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スペイン語学徒のスペイン語国旅行記

アルゼンチン 動詞の地域差 編

堀田英夫

ブエノスアイレス市 Buenos Aires

最高気温37度2分(1996年8月2日)という暑さを記録した真夏の名古屋から、合計24時間半も飛行機に乗り、やっと到着したところは、気温6度、濃い雲がたれ込め、小雨の降りしきる冬のブエノスアイレスだった。ホテルの部屋に落ち着くとすぐ、スーツケースの中から、持ってきた冬服を取り出し重ね着しても、まだ寒くて震えてくる。安いビジネスホテルなので暖房のスイッチを入れていないのかと思い、フロントにつけてくれるよう頼んだけれど、返ってきた答えは、床暖房がちゃんとついているとのこと。30度の気温差を一気に経験した身にはないも同然で、北半球と南半球の季節の違いを身にしみて感じたのだった。幸いにも、寒かったのは雨降りと曇りの日だった最初の2、3日だけで、その後は、太陽が照って15、6度以上の気温で快適だった。

南米のパリとも呼ばれるブエノスアイレス、近代的な建物と19世紀頃に建てられた荘厳な建物が立ち並び、道行く人もヨーロッパ系の人が多く、スペインのマドリードかどこかの大きな町にいるような錯覚を持ってしまう。しかしここは南半球。そのためとまどったことがある。初めての都市で歩き回るとき、晴れた日には太陽の位置と時間で東西南北をおおよそ知ることができるのだが、ブエノスアイレスではどうも様子が違い、1,2度迷子になってしまった。太陽は東から出て西に入るのは同じだが、南ではなく北を通って行くとのこと。太陽の位置から方角を知るのはあきらめざるを得なかった。

(C) 2002 Hideo H. ブエノスアイレス・タンゴ(tango)発祥の地ボカ地区(Boca)・カミニート この土産物店の右から先がカミニート(Caminito; camino道+示小辞-ito =小道)


スペイン語は、地球上の広い地域、ヨーロッパから南北アメリカや、アフリカにも広がっている。公用語としている国も20ヵ国とも21ヵ国とも数えられている。これだけ広い範囲で使われている言語であるため、方言分化してしまい、いつの日にか、メキシコ語とかペルー語、アルゼンチン語とかに分かれてしまうのではないかという心配がある。スペイン語そのものも、ラテン語が変化してフランス語やイタリア語などと分かれて出来てきたという歴史があるからである。方言分化が進み、別々の言語になってしまうのか、それとも一つの言語として存在し続けることができるのかという問いに、直接答えることはできなくても、考えるヒントが見出せるのではないか、傾向なりとも捕らえられるのではないかという興味からスペインや中南米のスペイン語の地域による違い、その違いの歴史に関心を持ち、遥か地球の反対側にやってきたのである。

地域によることばの違い、方言の違いで目立つのは語彙や発音であり、文法の基本的な部分はそれほど変わりはないのが普通である。ところがこの基本的な部分で違いがあるのではないかと考えられることがスペイン語にある。ブエノスアイレス大学文学部の廊下に貼ってあったビラに “¡Estudiá Cine!”(映画を勉強したまえ)とある。ピザ屋の宣伝パンフには、“Comunicáte con nuestra Línea Directa con el Cliente.”(お客様直通電話に連絡下さい)とある。スペイン(やメキシコ、ペルーなど)なら、“estudiá”でなく «estudia»、“comunicáte”(1)でなく «comunícate» であろう。

アクセントが違うのかと早合点しないで欲しい。別のパンフに “PROBALA!!”[probála] (それ(ピザ)をお試し下さい)とある。スペインなら «¡Pruébala!» である。あるスーパーマーケットのチラシで “Llená el cupón y podés ganar ...$25.000!!!” (クーポンに書き込んで25,000ペソが獲得できます!!!)とある。スペインなら «llena» と «puedes» である。痩せる効果があるという石鹸の新聞広告には、“Si querés sentirte más liviana, vestíte con espuma.”(2)(自分をもっと身軽に感じたかったら、泡をまといなさい)とある。スペインなら、«quieres» と «vístete» である。

