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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

コスタリカ(1) サン・ホセ市編

堀田英夫

2002年2月にコスタリカ(Costa Rica)の首都サン・ホセ市(San José)に夫婦で7泊滞在した。筆者は、コスタリカ大学(La Universidad de Costa Rica)で開催された国際学会に参加し研究発表をするのが第1の目的であった。サン・ホセ市滞在を利用して、部分的ではあるが、現地スペイン語の待遇形式の調査・観察もでき(1)。また学会行事がない時には、妻とサン・ホセ市および近郊を訪問した。ここでは、このオフの時間に見聞したことを主に書く。
 サン・ホセ市は、北緯9度56分に位置していて熱帯に属するけれど、火山に囲まれた海抜1300mぐらいの中央盆地(Valle Central)という平地にあるため、あまり暑くも寒くもない気候である。北半球なので、2月は冬と言っていいはずであるが、コスタリカでは12月から4月の乾季をverano(夏)、5月から11月の雨季をinvierno(冬)と言っている。我々が滞在した2月は、1日の最低気温が20度くらい、最高気温が27度くらいで、半袖で過ごせるくらいの気候であった。

サン・ホセ市中心街 Centro de San José

滞在したホテルは、サン・ホセ市中心街(Centro)の北にあり、国立劇場のある文化広場(Plaza de la Cultura)や、大聖堂(Catedral Metropolitana de San José)のある中央公園(Parque Central)は、ホテルから南西にあり、歩いて行けた。国際学会大会の開催されるコスタリカ大学(Universidad de Costa Rica)へはタクシーを使った。料金はほぼ定額で、日本に比べれば高くなかった。

サン・ホセ市中心街は、夕方9時までにほとんどの店が閉まってしまう。一国の首都としては、夜が早いのは、伝統的には農業国だったからだろう(2)。また町中のビルや建物は低層が大部分で、高層ビルは、数軒のみである。

最も高いビルが、国立保険公社(Instituto Nacional de Seguros)で、(2002年当時は)その11階に翡翠(ひすい)博物館(Museo del Jade)があった。保険公社は、1971年以降、コスタリカの先コロンブス期考古学遺物の散逸や国外流出を防ぐため、購入・収集してきていて、博物館で展示している。博物館には、この事業を推進した当時の保険公社総裁の名前(Marco Fidel Tristán)が付けられている。翡翠や石を彫ったり削ったりして作った人物像や動物の像などが展示してあった。上階にあるのでサン・ホセ市の町並みも眺望することができた。

サン・ホセ市の道路は、数字で名前がつけられている。東西に走る道がAvenida, 南北はCalleである。中央公園の1ブロック北を東西に走る中央通り(Avenida Central)と、中央公園の東に接した中央街(Calle Central)を境として、北、南、それに東、西でそれぞれ奇数と偶数で数字が増える。Avenida 9, Calle 7という住所表示だと、中央公園から北東にある場所だということがわかる。
 日本やメキシコなどと比べると違和感を感じる住所表記が見られた。主な建物からの方向や距離で表示しているのである。道路名が書かれているものもある。例えば、あるピザ・レストランの広告で:De la Iglesia Sta.Teresita 400 mts. Este, 100 mts. Norte, Barrio Escalante, San José(聖テレシタ教会から400m東、100m北、エスカランテ区、サン・ホセ市)
 また動物園は、del Parque Morazán 300 mts. Norte y 175 mts. Noreste, San José, Costa Rica(モラサン公園から300m北、175m北東、サン・ホセ市、コスタリカ)と表記している。
 サン・ホセ市で最初に宿泊したホテルは、一度部屋替えをしてもらっても、引き続き上や両隣りや廊下の騒音に深夜までわずらわされたため、近くの別のホテルに引越しをした。(引越しは、筆者が学会出席している間に妻が手続も含めてやってくれた。)その2軒目のホテルは、100 Meters Este Del I.N.V.U., San José, Costa Rica(Instituto Nacional de Vivienda y Urbanismo 国立住宅都市公社から東へ100m、サン・ホセ市、コスタリカ)という表記だった。アクセスの説明なら、空港などからの距離を書くだろうし、国名まで書かないと思う。
 コスタリカへの行きの飛行機で一緒だった学生のホームスティ先は、サン・ホセ市の郊外だったと記憶しているが同じように基点となるところからの距離と方向表示が住所表示だった。

