ドミニカ共和国(República Dominicana)は、カリブ海に浮かぶエスパニョーラ島(La Española)の東部にあり、首都サント・ドミンゴ(Santo Domingo)の旧市街は、「植民地時代都市」(Ciudad Colonial)という名で1990年にユネスコの世界遺産として登録されている。ここは、コロンブス(スペイン語名クリストバル・コロン Cristóbal Colón 1451- 1506)の弟バルトロメ・コロン(Bartolomé Colón 1460 - 1514)によって1496年にオサマ川(Río Ozama)の東側に建設された町が元になっている。1502年にエスパニョーラ島の総督としてスペインから派遣されたニコラス・デ・オバンド(Nicolás de Ovando 1460 - 1511)がオサマ川の西側に移した町が現在の植民地時代都市である。オサマ川の河口が、物資の積み下ろし、また人の行き来のための港として機能していたことがわかる場所にある。
観光地としての植民地時代都市は、主要な建造物を歩いて見て回ることができる。2015年10月に筆者が訪れたときは、きれいに整備され、野球のグランドほどの広々としたスペイン広場(Plaza de España)から散策を始めた。
スペイン広場(Plaza de España)
王室博物館内のアウディエンシアの部屋
前方が長官席で、カメラの後ろに聴訴官の座る椅子が置かれている
大聖堂(アメリカ首座大司教座聖堂)の中央祭壇
ここの歴史的建造物は、「南北アメリカで最初の」という説明がつくものが多い。すなわちスペイン人は、このサント・ドミンゴを最初の足がかりに、カリブ海域各地を探検し、1511年にキューバ島を征服、1521年にメキシコのアステカ王国を滅ぼし、1533年ペルーのインカ帝国を征服していった。そしてドミニカ共和国を含め、カリブ海にあるキューバ、プエルトリコ、大陸のメキシコ、中米(グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマ)、南米のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイといった国々を含む広大な領域がスペイン語圏となったのである。
「スペイン語」という言語名には、スペインという国の名前がついているため、スペイン以外の広大な土地で使われている言語であることが忘れられる傾向がある。「英語」が「イギリス語」という意味が薄れ、イギリスだけでなくアメリカ合衆国やオーストラリアの言語であると意識されているのと対照的である。世界銀行の2014年の人口データ(1)で、スペイン語を公用語とする21か国(プエルトリコとアフリカの赤道ギニアも含む)のランキングを見ると、1位がメキシコで1億2539万人、2位がコロンビアで4779万人であり、3位のスペインの4640万人より多い。話者数の多さからは、スペイン語は、スペインよりもメキシコとコロンビアの方が重要ということになる。経済活動の一つの指標である国内総生産(GDP)について、同じ世界銀行の2014年のデータ(2)で見ると、世界で14位のスペインが1兆4043億ドルで、スペイン語圏中で1位である。メキシコもこれに続き、1兆2827億ドルの世界15位で、スペイン語圏第3位は、少し離れて、世界24位のアルゼンチンで5402億ドルである。これらのデータからは、スペインと同じように他のスペイン語圏の国々も重要であることがわかる。
ドミニカ共和国は、野球で有名であり、政府開発援助(ODA)などで日本との関係が深い。2000年に提訴された「ドミニカ移民訴訟」は、日本の国家と国民との関係を考えるために知る必要がある。世界史的には、ラス・カサス神父(Bartolomé de las Casas O.P. 1474/1484- 1566)に先駆け、この地のドミニコ会士(dominicos)を代表してアントニオ・モンテシーノス師(Antonio de Montesino/Antón Montesino, O.P. c.1475 - 1540)が、スペイン人植民者による先住民への虐待を糾弾した説教を1511年にサント・ドミンゴの教会で行ったことも重要である。また、スペイン語を学んでいる者にとっては、今日の南北アメリカのスペイン語圏が形成された最初の一歩が印されたところとして記憶したい。
※写真はいずれも2015年10月ドミニカ共和国にて撮影 [©️2015 Setsuko H.]