アクセントだけの違いでなく、動詞の活用形が違うのである。これは、親しい人を示す主格代名詞(主語として使う人称代名詞)が tú ではなく vos を使うことから、2人称複数形から変化した動詞形を使っているからである。これをスペイン語学では、voseo(3)という。相手のことを意味するのに usted を使って話し合っているときは、発音や語彙の違いは別にして、話し相手が主語のときの動詞活用形は、スペインと同じ3人称単数形である。親しくなって、tutear(アルゼンチンでは「話し相手にvosを使うこと」)するようになると、スペインとは異なった動詞形が現れてくる。

アルゼンチンには、vosが主語のときのER動詞直説法現在活用語尾が、ブエノスアイレスなどの “-és” と異なり “-ís” を使う北西地域と、同じ北西部にあって、主語はvosを使うけれど、動詞は、スペインと同じ単数形を使うサンチアゴ・デル・エステロという所があると、研究書にある(4)。今回の旅の目的は、ヒレステーキを腹一杯食べるという他に、現在でもこういう動詞形がそれぞれの地方都市で使っているのかどうかを調べるということであった。

サルタ市 Salta

ブエノスアイレスから北西へ飛行機で2時間、アンデス山脈の麓、サルタ市の比較的小さな空港に着き、タクシーで町中へ進むと、学生時代滞在したメキシコの地方都市の雰囲気を思い出した。ボリビアに近いせいか、先住民系やメスティソ系(mestizo. 白人と先住民両方を先祖に持つ子孫)の人々をよく見かける。古そうな車が走り、信号もあまりない。それに冬のはずなのだが、もう夏の陽気である。

調査の援助を頼んであった、サルタ大学のフェルナンデス先生(Prof. Francisco J. Fernández)の電話番号も住所も知らなかったことに気づいたのは、サルタへ出発する直前だった。日本に居たときにはデスクトップ・パソコンによる電子メールで気軽に連絡しあっていて、メール以外の通信手段を知らなかったことをついうっかり忘れてしまっていた。(この当時、ホテルなどでインターネットを使える環境がなかったし、携帯電話がインターネットに繋がってメールができるようになるのは3年後の1999年以降である。)しかしブエノスアイレスでの調査が順調にできたのと、30年近いスペイン語とのつきあいでラテン気質を身につけていたのか、まったく危機感はなかった。手紙を出しておいた地元方言学のマルトレル先生(Profa. Susana Martorell de Laconi)を訪問したりしているうちに、フェルナンデス先生の方からホテルに電話してきてくれた。直接お会いするのは初めてだったのに、調査の援助はもちろん、市内観光の案内までもしてくれた。サルタ市滞在中に私の誕生日がきたのだが、その夜、asado(アルゼンチンの焼肉パーティー)を自宅で開いてくれた。アルゼンチンで見た一戸建ての家や別荘には、かならずといっていいほど、asadoをする炉が中庭などに作りつけてある。炭に火をおこしたり、肉のかたまりや内臓を焼いて分配するのはその家の主人の役目である。お客と家族で、中庭に置いたテーブルについて、焼いた肉を食べ、かつ、おしゃべりするホームパーティーである。もちろんパンやサラダ、ワイン、それにseñora(夫人)お手製のケーキのデザートもあった。食後はコーヒーやお酒を飲んだりして夜遅くまで話が続いた。

(C) 2002 Hideo H. アーチの向こうは、サルタ市の中心「7月9日広場」(Plaza 9 de Julio)に面して建つアメリカ文化センター。1913年完成の建物で、歴史的建造物(Monumento Histórico Nacional)に指定されている。


サンチアゴ・デル・エステロ市 Santiago del Estero

周囲と異なった特徴を持つスペイン語が話されている「言語島」として有名なサンチアゴ・デル・エステロには、アルゼンチンに来るまでは援助を依頼できる人がいなかった。しかしブエノスアイレスの友人や、サルタ市で知り合った人のおかげで、アルゼンチン・ケチュア語の権威ドミンゴ・ブラボ博士(Prof.Dr. Domingo A. Bravo)など四、五人と連絡をとることができた。この博士のおかげでサンチアゴ・デル・エステロ大学でそこの学生対象に調査をすることができた。

