使うと回答したのは、95.2%である。英語能力についての回答は「非常に上手」(Very well)未満(Spoke English less than "Very Well")、すなわち「上手」(Well), 「上手でない」(Not well), 「まったく」(Not at all)が81.2%とのことである(5)。
プエルトリコには、アメリカ合衆国を構成する他の50州と同じく独自の憲法を持ち、住民が選挙で選ぶ政府と議会を持つ。裁判所もある。そしてプエルトリコ人は合衆国の市民権(ciudadanía)を持つ。私たちは、成田からダラス乗換えでサンフアン空港へ降りたのだが、入国審査はダラスのみであった。帰りのサンフアンからマイアミへのフライトでの入国審査もなかったという点ではアメリカ合衆国の一部と見なせる。しかしプエルトリコ人の市民権には制限があり、合衆国大統領の選挙権がなく、連邦議会下院への代表者は議会での投票権がないとのことである、またプエルトリコ憲法はアメリカ合衆国連邦議会の承認が必要(9条10)といったことがアメリカ合衆国の他の州と違っている。独立国とはいえないものの「国」といえるのか、あるいはアメリカ合衆国の一部と考えるのかが難しいところである。