コスタリカ大学 La Universidad de Costa Rica

コスタリカ大学は、サン・ホセ市東の郊外(alrededores)にあり、広い敷地が大学都市(Ciudad Universitaria)として地図に載っている。1941年に設立という国立大学として最も古い歴史を持ち、人文学、社会科学、理学、農学、工学、医学の各分野の学部(facultad)、学科(escuela)が揃っている総合大学である。広いキャンパス(メインキャンパスが31.5ヘクタールとのこと)の中にいくつかの建物が点在している。

参加した学会は、35カ国から計約490名が参加した大規模な学会であった。初日は参加者の登録のために長蛇の列ができ、開会式開始が2時間ほど遅れるという混乱があったけれども、参加者が参列できる講堂があり、文学部(Facultad de Letras)だけでも研究発表のために25の教室を同時に使うことができるような4階建ての大きな建物であった。この文学部の語学文学学科(Escuela de Filología)ではスペイン語を学ぶ外国人のための外国語としてのスペイン語講座も開催している。

コスタリカ国立博物館 Museo Nacional de Costa Rica

コスタリカ国立博物館(Museo Nacional de Costa Rica)は滞在したホテルから歩いて行ける距離にあった。博物館は、かつてベヤビスタ兵営(Cuartel Bellavista)であった建物と敷地を利用している。建物は20世紀前半に完成したもので、砦であり司令部(Cuartel General)でもあったらしい。
 先スペイン期の石の道具や像、土器、ヒスイ製と金製の装身具などの考古学資料、植民地時代のコーヒーなどを挽くために使われた木製の杵と臼、聖像や聖画などを収蔵している。
 最も興味を引いたのは、中庭に鎮座している大きな石でできた球体である。この石球は、コスタリカ南部太平洋岸の6世紀から16世紀にかけて栄えた文化のものであ(3)。現代の技術ならばこのような完全な球体を石で作ることも可能と思われるが、数百年以上前に鉄器も使わずにどのようにこのような完全な球が作れるのか謎である。最大で直径2.57mもの大小の石球が数百個見つかっているそうである。石球を2014年にコスタリカ立法議会が、国のシンボル(símbolo nacional del país)として宣言している。

(C) 2002 Hideo H. 博物館の中庭。中央と左の方に石球が置いてある。屋根の上、左には砦であった時の塔が見える。


esfera de piedra 石球 (Wikimedia Commonsよりリンクで表示)


野党候補者が与党候補者より多数を得票した1948年2月の大統領選挙を、投票所で原因不明の火災があったことにより、立法議会が無効を宣言した。これを直接的な原因とする44日間の内戦が起きた。野党派の指導者ホセ・フィゲーレス(José Figueres Ferrer 1906 - 1990)らが政権軍に対して武装蜂起したからである。内戦の結果、ホセ・フィゲーレス側が勝利し、新政府が樹立された。
 常備軍としての軍隊を廃止した1949年のコスタリカ憲法(4)公布に先んじて、1948年12月1日に、ホセ・フィゲーレス大統領が軍隊の廃止を布告し、このベヤビスタ兵営で、コスタリカの軍事的精神を象徴する壁をハンマーで破壊するという儀式/パーフォーマンスを行ったそうである。そしてかつては軍事上の用途に使われた建物が、1950年に改修され、軍事よりも文化を重要視するという象徴として博物館とされたとのことであ(5)

「昔の村」 Pueblo Antiguo

サン・ホセ市郊外の北西に遊園地(Parque Diversiones)があり、その付属施設として「昔の村」(Pueblo Antiguo)がある。少し距離があるのでバス停をかなり探して、バスに乗って行った。19世紀末から20世紀初めのコスタリカの歴史上意義ある建物が見られる、日本でいう明治村のような施設である。
 20世紀初め頃のサン・ホセ市を中央広場、市場、教会、銀行、消防署、議会、最高裁判所などの建物で再現している。また農村地帯を再現している区域では、農村習慣や伝統として、装飾を施した堅牢な荷車(carreta)や家畜、衣装などを、日干し煉瓦(adobe)や木造の家、牛乳屋、食料品店、コーヒー挽などとともに展示している。装飾が施された荷車もコスタリカのシンボル(1988年政令)である。2005年にユネスコ無形文化遺産(Obra Maestra del Patrimonio Oral e Inmaterial de la Humanidad)に登録されている。19世紀から20世紀前半、2頭の牛で引く荷車が人々の交通・運搬手段であった。個人で所有できた富裕層とは別に、一般の人たちは、集落で共同所有し、大切にして、冠婚葬祭にも使っていたそうである。
 また市電、鉄道の列車などもあって、昔の雰囲気を出している。さらに民族舞踊などのショーも開かれている。1時から劇の上演があり鑑賞することができた

(C) 2002 Hideo H.