まだ誰とも連絡がとれなかったとき、メキシコやスペインの小さな町の中央にあるのとよく似た、しかも同じように町の中央にある公園風の広場(Plaza Libertad 自由広場)を隔ててホテルの向こう側にある観光案内所(Dirección Provincial de Turismo (サンチアゴ・デル・エステロ)県観光局)に行った。応対をしてくれた女性職員にこの町への訪問目的を話し、協力してくれるかたずねると、“Con mucho gusto.”(喜んで)と言ってくれた。さっそくホテルに戻りテープレコーダーを持ってきて、この町最初の調査をした。公園のベンチで本を読んでいた女子学生にも、普段使っている動詞形を答えてもらった。スペイン語に方言の違いがあるとはいえ、こんな地球の反対側に来ても、十分にスペイン語でコミュニケーションすることができる。突然話しかけた初対面の者にも丁寧に応じてくれる hospitalidad (もてなしの心)もスペイン語圏の人たちに共通している。私にとっては、スペイン語圏の広さと共通性を体験することのできた旅であった。

(C) 2002 Hideo H. サンチアゴ・デル・エステロの中心にある自由広場



<注>
1996年8月にアルゼンチンの3都市を訪問したときのことを書いた。町の様子も現在とは異なっているはずである。『NHKテレビスペイン語会話』1998年8月号(pp.78-81)所収、拙著「リレーエッセイ スペイン語学の冒険(5)アルゼンチン・動詞形の地域差」の一部語句等を修正した。サルタの写真追加。動詞形を示すチラシ等の写真は削除。

(1) スペイン語アクセント符号の規則からは、語末から2音節目にアクセントがあるため符号が不要なので “comunicáte” でなく “comunicate” と表記できる。

(2) アクセント符号の規則から、“vestíte” でなく “vestite” と表記できる。

(3) ここでいうvoseoとは、2人称親称単数(親しい話し相手)で主格前置詞格代名詞がvos、目的格がte、所有形容詞がtu, tuyo、主語がvosに一致させる動詞形が2人称単数形あるいは2人称複数起源形を用いることである。詳細は、拙著『スペイン語圏の形成と多様性』(朝日出版社、2011)の「III.スペイン語2人称の歴史と地域差」(pp.187-304)を参照されたい。
 ここまで見てきた動詞形をまとめてみる。まず命令形で、次のような違いがある。
不定詞(原形) ブエノスアイレス スペインなど
estudiar estudiá estudia 勉強しなさい
comunicarse comunicáte comunícate 連絡を取りなさい
probar probá prueba 試しなさい
vestirse vestíte vístete 服を着なさい
llenar llená llena 満たしなさい、記入しなさい
動詞語形の説明 スペインの2人称複数命令形の語末-dがない形と同じ 直説法現在3人称単数形と同じ
 次に直説法現在形を見る。
不定詞(原形) ブエノスアイレス スペインなど
poder podés puedes ~できる
querer querés quieres ~を欲する
語形の説明 2人称複数起源形


(4) José Pedro Rona(1967) Geografía y morfologá del «voseo», Pôrto Alegre. など。
 以下、先行研究にある vos 動詞形によるアルゼンチンの3区画を comer の語形を代表させて表に示す。
ER動詞直説法現在「(君が)食べる」
ブエノスアイレスなど 北西部(サルタなど) サンチアゴ・デル・エステロ 主語が tú のとき
先行研究 vos comés vos comís vos comes tú comes
2人称複数起源形 2人称単数形
今回の調査結果 ほぼcomés. 大部分comés.
一部comes.
多くがcomes.
一部comés.
 複数起源形と単数形のどちらを使うかの各都市若者対象のアンケート調査では、直説法・接続法・命令形のいずれにおける語形なのか、またどんな動詞なのか、また、話し手(インフォーマント)によっても結果の数値が異なっていて、都市ごとの傾向と言えるのみである。先行研究との違いは、調査時期の違いによるのと農村部も含むのかどうかの違いと考えられる。詳細は、前掲拙著の「アルゼンチン3都市のスペイン語2人称に見る方言形と標準語化」(pp.235-248)を参照されたい。



※写真はいずれも1996年8月アルゼンチンにて筆者撮影。 [©️1996 Hideo H.]
2017/06/13. - 2018/7/14.

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