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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

フィリピン マニラ市 編

堀田英夫

マニラは、フィリピン諸島最大の島、ルソン島の中部西岸にある都市で、フィリピン共和国の首都である。2003年12月末、このマニラに夫婦で7泊し、市内や郊外を見て回った。ここでは、スペイン語の足跡を中心に書くこととする。
 空港からタクシーでホテルへ行った。ホテル入口では車両への厳重なセキュリティー・チェックがあった。タクシーの登録番号等を記録することからはじめ、車のトランクを開けさせ隅々まで目を光らせ、車の下も地雷を探知するような特殊な機械で調べていた。マニラでの移動は、安全のためにタクシーでと考えていた。しかし、これほど厳重なチェックは初めてだったので、この先マニラ滞在にもさらに気を引き締める必要を感じた。一般のタクシーも利用をためらって、ホテルでチャーターした車で見学地を回った。我々が見学していた間ドライバーは車の内外で待っていてくれたのだが、ホテルのユニフォームのチョッキを脱いで、目立たない平凡な白いシャツ姿でいて、目を付けられないようにしている態度を行動の端々に感じた。

イントラムロス Intramuros

マニラ到着の翌日に、ホテルからタクシーで、イントラムロス内のサンティアゴ要塞(Moog ng Santiago, Fort Santiago, Fuerte de Santiago)(1)へ行った。イントラムロスは、パシッグ川南でマニラ湾に近い方にある。城壁に囲まれた地区で、南の入口からタクシーに乗ったまま入る。入口は門になっていて、上の梁にINTRAMUROSの文字が見える。観光名所のいくつかはこの地区の中にある。
 ヌエバ・エスパニャ(Nueva España 現在のメキシコ)から1565年にセブ(Cebú)に来たスペイン人征服者(conquistador)ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(Miguel López de Legazpi)が、より豊かな地を求めて1569年からルソン島に遠征隊を送り、各地の王/首長と戦い占領していった。その1つが、ソリマン王(ラージャ)(Rajah Soliman)が支配するMayniladという名の砦/町であった。ここは、パシッグ川とマニラ湾の水運を利用してアジアの物産を交易するセンターであった。1571年にレガスピが来て、マニラ市設立を宣言し、市議会を設けた。それ以降、マニラが、スペイン王家によるフィリピン諸島支配の首都となった。
 海賊などによる侵略の脅威にさらされたため、全長4.5kmにおよぶ高い石壁により、約64ヘクタールの5角形の範囲を囲った。その中に住居、教会、宮殿、学校、政庁を建てた。出入りは、8つのPuerta(城門)からのみで、門には跳ね橋があり、真夜中前に閉められ、夜明けに開けられたそうである。
 この城壁によりイントラムロス、あるいはCiudad Murada(城壁都市)と呼ばれるようになった。スペイン国王フェリペ2世によってInsigne y Siempre Leal Ciudad(名高く常に誠実な市)の称号が与えられ、スペイン帝国の東洋における政治、文化、教育、宗教そして商業の中心となった。東洋の富がこの町に集められ、港でガレオン船に積まれメキシコのアカプルコ港へ運ばれた。
 イントラムロスは、何度かの地震、台風、火災、戦争を生き延びてきたものの、アメリカがフィリピンを日本から解放した1945年に壊滅的な打撃を受けた。8日間の包囲攻撃で、壁と建物は砲弾で粉々になり、何千人もの犠牲者が出たそうである。
 イントラムロス(Intramuros)とは、語源がラテン語のintrā「~の内で」(前置詞)、mūrōs「壁」(対格複数形)で、「城壁の内」を意味する。現代スペイン語でも「市内で/に、城壁内で/に」といった意味の副詞として使われているようである。スペイン植民地時代には、この城壁で囲まれた都市が、フィリピン支配の首都であり、マニラそのものであっ(2)。現在は、マニラ市の1つの地区であるが、スペイン植民地時代のおもかげを残して城壁や建物を再建する政策がとられている。地区内の建築や営利活動を管理統制しているのは、1979年に設立されたイントラムロス管理局という政府機関である。