(C) 2002 Hideo H. 装飾を施した荷車(carreta)


コスタリカ料理 comida costarricense

ホテルの朝食は、インターナショナルな料理のビュッフェであったが、コスタリカの朝食の定番ガリョ・ピント(gallo pinto 斑点のある雄鶏 元来は前日の残り物を調理したもの)を頼んで食べることができた。米と黒いインゲン豆(frijoles)を混ぜて炒めた料理である。見かけは赤飯に似ていたが少し脂っこかった。
 コスタリカでは、バナナの実をbananoとplátanoとで区別している。生でそのまま食べても甘い種類をbanano、これより大きく緑のまま、あるいは熟してから煮たり揚げたりして食べるのをplátanoと言っている。
 レストラン(restaurante)ほど上品でない食堂のことをsodaと言い、そこで食べられる盛り合わせの定食が、カサード(casado 組み合わされた/結婚した)という料理である。一枚の皿に上にご飯(arroz)、インゲン豆(frijoles)、サラダ(ensalada)、(挽き肉)煮込み(picadillo)、揚げバナナ(plátano)などとメインの牛肉(carne)あるいは鶏肉(pollo)が盛られている。カス(cas)という植物(学名 Psidium friedrichsthalianum)の実から作る甘酸っぱい白濁した飲物もコスタリカの飲物である。メニューには、飲物として、カスやオレンジジュース(jugo de naranja)などの他に、グアナバナ(guanábana トゲバンレイシの実)、タマリンド(tamarindo)、アグアドゥルセ(agua dulce, aguadulce サトウキビの汁を煮詰めて円錐台形に固めたtapa de dulceを湯で溶かした飲物)などの記載があった。

(C) 2002 Hideo H. 「昔の村」のレストランVentolero(突風)(6)で食べた肉のカサード(Casado con carne)とカス・ジュース(cas)



<注>
2002年2月に旅行し、見聞したことと旅行後に調べたことを書いた。
足立力也『丸腰国家~軍隊を放棄したコスタリカ60年の平和戦略~』扶桑社、2009
国本伊代編著『コスタリカを知るための55章』明石書店、2004
Miguel A. Quesada Pacheco, Nuevo diccionario de costarriqueñismos, (1991), 2a ed. 2a reimpresión, 2000
などを参照した。

(1) 研究発表は、“Vocabulario fundamental del español estándar para su enseñanza como lengua extranjera” Actas del XIII Congreso Internacional de la Asociación de Lingüística y Filología de América Latina (2004. CD-ROM. pp.881-891)に収録されている。また、コスタリカ・スペイン語待遇形式の調査・観察の結果は「コスタリカ・スペイン語の待遇形式」『愛知県立大学外国語学部紀要』35号, 2003年, pp.223-236 およびその改訂版を『スペイン語圏の形成と多様性』朝日出版社, 2011年, pp.261-278 で公刊している。

 我々が訪れた時、国立博物館でニコヤ湾(Golfo de Nicoya. 太平洋岸にある)の環境汚染とその対策のための呼びかけの展示があり、そこでもらったパンフレットに、環境保全のために行動しようとvosで呼びかけた文章が印刷されていた。パンフレットには、自然史局と博物館企画局の表示がある:Departamento de Historia Natural - Departamento de Proyección Museológica, San José, Costa Rica, 2001.
 以下パンフレットにある代名詞形と動詞形を拙訳を添えた例文と共に示す。このコスタリカのvoseoの語形は、アルゼンチンのブエノスアイレスの語形と同じである。
 例文中の飛行(vuelo)や光(luz)は、展示タイトル「光と影の間の飛行」(Vuelo entre Luz y Sombra)に使われていることばで、光がニコヤ湾の景色の美しさや生き生きとした動物相を意味し、影が汚染と生物の絶滅の危機を示す。その両方を知ることを飛行と表現しているようである。
 代名詞形
主格 vos Vos decidís dónde termina el vuelo.
君は飛行がどこで終わるかを決める。
前置詞格 vos Ahora a vos te toca decidir.
さあ決めるのは君だ。
目的格 te Ahora a vos te toca decidir.
さあ決めるのは君だ。
所有形容詞 tu Con tu ayuda llega la luz.
君の助けで光がやって来る。
(この文のみではtuteoと同じだが、voseoの文と同じ文脈で使われているのでvoseoの語形と判断できる。)
 動詞形
不定詞 直説法現在
tener tenés tenés que conocerlo
君はそれを知ろうとしなければならない
conocer conocés Ahora que conocés de esto.
今や君はこのことを知っている。
deber debés debés decidir.
君は決めなければならない。
decidir decidís vos decidís por él
君がそれを決める
不定詞 接続法現在
haber hayás Esperamos que hayás vivido un emocionante Vuelo
君が感動的な飛行を体験できたことを私たちは望んでいます。
vivir vivás Recordá que sin importar el lugar donde vivás,
君が住んでいる場所は重要ではない(どこに住んでいるのであろうとこの問題を考えることが必要だ)ということを思い出しなさい。
不定詞 命令形
recordar recordá Recordá que sin importar el lugar donde vivás,
君が住んでいる場所は重要ではない(どこに住んでいるのであろうとこの問題を考えることが必要だ)ということを思い出しなさい。
invitar invitá Invitá a más personas
もっと多くの人を誘いなさい。

