2017年4月のある日、アメリカ合衆国のダラス空港とマイアミ空港を経由し、ボリビアのラ・パス(La Paz)(1)の空港に早朝に到着した。成田を発って、各空港での乗り継ぎの待ち時間を含めて、ボリビアに入国するまで31時間30分の空の旅だった。
ボリビアの正式国名はボリビア多民族国(Estado Plurinacional de Bolivia)である。アルト・ペルー(Alto Perú 高地ペルー)と呼ばれていた土地が、南米解放指導者シモン・ボリーバル(Simón Bolívar 1783 - 1830)の軍によってスペインから解放され、1825年に独立した。ボリーバルに敬意を表し最初はボリーバル共和国(República de Bolívar)を名乗った。2ヶ月弱後、ボリビア共和国(República de Bolivia)という名となり、2009年3月18日の最高政令(Decreto Supremo. 48号)により、現在の国名「ボリビア多民族国」(Estado Plurinacional de Bolivia)になった。
BolívarがBoliviaとされたのは、独立当初の各地方代表者からなる議会でのポトシ(Potosí)代表の「ロムルスからローマなら、ボリーバルからはボリビア」(“Si de Rómulo, Roma; de Bolívar, Bolivia”(2), “si de Rómulo viene Roma, de Bolívar tiene que venir Bolivia”(3)など)という発言から、とのことである。しかしながら、Romaが伝説上の建国者Rómuloにちなんだ名という点は解るが、なぜBolívarがBoliviaという語形となったのかは不明である。Francia(フランス)、Italia(イタリア)、Colombia(コロンビア)など–iaで終わる国名が数多くあるように、この語尾は地域や国を表す。-iaをつけるだけならBulgaria(ブルガリア)のように*Bolivaria(ボリバリア)という語形も可能だったのではないか、あるいは、フィリピン(Filipinas)がフェリーペII世(Felipe II. 1527-1598)にちなんで「フェリーペの島々」(Las Islas Filipinas)とされたように、すなわち形容詞形であることから、Bolívarの形容詞形から、*(República) Bolivariana(ボリバリアーナ共和国)という名称(4)も考えられたはずである。
ラ・パスの空港の正式名はエル・アルト国際空港(Aeropuerto Internacional El Alto)で、アルト(alto)とは、スペイン語で「高い」という形容詞であり、名詞としては「高いところ」を意味する。この名の通り、海抜約4,060mの高地にある。空港のあるエル・アルト市(Ciudad de El Alto)は、ラ・パス大都市圏(Área metropolitana de La Paz)に含まれているが、新興住宅地が広がっていて、富裕層が住む低地のラ・パス市とは別の行政区(municipio)となっている。(帰りの)飛行機内のモニターには、滑走路にいるのに、“Altura(高度) 4,063m”と表示されていた。空気が薄いことを感じつつ、入国審査、委託荷物受取、税関をゆっくり歩いて通り、制限区域を出た。出迎えガイドに連れられて空港建物内数百メートルを歩き、両替所窓口の前まで行ったところで、妻が倒れこんでしまった。ガイドが持っていた携帯酸素ボンベを吸入させていたところ、両替所係員が、通りかかった空港職員に空港の医師(médico)を呼ぶように依頼してくれ、しばらくしてから酸素ボンベと酸素飽和度測定計(パルスオキシメーター)(oxímetro de pulso)を持った人が来てくれた。座った状態で酸素吸入をしばらく続けた後、ようやく歩けるようになった。
筆者も思考力・記憶力の低下、頭痛、消化不良といった症状を感じており、海抜約3,650mのラ・パスの市内を、いつもの観光のように歩き回るのは無理であった。初日は550ccの携帯酸素ボンベ2本を二人で空にしつつ、意識して腹式呼吸したり、水分を頻繁に補給したりしてなんとか乗り切った。
ラ・パス市は行政・立法上の首都(5)である。最初にムリーリョ広場(Plaza Murillo)に車で連れて行ってもらった。ここが、当初はマヨール広場(Plaza Mayor)、後にアルマス広場(Plaza de Armas)という名であったように、他のスペイン語諸国にも見られる市の歴史的な中心である。独立のため蜂起し、1810年にこの広場で処刑されたペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ(Pedro Domingo Murillo 1759-1810)にちなんで現在の名が付けられたとのこと。周りに大聖堂(Catedral)、大統領官邸(Palacio de Gobierno, 1875年の火事により俗称がPalacio Quemado「焼けた宮殿」)、国会議事堂(Palacio Legislativo)がある。建物は他のスペイン語圏と似ているものも多いのだが、高地のため、道路はすべて急な坂で、まったく異なる景観であった。広場も傾斜地を平らにして作ったようで、広場にある道路元標(Kilómetro Cero)のプレートや広場の名称由来を示すプレートも地面に水平にあるのではなく、傾斜地の低い部分を高くするための段の横面に垂直に設置されていた。
ムリーリョ広場(Plaza Murillo)と国会議事堂
議事堂正面には2014年6月に数字と針が逆回りの、左回りの時計が掲げられた。南半球にあるボリビアが、今こそ自分たちのアイデンティティを回復する時であることを示すため北の時計と逆の、南の時計(reloj del sur)にしたとのこと。日時計の影が南半球では北半球と逆に動くことから理屈には合っている。写真では8時25分を示している。
その後、車で移動し、スペイン時代の様相が保たれた街路で、いくつかの博物館のあるハエン通り(Calle Jaén)、サンフランシスコ教会(Basílica de San Francisco)を見た後、車窓から魔女市場(Mercado de las brujas)を見てから、公共交通機関となっているロープウエイ(Mi teleférico)に乗った。2014年開通のこのロープウエイは、各駅名がアイマラ語とスペイン語でつけられていて、前者の方が大きく表記されている。先住民出身エボ・モラレス(Evo Morales 1959 - )大統領が就任(2006年)してから施行した憲法(2009年)に、スペイン語のほかに36の先住民言語が国の「公用語」(idiomas oficiales del Estado)であるとされている(6)ことからすると、先住民言語の復権や公の場での表記推進政策の一環のようである。黄線(Línea amarilla)の起点Qhana Pata / Mirador駅(7)から乗り、Chuqi Apu / Libertador駅で緑線(Línea verde)に乗り換え、終点Irpawi / irpavi駅まで乗って、ラ・パス市街を空中から座ったまま観察した。
ロープウエイ(Mi teleférico)からの街並