サンティアゴ要塞 Moog ng Santiago

イントラムロスの北西角にサンティアゴ要塞がある。要塞入口の手前がちょっとした庭園になっていて、その手前に料金所がある。入場料1人40ペソ×2人で80ペソを払う。現地で両替したレートでは、1ペソ2円弱なので、1人80円ほど。ここでペソと書いた通貨単位は、スペイン語のペソ(peso)が語源で、フィリピン語綴りでは piso であ(3)
 サンティアゴ(Santiago)は、スペインの守護聖人、聖ヤコブのスペイン語である。英語ならSaint Jamesとなる。もらった英文パンフレットにあるスペイン語を拾って書くことにする。多くが砦や要塞の施設の名前なので、なじみのない語ではある。サンティアゴの説明に、Santiago Matamoros(イスラム教徒殺しのヤコブ)が括弧に入れて付記してある。
 料金所を入って左手にBaluartillo de San Francisco Javier(聖フランシスコ・ザビエル小稜堡)、さらにその左に城壁の外に突き出てReducto de San Francisco Javier(聖フランシスコ・ザビエル方形堡)がある。右手にAlmacenes Reales(王の倉庫)、その手前は、Plaza Moriones(モリオネス広場. morrión(へりが反り返った鉄兜)の複数形 morrionesと英語形のmorionの混交形か?)がある。Artillería de Maestranza(工場の大砲)は、発掘調査されているところで大砲や兵器を鋳造していたと説明がある。元は、Maestranza de artillería(大砲工場)という名称だったのではないかと思われる。
 堀にかかった石の橋を渡って、城門の入口へ進む。城門の上には、紋章と、聖ヤコブ(Santiago)の像の浮き彫りがある。中央の大きな紋章は、盾の中の城とライオンはスペイン王家のものと同じである。その上の聖ヤコブ像は、馬上で盾を持ち剣を振りかざしていて、馬の下に倒れた敵が何人かいる。

(C) 2003 Setsuko H. サンティアゴ要塞の城門上の紋章


 中は、レンガ敷きの通路の両側に芝生が敷き詰めてある公園になっている。城門の中の広場はPlaza Armas(武器広場)と名が付いている。要塞の城門の左右にBaluarte de San Miguel(聖ミゲル稜堡)とMedio Baluarte de San Francisco(聖フランシスコ半稜堡)がある。
 パシッグ川へ出るための裏門もスペイン語名である: postigo de la Nuestra Señora de la Soledad(「孤独の聖母の裏門」原文は“del Soledad”とある)
 Casa del Castellano(カスティリャ人の家)が要塞司令官の住居があったところで、地下に食糧倉庫があったとのことである。火薬庫だったBaluarte de Santa Barbara(聖バルバラ稜堡)の手前には、聖バルバラ稜堡の中から第2次大戦後に発見された約600体の遺骨を祀る十字架が立てられている。Falsabraga de Media Naranja(メディア・ナランハ外塁.「半分のオレンジ」で半円形の形からの命名か?)とFalsabraga de Santa Barbara(聖バルバラ外塁)は、川からの攻撃を防ぐために築かれたものである。
 スペインが統治していた時代には、マニラ湾とパシッグ川を見張り、マニラ市を防御する要塞であった。牢獄としても使われ、フィリピン独立の英雄ホセ・リサール(José Rizal. 1861–1896)も、処刑されるまで、ここに捕らえられていた。そのためこのリサールをしのぶ博物館(Rizal Shrine)もある。
 ホセ・リサールは、ヨーロッパ留学で医学と人文学を学び、眼科医であり小説家・文筆家である。スペイン語で小説(4)を執筆し、スペインの植民地支配によってフィリピンにもたらされた不公正を描き、フィリピン独立運動に大きな影響を与えた人物である。武力闘争指導者として捕らえられ1896年12月30日35才の若さで処刑された。12月30日はリサールの日としてフィリピンの祝日になっている。
 第2次大戦中、日本軍がフィリピンを占領していた時も、この要塞を司令部および牢獄としていた。日本の憲兵隊(Kempeitai)によって、数百人の男女が閉じ込められ、拷問を受け、処刑されたところとして恐れられていたとパンフに書かれている。
 サンティアゴ要塞を見学後、リサール公園を通って、ホテルまで帰った。