 またカルタゴ市(Cartago)で、街角に立っていた宣伝の看板(妻が写真を撮ってきた)には、次のようにあった。
¿Aún no la tenés?
Nuestra Tarjeta de
Crédito de Tiendas La G--.
まだ持ってないの?
私どものLa G--のお店の
クレジットカード
 tenésが、上の表にもあるが、主語がvosの時のtener(持つ)の直説法現在形である。
 Voseoがパンフレットや看板に使われるほど市民権を得ている。

(2) ただし、1950年には農業が国内総生産の60%であったけれども1960年には25.2%に減少し、サービス部門が62%になっている。1990年には3部門のうち工業がトップの49.6%になり、2000年の統計も、工業56.8%、サービス業31.6%、農業11.6%の順なので、もはや農業国とは言えないようである。(『コスタリカを知るための55章』p.23)

(3) 石球、および塚や埋葬地を構成資産として、プンタレナス県(Provincia de Puntarenas)オサ郡(Cantón de Osa)シエルペ地区(distrito de Sierpe)のディキス川三角州(delta del río Diquís)、オサ半島(península de Osa)、カニョ島(Isla del Caño)にある4つの遺跡群が「ディキスの石球のある先コロンブス期首長制集落群」(Asentamientos cacicales precolombinos con esferas de piedra de Diquís)の名で、2014年にユネスコの文化遺産に登録されている。
http://whc.unesco.org/en/list/1453

(4) 1949年のコスタリカ共和国憲法(11月7日公布)の条文:
第12条 ー 恒常的組織としての軍隊は禁止される。
 社会秩序の看視と維持のためには、必要な警察力を置くこととする。
 (アメリカ)大陸内協定によって、あるいは国(民)の防衛のためにのみ軍事力が組織されることができるものとする。どちらも常に文民統制に服さなければならない。(警察も軍隊も)合議することはできず、また個人あるいは集団で声明や宣言を出すことはできないものとする。
ARTÍCULO 12.- Se proscribe el Ejército como institución permanente.
 Para la vigilancia y conservación del orden público, habrá las fuerzas de policía necesarias.
 Sólo por convenio continental o para la defensa nacional podrán organizarse fuerzas militares; unas y otras estarán siempre subordinadas al poder civil: no podrán deliberar, ni hacer manifestaciones o declaraciones en forma individual o colectiva.

(5) 足立力也(2009)によると、コスタリカの軍隊廃止の考えは、かなり以前(100年以上前)から存在していたとのこと。そして内戦に勝利したフィゲーレスが自身の政権基盤を盤石にするため、内戦で戦った相手である旧政府軍の武装解除のみならず、仲間として一緒に戦った指導者との確執から、その指導者の影響下にある「国民解放軍」の武装解除を実行した(p.32)とのことである。ただその結果、軍事に使う予算を教育、医療、福祉にまわすことができ、国民の支持を得てきた。
 軍隊を持たないと宣言したことは、決してゴールではなく、その後、4度も軍事的危機があった中で、軍事力はできるだけ使わないで対処してきた結果、1948年の非武装宣言後、70年以上も平和を保ち、先進国並みの教育、医療、福祉を維持することができたとある。

(6) スペイン王立学士院の辞書には、ventoleroの語形での見出し語はなく、ventoleraの見出し語で、「突風」の意味説明がある。ventoleroはコスタリカでの語形である。


※写真は「Wikimedia Commonsより」と記載したものの他は、いずれも2002年2月コスタリカにて筆者撮影
2018/6/18. - 2024/4/1.

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