カサ・マニラ Casa Manila

マニラ到着の5日目に、またイントラムロス内の歴史的建造物を見学した。カサ・マニラ(Casa Manila マニラ家)という建物は、スペイン植民地時代、1850年代の建築を模して建てられ、当時の裕福な家庭の生活を彷彿とさせる博物館である。1980年代に建てられたそうである。
 1階、2階は石造りで、3階は木造である。内部には、植民地時代の家具調度が、当時の生活のように配置してある。スペイン語は、Casa(家)の他に、台所にあった白い筒型の調味料入れにazúcar(砂糖)、sal(塩)とそれぞれ中身を示す語が書かれてあった。

(C) 2003 Setsuko H. カサ・マニラの正面の上、2階、3階を望む。


(C) 2003 Setsuko H. カサ・マニラの裏


聖アウグスティヌス教会 San Augustin Church

聖アウグスティヌス教会(Simbahan ng San Agustin, San Augustin Church, Iglesia de San Agustín)は、「フィリピンのバロック様式教会群」(Iglesias barrocas de Filipinas)の名称でユネスコ世界遺産に1993年に登録されている4つの教会のうちの1つである。ユネスコのサイトの説明によると、4つの教会は、その建築に当たったフィリピンや中国系の職人により、ヨーロッパのバロック様式を再解釈して作られたことで、独特の建築様式を示しているとある。
 イントラムロス内の建物は、ほとんどが一度は破壊されているが、1587年に着工し1607年に完成したこの教会は唯一第2次大戦を生き延びて原形を留めているそうである。最初は、竹製や木造で教会が建てられたが、後にその敷地に石造りで建てられたものだそうである。現在は、聖アウグスティヌス博物館(San Augustin Museum)として、教会と修道院の建物の中を見学することができる。修道院の建物は中庭を囲む2階建てで、1973年に博物館となり、フィリピン、スペイン、中国、そしてメキシコの宝物が展示してある。聖アウグスティヌス修道士によって書かれたフィリピン先住民言語の文法書や辞書も展示されている。中庭は、中央に噴水があり、手入れされた植物がきれいな庭園になっている。
 教会の中は、柱やドーム天井に彫刻のように見える装飾が施されていて、シャンデリアが天井から下がり、豪華な感じがする。壁や床に埋め込まれた墓には、ラテン語の略号(R.I.P. :Requiescat in Pace. 安らかにお休み下さい。)などに加え、スペイン語で、命日(19 MAYO 1857)や建立者(SU FAMILIA「彼の家族」, SUS QUERIDOS HIJOS 「彼女の愛する息子達」)などが書かれている。スペイン人征服者レガスピ(Miguel López de Legazpi)の横たわる像が上にある棺型の墓もあった。
 入るときにもらった英文パンフで、部屋の名前のいくつかは、スペイン語であった:
 Sala recibidor(玄関ホール)、Sala de la Capitulación(祭服祭具室とある。Sala Capitularなら会議室)、Sala de Profundis(profundisはラテン語でprofundumの奪格。de profundisで、旧約聖書詩篇130「深い淵から」 修道士達が食事前にお祈りをする部屋)、1階回廊の1画に、教会内外で祭礼時の行列で使う18世紀のcarroza(祭りの山車)が展示してある。2階に行くと、Claustro de San Pablo(San Pablo Hallの名称とのこと。英語からは「聖パブロの広間」だがスペイン語なら「聖パブロの回廊」と訳せる。見取り図では広間にこの名がついている)、Caja de Obras Pías(基金の部屋)(5)、Biblioteca(図書館)、Oratorio(祈祷室)といった部屋の名前が書かれている。
 フィリピン薬草学の先駆者Fray Blanco(ブランコ師. Fray Francisco Manuel Blanco. 1778-1845)は、この修道院の庭で多くの研究をしたとの説明もパンフにある。英語でFather Blanco と言い換えてあり、スペイン語frayが修道士の名前の前に付ける敬称であることを示している。ただ修道士ならBrotherを付けるところ、英語では神父(padre, father)の扱いをしているようである。Flora de Filipinas(『フィリピンの植物』)(1837)の書名はスペイン語原文のまま示されている。
 英文パンフにある項目は、約3分の2が英語であるが、残りは、スペイン語あるいは、スペイン語を含んでいる。英語で意味を示している部分もあるが、多くがスペイン語だけで、固有名詞的に使っているようである。

(C) 2003 Setsuko H. 聖アウグスティヌス修道院の廃墟。壊れかけた壁が立っている中で、庭はきれいに手入れされていた。博物館になっている修道院とは別棟。


その他のマニラの観光スポット

上に書いた他に、マニラ到着してから3日目に、マニラ動物園(Manila Zoo)へ行った。妻は白い大蛇を体に巻いてもらって写真を撮った。マニラ湾を見てから、ホテル近くのロビンソン・コマーシャル・コンプレックス(Robinson Commercial Complex)の中を見た。
 4日目にヒドゥン・バレー・スプリングス(Hidden Valley Springs)へ、6日目に、パグサンジャン滝(Pagsanjan Falls)へ、ホテルの旅行コーナーで申し込みしたツアーで出かけた。どちらもガイドのドンドンさんの案内で我々夫婦2人のみのツアーである。パグサンジャン滝では、小船で川を遡り、途中の飲料を売っている地点で、小船から筏に乗り換えた。チップがツアー料金に含まれていると聞いていたのに、他の観光客と同じく、筏から滝の裏側に上陸させられ、そこでチップを要求された。濡れるからと、財布も含め荷物は持ってきておらず、ポケットに残っていた小銭をこれしかないと差し出すと筏に乗せて、船の乗り換え地点まで連れ帰ってくれた。

(C) 2003 Setsuko H. ヒドゥン・バレー・スプリングスの密林に囲まれた温泉プール


 マニラ到着5日目には、カサ・マニラへ行く前に、ココナッツ宮殿(Coconut Palace)、民俗芸術劇場(Folk Arts Theater)などを車窓見学した 7日目に、中華街を見て、黒いキリスト像で有名なキアポ教会(Quinpo Church)を訪れ、その後、マニラ郊外にあるマラボン動物園(Malabon zoo)へ行った。この日は、祝日(Rizal Day, 12月30日)だったからか、多くの地元の家族連れがいた。妻はオラウータンと一緒に写真を撮った。動物園では、町中よりは緊張しないで見学でき、観光地とは違って地元の人たちの様子が見られた。
 翌日、タクシーで空港へ行き、帰国便に搭乗することでマニラ滞在を終えた。


<注>
2003年12月に旅行し、見聞したことと旅行後に調べたことを書いた。以下の文献やサイトを参考にした:
http://intramuros.gov.ph/
https://whc.unesco.org/en/list/677
https://en.wikipedia.org/ と
https://es.wikipedia.org/ のいくつかの項目
など

(1) フィリピン語(イタリック)、英語(イタリック)、スペイン語の順で綴りを上げた。
 フィリピンの国語(The national language)はフィリピン語(Filipino)(1987憲法14条6節)で、公用語(the official languages)(かつ教育言語)は、フィリピン語(Filipino)および英語とされている(14条7節)。地方の諸言語も、その地方で補助的公用語としている。憲法にはスペイン語とアラビア語についても言及されている。ただ特別扱いしているわけではない。
https://www.officialgazette.gov.ph/constitutions/1987-constitution/
 ちなみに、ここでフィリピン語と訳した英文憲法中の Filipinoという語形は、「フィリピンの、フィリピン人(男性単数)、フィリピン語」を意味するスペイン語と同形である。言語名を「フィリピノ語」としていることがある。だが日本語での言語名は、形容詞形でなく名詞形に「語」をつけるのが通例なので、形容詞形Filipinoの音訳「フィリピノ」でなく、国名名詞形「フィリピン」に「語」を付けるのが適切と思われる。(ただ国名の語源は、スペイン語の形容詞女性複数形filipinasではある)
 多くの言語が存在し、土地や場面、社会階層などによって複数の言語が使い分けられているフィリピンの中で、多言語の中の1言語であるタガログ語(tagalo)を発展させ国語にすることを目指した政策により、言語名も工夫されている。1943年憲法9条2節では、タガログ語(Tagalog)を国語として発展普及させるとある。独立後の1973年憲法15条3節では、第1項で英語およびPilipinoで憲法を公布するとあり、第2項で、Filipinoとして知られる共通の言語を発展させ正式に採用されるよう立法議会が措置をとることとするとある。さらに第3項で英語とPilipinoが公用語であるとしている。このように1973年憲法では、PilipinoFilipinoという綴りを区別して使用している。この条文での用法に限れば、Pilipinoはタガログ語そのもの、Filipinoはタガログ語を国語として発展させた将来的な言語を意味しているようである。1986年のピープルパワー革命(People Power Revolution)後の宣言3号(PROCLAMATION NO. 3. 1973年憲法の修正)の英文の中に、フィリピンの人々をthe Filipino peopleと表現し、暫定憲法を英語およびPilipinoで公布するとある。すなわちこの条文の中でもPilipinoFilipinoを区別して使っている。Pilipinoはタガログ語のこと、Filipinoは「フィリピンの」という意味の形容詞である。
 タガログ語本来の音声としては[f]と[p]は区別しない。Fの文字は、スペイン語や英語からの借用語や固有名詞にのみ用いられる。スペイン語fは、タガログ語でpになる: Pebrero(2月) < febrero, pino(細かい) < fino, pista(お祭り) < fiesta, preno(ブレーキ) < freno, telepono(電話) < teléfono. したがってPilipinoFilipinoは、どちらもスペイン語 filipino を語源としつつ、Pilipinoがタガログ語固有の音声に馴染ませた語形で、Filipinoがスペイン語音声を保ったままの借入語である。したがって、タガログ語(Tagalog)、PilipinoFilipino、それに英語綴りのPhilippineの名称で呼ばれる言語は、言語としては同じと考えられる。
 フィリピン語については、
Oficina de Educación Iberoamericana, Hispanismos en el tagalo, Madrid, 1972.
森口恒一『ピリピノ語基礎1500語』大学書林, 1990.
山下美知子 Leith Casel『フィリピノ語基本単語2000』語研, 1991(3刷,第1刷:1989)
などを参考にした。

(2) 城壁の外(extramuros, arrabales 郊外)に人が住んでいなかったわけではない。スペイン人の侵略前からいたマレー系、中国系やイスラム教徒などが住んでいたそうである。

(3) 1967年までは、英語に入った peso の綴りを使用していたそうである。1ペソの100分の1が sentimo でこれもスペイン語 céntimo (100分の1)から来ている。英語ではスペイン語起源の centavo で、タガログ語の中で発音上同じ síntabo, sentabo の語形も使われるそうである。
https://en.wikipedia.org/wiki/Philippine_peso

(4)  主な小説は、“Noli Me Tángere”(1887. タイトルはラテン語で「私に触りたいと欲するな」ヨハネによる福音書20-17)と “El Filibusterismo”(1891. スペイン語「スペインからの独立闘争」)である。処刑の前日面会に来た家族に託した小型アルコールコンロに隠して渡した、Mi último adiós(私の最後の決別)のタイトルで知られる辞世の詩も有名である。原文はスペイン語で、14連5句(quinteto)、各連がABAABの脚韻を踏んでいる定型詩である。 スペイン語版(pdf)がネット上で閲覧できる:
https://freeditorial.com/es/books/noli-me-tangere
https://freeditorial.com/es/books/el-filibusterismo
辞世の詩 Mi último adiós。
https://es.wikipedia.org/wiki/Mi_%C3%BAltimo_adi%C3%B3s
Mi último adiósの英訳、タガログ語訳:
https://en.wikipedia.org/wiki/Mi_%C3%BAltimo_adi%C3%B3s
 https://en.wikipedia.org/wiki/Jos%C3%A9_Rizal などを参考にした。

(5) San Agustin MuseumのFacebook(2017年11月27日)によると、この部屋は、聖アウグスティヌス修道院の院長(Prior)の書斎(estudio)であり、院長が祈りを捧げ、来客をもてなすところだったとのことである。そしてまた、Caja de Obras Pías すなわち、浄財を保管するための金庫もここに置いてあったそうである。


※写真はいずれも2003年12月フィリピンにて撮影 [©️2003 Hideo & Setsuko H.]
2018/11/11. - 2024/5/1.

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